1Q86(イチキューハチロク)

濱口 義信 (スポーツ文化論)

みなさんおはようございます。私は今は現代こども学科の体育を中心に担当していますが、それと同時に1986年、京田辺キャンパスが開設された時に同志社女子大学に勤め始め、全学のスポーツ健康科目を担当してきました。 今回チャペルのお話を引き受けた後、「135年を語り継ぐ」という事で話をするように依頼されて、改めて、自分がここにきて25年、そしてこの間ずっと京田辺キャンパスを本拠としている、ほんの一握りの教員の一人になっていることに気付きました。そこで、今日は私が今ここにいる、そしてここで頑張ろうと思える原点について、お話したいと思います。

リトリートとキャンプ

今日私は、京田辺キャンパス開設初期の学校行事、特に合宿行事についてお話したいと思います。それは、今も続いていますが、5月と10月に一泊二日で行われている宗教部の「リトリート」と、学生部主催の「サマーキャンプ」そして、今はスプリングキャンプに衣替えした「スキーキャンプ」です。 1990年代中頃まで、リトリートは総勢180人、サマーキャンプやスキーキャンプは100人を超える人数で行われていました。スキーキャンプなどは、みんな朝早く6時前から並んで申し込みをし、多い時にはキャンセル待ちが20人以上出るほどの人気でした。

最近まで、それらのほとんどに参加させていただいて、いつも元気をもらっていた私は、ぜひ、そのことを皆さんに語り継いでおきたいと思います。京田辺キャンパス開設によって、同志社女子大学は2つのキャンパスに分かれましたが、ひとつの大学としてのアイデンティティを大切にしながら進んでいこうという理念を掲げて歩んできました。ここで紹介するキャンパスと学科の垣根を越えた全学的行事が、この理念の実現に大きな役割を果たしたといえると思います。

1Q86(イチキューハチロク)

この奨励題についても一言説明が必要でしょう。もちろんこれは村上春樹の「1Q84」を京田辺キャンパスが始まった86年に置き換えたものです。詳しく説明する時間はありませんが、私にとって、そしておそらく同志社女子大学にとっても1986年という年は大きな変化のスタートであり、もし、そこでの決断と変化を変更していたら、全く違った現在を迎えているであろう大きな変革点であったと言えると思います。 つまり奨励題に示したような、1986の9が数字の9ではなくアルファベットのQで示されるように、音としては一緒でも、次元の違う世界、パラレルワールドのように違った今を迎えているだろうという事です。実は私は本当に1Q84という小説を読みながらそのことを考えていたのです。

「たら」「れば」、もしも…だったら、あそこで…していれば、というのは結構よく考えることですが、この本を読みながら、同志社女子大学にとっては1986がこのパラレルワールドの入り口かなと思いました。そして、もしかしたら、むしろ今の姿がアルファベットの1Q86かもしれないと思ったりしました。

初めての新入生合宿オリエンテーション

さて、同志社と縁もゆかりもなく、1986年に同志社女子大学に就職、正確には他大学から転職してきた私が、4月1日の入社式、2日の入学式をすませ、教員として初めて学生の皆さんと一緒に活動し始めたのは、短大部の合宿オリエンテーションでした。これ以降できた多くの学科で、入学後の合宿オリエンテーションが行われていますから、みなさんの中には、それに参加した人もいると思いますが、私たち新任の教員にとっても、まさに同志社女子大学はどんな学校かを体で知る体験になりました。それまでに勤めていた大学でも同様のイベントがあり、私自身がオリエンテーション合宿の運営を担当していたせいもあって、同志社女子大学の合宿オリエンテーションは目を開かれる思いをしました。それは、何と言っても、先輩の学生が運営して、新入生の一人ひとりを心を尽くして迎えるものだったからです。そのためにオリタ―(オリエンテーションリーダー)と呼ばれる先輩たちは、時間をかけて準備と予行演習をし、20名ほどの学生たちが500人を超える新入生と30人ほどの教職員をリードしてそれをやり遂げたのですから、他の大学で助手と教員の経験をしてきた私にとって全くの驚きでした。

リトリート、キャンプにおける同志社 女子大学のリーダー育成システム

そこから、今日私の証言の中心である、同志社女子大学の全学的な合宿行事が始まります。

まず5月には宗教部のリトリート(土日)と、7月には学生部のサマーキャンプ(3泊4日)、後期になって10月には再びリトリート、そして3月の初め学生部のスキーキャンプ(月曜日の朝から土曜日の朝)がありました。そこでは、すべてのメンバーが役割ごとにグループを作ります。そして、リピーターであり、多くは上級生であるそれぞれのグループのリーダーの下で、それぞれの役割を分担してキャンプを運営します。さらに全体の運営のために、事前にリーダー合宿も行われる、というようなものでした。現在でも基本的にはそれは踏襲されてはいますが…。(リトリートは学生定員が150人と大きくなったために、30から40人の実行委員会で運営するようになったことも当時の変化ではありました。)

現在とは学年歴、特に夏休みや試験期間も違ってはいましたが、キャンプ前の精力的な準備活動はすごいものでした。リーダーたちは、どの行事にも参加しているコアのメンバー、いくつかに参加する人、そしてどれか一つに参加する人とさまざまでしたが、これらすべての行事が、実質的に連携して進められていたと言えると思います。

プログラムの内容も私が勝手に「同志社女子大学の金太郎飴」と名付けている共通点がありました。リトリートなら講演など、キャンプでは野外活動やスキーというのが、それぞれのプログラムに特有な活動ですが、開会、閉会、そして、毎朝の礼拝、また、最終の夜のキャンドルライトサービスはすべての行事に共通です。これも時間がないので細かな説明はできませんが、これらのプログラムの中核は、立ち止まって自分や周りを振り返って、考えたことをみんなで分かち合うことであり、これは本来の意味でのリトリートであるということができます。

もうひとつ、この時期のリトリートやサマーキャンプは、教員も自由参加で、どちらも15から20人の教員が自主的に参加していたという事です。これも同志社女子大学の大きな特色だったと思います。 このような活動の中で、学生の皆さんが参加する回数を重ねる毎に、どんどん成長していくのにつき合わせていただくことは、本当に楽しいことでした。そしてそこに同志社女子大学の歴史や風土、そしてスピリットなどを感じ、たくさんのことを学ばせていただきました。 そして、これらの活動で育った人たちが新入生オリエンテーションリーダーをしていたのだから、私の新入生オリエンテーションの時の驚きは、同志社女子大学の人の育て方に対する驚きだったのだという事がわかりました。

同志社の教育理念と女子大学の教育システム

同志社は自由を標榜していますが、本当の自由とは、このように自分で自分たちの活動をアレンジする、つまり自立して歩むということなしには成り立ちません。また、新島先生が遺言の中で

4.同志社では「倜儻不羈(てきとうふき)」なる書生〔信念と独立心とに富み、才気があって常規では律しがたい学生〕を圧迫しないで、できるだけ彼らの本性にしたがって個性を伸ばすようにして天下の人物を養成すること。

と言われたのはこのようなことだと思います。 同志社女子大学が「二つのキャンパス一つの大学」を目指し、それを実現することができたのは、このような建学の理念を中心にした授業というカリキュラムの外で、行ってきた広い人間教育の成果であったのだと思っています。そこで育った──自ら育っていったともいえますが、卒業生たちがいろんなところで活躍しているのはもちろんのことですが、専任また非常勤としてここで教育の一端を担ってくださり、また、同窓会ヴァインの会などでも活躍して下さっていることをとても嬉しく、また、頼もしく思っています。

新島先生は、同じく遺言の中で「同志社の完成は200年」といわれていますが、135年の今、これからも変わっていくであろう同志社女子大学が、同志社のコアである、自ら自立する学生をサポートするという教育システムを持ち続けて発展することを信じています。

135年を語りつぐ