キャンパスが美しくなるとき

中村 信博 (宗教部長・聖書)

新年を迎えて

2012年、新しい年の始業の日を迎えました。改めて新年のお喜びとご挨拶とを申しあげたいとおもいます。

新しい年の初めと言っても12月31日と1月1日で何か特別に変わるわけではありません。 むしろ、新しい年は人間が定め、人間の習慣のなかで、年の終わりと年の初めとが決められてきました。変わるのは時間の過ぎ方ではなくて、人間のこころの持ち方なのかもしれません。たとえば、キリスト教の伝統においては、クリスマスを前にしたアドベントとか待降節と呼ばれるほぼ一ケ月前から、新しい年が始まると考える習慣があります。救い主イエス・キリストの誕生とその出来事を待ち望む気持は、そのまま古い時間に別れを告げ、新しい時間に望むときでもあるのです。

体験として

今朝、私は、135年に及ぶこの大学の長い歴史のうちのほんの20数年に過ぎませんけれども、私が見て体験したこの大学のふたつのキャンパスの歴史と言いますよりも、むしろ印象というべきかもしれませんが、ふたつのキャンパスでの体験を通して、私自身が感じ考えてきたことをお話ししたいとおもいます。思い出話のようになりますことを、予めお詫び申しあげておきたいとおもいます。

初めての今出川キャンパス

私が同志社女子大学のキャンパスをはじめて知ったのは、1972年10月1日だったか、2日のことでした。もう40年も昔のことになります。高校2年生の秋に修学旅行で京都に参りました。自由行動となったその日、友人たちと哲学の小径から、銀閣寺をへて、今出川通りを西に向かって京都御苑の側(南側)を歩いていたときのことでした。反対側に赤煉瓦と緑の芝生の美しい学校の景色が広がっていて、私は、おもわず京都をよく知る友人に、「ここは学校なの?」と尋ねたのでした。それは、私のなかで同志社女子大学と「美しいキャンパス」というイメージとがピタリと重なった瞬間でした。まだ、ジェームズ館の前の図書館もなく、お隣の女子中高の清和館も古いままで、栄光館を中心にしたシンメトリックな校舎の配置はとても印象的でした。そして、建物の赤煉瓦とその前の芝生のコントラストが秋空に映えて、世の中にこんなに美しい大学があるのかと驚いたことは、いまもはっきりと憶えています。 ただ、そのとき、この美しいキャンパスの大学で働く日がこようとは想像だにできないことでした。

京田辺キャンパス

いっぽうで、京田辺キャンパスとの出会いを申しますと、1986年4月のことになりますから、美しい今出川キャンパスと遭遇して、すでに14年が過ぎていたことになります。 1986年は同志社と私たちの女子大学にとっては大変な変革の年でありました。昨年11月5日に、京田辺開学25周年の記念式典が開催されましたが、1986年は、同志社女子大学も同志社大学と一緒に、本格的に京田辺キャンパスを利用し、新しい時代にふさわしい教育の実現をめざして、一歩踏み出した年であったからでございます。私は、その年に多くの教職員の方々とともに、同志社女子大学の一員に加えていただきました。

沙漠のような

それで、初期の京田辺キャンパスはいったいどんな様子であったのかと申しあげなければなりませんが、率直に申しあげて、とても高校生の頃に今出川キャンパスに憶えたあの「美しいキャンパス」という印象には、ほど遠いものであったと言わなければなりません。創立125周年のときに編まれた『同志社女子大学125年』という記念写真集にはその頃の写真も残されていますから、ぜひご覧になっていただきたいとおもいます。本学の公式サイトでも見ていただくことができます。その中に、一枚の航空写真がありますが、確認できる主な建物は、恵真館(体育館)と南側一列だけの知徳館、そして頌啓館だけです。言葉が過ぎることをお詫びしながら申しあげますが、当時の私には、天候によっては砂埃が舞う、それはまるで沙漠のなかのキャンパスのようでした。 もちろん、そのキャンパスの印象は、それでもなお新しい時代の同志社女子大学の発展の為に、一歩を踏み出そうとされた、先人たちの勇気と努力と高い志の結果であったことも忘れてはならないものであります。そして、それとともに、あの頃、京田辺キャンパスで、そんなことを意にも介さないようにして、熱心にそして高い向上心をもって学んでおられた多くの学生のみなさんのことも、忘れることはできません。

キャンパスの整備

京田辺キャンパスは、その後、北側の知徳館、新島記念講堂、聡恵館(図書館)、友和館、憩水館などの新設とキャンパス整備が進み、いまは文字通り、今出川キャンパスとともに、私たちの大学を語るのにふさわしい「美しいキャンパス」にと変貌を遂げて参りました。 推薦入試の志望理由書や面接などでも、「キャンパスがどこの大学よりも美しいので志願しました」と告げてくださる受験生に出会うことも珍しいことではなくなりました。私は、そういう方に出会うたびに、ひょっとしてこの方も、私が高校生のときに、今出川キャンパスに初めて出会ったときのような感動を覚えておられるのかもしれない、とおもうことがあります。

美のこころ

しかし、ここで改めて考えておきたいのですが、そもそも「美しい」とはどんな事態をさすのでしょうか。京田辺キャンパス開学の春に、この長い歴史をもつ女子大学の一員に加えていただいて以来、私は密かに自分のなかに課題を持ちつづけてきました。それは、この京田辺キャンパスが美しくなる日がいつなのか、見届けてみたいという思いでありました。そんな課題を忘れることなく、それ以来、京田辺キャンパスに通いつづけることができたのは、高校生のときの余りにも美しいと感じた今出川キャンパスとの出会いがあったからかもしれません。

ところが、不思議なことに、私が京田辺キャンパスを美しいと感じるようになったのは、キャンパスに新しい建物が次々と建てられたからでも、キャンパスの環境が整備されてきたからでもありませんでした。そうしたことと無関係ではありませんけれども、キャンパスの美は、かならずしもキャンパスの整備に連動するわけではない、それが目下のところの、私の仮説でございます。

卒業生の足音が聞こえる

校舎の増設や環境整備とは無関係に、いつの頃からか、まだ沙漠のようにしかおもえなかったキャンパスを私は美しいと感じるようになっていました。手短に申します。何年かすると、何もかもが新しかったキャンパスに、最初の頃に感じられなかった、卒業生たちの足音が、少しずつですが、聞こえるようになってきたのです。仕事で夜遅くなって、ひとりでキャンパスを歩いて帰ろうとすると、私の耳の奥底に卒業していったみなさんのキャンパスを歩く足音と明るく屈託のない弾んだ声が聞こえてくるようになったのです。もちろん、錯覚と言えばそれまでですが、卒業していった方たちの人影が感じられるようになってきたのでした。

私が知るだけでも、キャンパスにはいろいろなことがありました。きょう時間がなくて、とてもそのひとつひとつを申しあげられませんけれども、一本の植樹にしても、壁に掛けられた一枚の絵画にしても、また、聖書の言葉にしても、ひとつひとつに物語があるのです。

熟する美

鎌倉時代の禅僧、道元に、《松も時なり、竹も時なり。時は飛去(ひこ)するとのみ解会(げゑ)すべからず。》(『正法眼蔵』「有時」より)という言葉があります。つまり、「時間というものは、過ぎゆくものとばかり考えるのではなく、松も竹も、そうした景色もまた時を刻んでいるのだ」というのです。そして、ある哲学者は、この時間の流れ(時)と芸術作品がもつ美との関係を考察して、《一回的な歴史世界の作品が、時を隔てたわれわれを感動させる所以のものは、時熟の瞬間の「反復」というほかはない。反復を経たものは、元のものとは異なる。…逆にいえば、反復を経て存続するような生命力をもったもののみが「作品」たり得る。》(大橋良介『時はいつ美となるか』中公新書、1984年、19ページ)と洞察しています。

かけがえのない「いま」

私は、キャンパスが美しくなるために必要なのは、この反復なのではないかとおもえてなりません。キャンパスでは、いわば毎年同じように新入生を迎え、4年、あるいは6年間の所定の課程を終えて、今度は卒業生として見送っていくことになります。 この同じことの繰り返しともおもえる時間のなかで、誠実に、忠実に、「いま」というかけがえのない時間を、その時、その都度の、学生のみなさんと分かち合いながら、キャンパスは美しく成長してきたのではないでしょうか。

神は良しとされた

けさお読みいただいた創世記1章には、神が自ら創造されたこの世界、さきほどは3節を読んでいただきましたけれども、自ら創造された光を見て、「良しとされた」と書かれていました。神は、この世界を「良し」とされたのです。それは、客観的な基準に合格した、という意味ではありません。旧約聖書が書かれたヘブライ語ではトーブという言葉が使われていますが、むしろ、それは「喜ぶ」とか「寿ぐ」、あるいは「満足する」という意味の言葉です。何かと較べて合格するというのではなく、神が満足したという意味でトーブと言われているのです。

創世記には、神は、一週間かけてこの世界を造られて、その最後の日はお休みになったと書かれています。キリスト教では古くから、では神はこの世界を創造されたあと、いったい何をしておられたのだろうか、とする議論がつづけられてきました。興味深い議論ですが、その有力な主張のひとつに、じつは、神はこの時に創造された人間と共に、いまも、この世界を創りつづけておられるのだ、という考え方があります。神は、いまもこの世界を創りつづけておられる、その世界が良い世界になるかどうか、責任の半分は人間にもあるのだ、というのです。

そしてこれからも

とすれば、私たちの美しいキャンパスもまた、いまも、そしてこれからも、私たち、つまり、いまここで学生として学んでいらっしゃるみなさんと、私たち教職員の共同の責任によって造りつづけていかなければならないのかもしれません。始まったばかりの新しい年、私たちは、同志社女子大学のキャンパスが、単にその建物や環境だけによらず、美しくなるその日のために、それぞれの場所で努力をつづけて参りたいとこころから願うものでございます。

135年を語りつぐ