若い命に寄り添う

加賀 裕郎 (学長・教育学概論)

新島襄が生きた時代

おはようございます。今回の奨励は「135年を語り継ぐ」という継続的な礼拝の一環ですから、時代を過去にとりながら、現在と未来を展望するようなお話をしてみたいと思います。

新島襄は1890(明治23)年1月23日に亡くなりました。あと二週間程後に命日を迎えます。この日には毎年、京都若王子にある同志社墓地で朝7時から早天祈祷会があり、毎年、同日午後には新島襄の終焉の地である神奈川県大磯で碑前祭が行われます。 1890年は、教育勅語が渙発された年です。
教育勅語は同年10月30日に天皇の社会的著述として出され、1948(昭和23)年に衆参両院の決議によって失効するまで、長い間、日本の国民道徳と教育の根本にありました。また1889(明治22)年2月11日には大日本帝国憲法が発布され、翌年の11月29日奇しくも同志社の創立記念日と同じ日に施行されました。つまり新島襄は日本が憲法と教育勅語体制を備えた近代国家として、基本的枠組みを整えた時期に生涯を終えました。

日本が近代国家としての体裁を整えるためには、憲法、公教育制度、近代的軍隊の三つの整備が是非とも必要でした。憲法は明治22年に発布されましたが、公教育制度は森有礼が1885(明治18)年に初代文相に就いて以降、安定した形を整えるようになったと言えましょう。近代的軍隊はさすがに、それより早く1871(明治4)年に発足していますが、実際にそれが海外との戦争に直面したのは1894(明治27)に始まる日清戦争でした。

このように見てくると、新島襄が帰国し1875(明治8)年に同志社英学校、続いて同志社女学校を設立して以来、私立同志社大学の設立を志しつつ、その半ばで斃れた時期は、日本が近代国家建設へと船出しながら、それがどのような方向に向かうのか定かでなかった時期から、次第に形を整え、進む方向が定まりつつあった時期と重なります。時代が不安定で、どちらに転ぶのか分からない時代は、その中で生きている人びとにとっては大変ですが、後から振り返る側からすればまことに興味深い時代であり、また時代のヒーローが生まれる時代でもあります。

明治前半の教育家たち

こうした時代にあって、新島襄は近代国家を切り開く方途として教育を、しかも私立でキリスト教主義に立つような教育を選んだのでした。近代国家を切り開くための重要な方法として教育を捉えた人びとは他にもおり、なかでも私が個人的に親近感を覚えるのは新島襄以外には、森有礼と福沢諭吉がいます。新島襄は1843年に生まれ1890年に亡くなりました。森有礼は1847年に生まれ1889年に亡くなりました。福沢諭吉は1835年に生まれ1901年に亡くなりました。これら三人については多くの論考が既にあるので、ここで贅言を弄するまでもありませんが、少しだけ、三人の共通点、相違点を瞥見して、同志社教育の根幹を覗き見たいと思います。

新島襄・福沢諭吉・森有礼

先ず新島、福沢と森を分かつものは、前の二者が私学を指向したのに対して、森が国家の中枢から教育制度を整えようとしたことにあります。森有礼の考え方は国家主義、経済主義、自他並立主義、身体鍛錬主義などと形容されますが、これらのうち国家主義は現代の教育者にはあまり評判のよい考えかたではありません。それは人民を政治的に支配するという観点から出てきます。 しかし森有礼はイギリス、アメリカで学び、また外交官としてもヨーロッパ、アメリカ、中国で活躍した、当時有数の国際通でありましたし、最初の留学から帰国後、明治初期における進歩派知識人の代表的結社、明六社で活動しました。まだ江戸時代の空気が色濃かった時代に刀を捨てること(廃刀)を主張して、政府から追い出されています。森は宗教に深い関心を抱いていた人でした。国際派、進歩派、近代主義、教育への傾倒など、新島と森は比較的近いところにいる、というのが私の見方です。ただし森は国家の中枢から、日本の近代化とその根幹にある教育事業を確立しようとしました。

それに対して、新島と福沢は在野へのというか、私学への指向性が強い。『同志社大学設立の旨意』の次の一節はよく知られています。「吾人は政府の手において設立したる大学の実に有益なるを疑わず。然れども人民の手に拠って設立する大学の実に大なる感化を国民に及ぼすことを信ず。素より資金の高より云い、制度の完備したる所より云えば、私立は官立に比較し得べき者にあらざるべし。 然れどもその生徒の独自一己の気象を発揮し、自治自立の人民を養成するに至っては、これ私立大学特性の長所たるを信ぜずんばあらず」(『新島襄教育宗教論集』、27-28ページ)。同志社は生徒の独自一己の気象を発揮し、自治自立の人民を養成する──これは同志社教育の教育目的の根幹にあるものの一つだと思います。

私は、この新島の文言が福沢諭吉の『学問のすすめ』に出てくる「一身独立して一国独立すること」(『学問のすすめ』、46ページ)つまり個人的独立心の強い国民があって、はじめてその国は独立できるということという有名な言葉と深く結びついていると思います。

新島と福沢の考え方を、若干パラフレーズしてみたいと思います。近代社会の開始を告げる大きな発見は「個人の発見」だと言われることがあります。共同体の単なる一員ではない個人の発見です。こうして発見された個人をどのように処理するか、が問題でした。 共同体の単なる一員ではない「強い個人」は、やはり再び何らかの形で社会へと繋がらなければならない。「強い個人」が独り歩きするとエゴイズムになり、全体社会に力点が置かれ過ぎると権威主義的、全体主義的国家になる。この大きな問題は理論によってではなく、行動によって解決する他ありません。ではどんな行動によってなのか。その答えの一つは「教育」によって、です。つまり「強い個人」でありながら、社会へと有意義に繋がる人間は与えられてあるのではなく、教育を通して育てられるべきものなのです。生まれてきたすべての人びとには、教育を通してそのような人間になる潜在可能性がある、というのが近代教育の根本的人間観であり、新島と福沢はこのことを見抜いていました。それでは両者の違いはどこにあるのでしょうか。

福沢は「教育の目的」という小論で、教育の目的を「人生を発達して極度に導くにあり。 そのこれを導くは何のためにするやと尋ぬれば、人類をして至大の幸福を得せしめんがためなり」(前掲書、23ページ)と定めます。 これは19世紀イギリスで発展した功利主義風の考え方と言えましょう。福沢が重視した学科目は物理学でした。「欧州近時の文明は皆、この物理学より出でざるはなし」であり「我が慶応義塾において初学を導くにもっぱら物理学をもってして、あたかも諸課の予備となす…」(「物理学の要用」、前掲書213_214ページ)と言います。ここでの物理学は知識内容だけでなく、批判的思考力を含むエートスのようなものと思います。同時にまた福沢は経世の学、つまり政治経済の学をも重んじました。福沢は世俗主義者であり、物理学に典型的な合理的、科学的精神の体得を通して「一身の独立」を成し遂げ、そうした人びとからなる「一国の独立」を実現しようとしたと言えましょう。

新島は理系分野に適性を示した人であり、福沢と同様に科学的、合理的精神を重んじました。しかし新島は福沢のような世俗主義者ではなく、科学的、合理的精神の根底に宗教的精神を見ていました。つまり新島の人間観、教育観は科学的、合理的精神+宗教的精神からなる重層構造をなしていました。新島と福沢は「自治自立の人民」、「一身の独立」という目的を共有しながらも、その内実の理解と、その目的を実現するための方法において異なっていたと言うべきでしょう。

自治自立の人民を育成する

新島や福沢が、こうした教育理想を語ってから百数十年が過ぎました。 日本において「自治自立の人民」、「一身の独立」は実現したのでしょうか。最近の傾向を見ると時代の閉塞感からか、何かやってくれそうな強いリーダーを期待し、その人物に自分たちの期待を丸投げし、期待が外れたと分かると、その人物から一挙に離れていくという傾向が見られます。「強いリーダーへの丸投げ」は、かつてエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で描いた権威主義、全体主義国家を招く極めて危険な傾向だと危惧しています。同志社教育は、そのような人物を育ててはいけません。合理的精神と宗教的精神を両輪とした自治自立の人民女子大の場合には自治自立の女性を、若い人の命に寄り添いながら育てていかなければならないと思います。

135年を語りつぐ