同志社女学校前史

中村 恵 (元本学職員)

中村と申します。元本学職員で、退職後は史料室で資料整理のお手伝いをさせていただいています。

同志社女子大学のもとになる「女子塾」が、同志社創立の翌年、明治9年10月、京都御苑の、現在迎賓館が建っているところ、柳原というお公家さんのお屋敷で始まった、ということはみなさんもご承知のことと思います。 そして、宣教師たちから「京都ホーム」といわれていたこの学校を始めたのは、アリスJ.スタークウエザーという、当時28歳のアメリカ人女性宣教師である、ということや、そのお屋敷には宣教師のジェローム.D.デイヴィスが家族とともに住んでいて、彼女はそこに同居していた、ということも、あるいはほとんどの方がご存知かもしれません。
ところが、新島先生夫人・八重さんの回想によると、八重さんは「明治9年の頃、私はデビス宣教師と相談の末、女学校を始めてはということになり、私の宅で、いつ開校式があったということもなくはじめました。」と語っています。別のところで「たしか2月でした」と言っていますから、明治9年2月のことになります。

新島先生を全面的に支援して、同志社の創立を実現させたアメリカン・ボードとその宣教師たちにとって、同志社は日本への伝道拠点の一つ、「京都ステーション」であり、同志社英学校は現地人、すなわち日本人の伝道師を養成する機関トレーニングスクールでした。そして、その開設当初から、英学校と「ペアの関係にある」、つまり伝道師の配偶者として、彼らの活動に協力することができる日本人女性を育成する機関としての女学校が必要であると考えられていました。実際、新島先生とともに同志社に最初期からかかわったデイヴィス宣教師は、ボストンのアメリカン・ボード本部に対して、同志社で女子教育を実施するための女性宣教師を早急に送るよう、はやくから繰り返し要請していました。 八重さんが「デビス宣教師と相談の末」と語っているのはこのデイヴィス宣教師のことです。

八重さんはいうまでもなく山本覚馬の妹です。山本覚馬という人は、もと会津藩の武士でした。慶応4年1月の鳥羽伏見の戦のとき、薩摩方につかまって、薩摩藩京都藩邸に捕らわれの身となりました。当時すでに視力を失っていたのですが、約1年に及ぶ幽囚生活の間に、将来の日本のあるべき姿について様々な角度からの提言を口述筆記させて『管見』という書物にまとめ、建白書として薩摩の殿さま・島津忠義(ただよし)公に献上しました。そのなかで特に「女学」という項目を設けて、新しい時代を支える人材を生み育てるべき女性が、これまでのように無学・無教養のままであっていいのか、と訴え、女子教育の重要性を強調しています。この建白書、写本ですが、現在史料室の展示で出ていますのでぜひご覧ください。彼は、のちにその識見を買われて京都府顧問に迎えられますが、宣教師のM.L.ゴードンと出合ってキリスト教を理解し、新島先生の理想に共鳴し、その同志として同志社の発起人となりました。ちなみに、「同志社」という名称は彼の命名によると伝えられています。

その妹である八重さん、この八重さん自身、結婚までの数年間、日本で最初の女学校といわれる京都府立の「新英学校及女紅場(にょこうば)」、のちの「府立第一高等女学校」(現在の「鴨沂高校」の前身です)で教師をしていたのですが、その八重さんとともに、ドーン宣教師の夫人がこの「女学校」で教えていました。このミセス・ドーンという人は、デイヴィス宣教師の奥さんのお姉さんといいますから、 この「女学校」が、山本覚馬、デイヴィス宣教師、それぞれの女子教育への思いが強く反映されたものだっただろうことは想像に難くありません。

さて、この学校を、八重さんは「私の宅で」はじめた、と言っています。八重さんはこの年の1月3日、このデイヴィス宣教師の司式により、京都で初めてのキリスト教の結婚式をして新島先生と結婚したばかりです。新婚ホヤホヤの新島夫妻は「上京区新烏丸頭町40番地」の岩橋元勇(モトタケ?)という人の屋敷を借りて住んでいました。岩橋さんという人は、お公家さんではなく、御所に勤めるお役人だったようです。 明治2年、天皇が東京に移転したのに伴って、いまの京都御苑いっぱいに屋敷をならべていた公家衆や御所関係のお役人たちは相次いで東京に引っ越していきました。そのため御苑やその周辺は空屋敷だらけで、一帯はちょっとしたゴーストタウンの様相を呈していました。

明治6年、同志社創立の2年前のことですが、新政府になってから、あらためて太政官名で掲げられていた切支丹禁制の高札が降ろされます。これはあくまでも欧米諸国との交際を円滑に進めるための方便であって、明治政府がキリスト教を公認したことを意味するものではありませんでした。とはいえ、政府としては、いわゆる開港地を中心に、続々と上陸してくるキリスト教各教派の宣教師による布教活動は黙認せざるを得なくなってきていました。しかし、京都など内陸部では、原則的として外国人の居住も認められておらず、キリスト教は依然として、為政者にとっては取締るべき邪教であり、民衆にとっては恐怖と嫌悪の対象でした。そのキリスト教の宣教師当時はヤソ坊主などと言っていたようですが、同じ町内に、隣近所に住むなんて、まして彼らに住む家を提供するなんて、おおかたの京都市民にとって到底考えられないことだったことでしょう。

ですから、新島先生はじめ、宣教師たちが京都市内に住んで、活動するためには、公家衆や御所関係者の空屋敷を借りるか、諸藩の京都屋敷の跡地を手に入れるかするよりほかなかったといえます。それにしてもこうしたことを可能にすることができたのは、京都府顧問の要職にあった同志・山本覚馬の斡旋もさることながら、新島先生がアメリカ時代に岩倉遣外使節団とのかかわりのなかで培った伊藤博文(ひろふみ)、木戸孝允(たかよし)、森有礼(ありのり)、田中不二麿といった新政府の要人たちとの人脈のおかげだったといっていいとおもいます。

ところで、さきほどの「上京区新烏丸頭町40番地」です。新烏丸通というのは、寺町通の一筋東の、丸太町通をはさんで北は荒神口通まで、南は二条通まで、全長約1キロ程度の細い通りです。その北の端、現在の「鴨沂高校」の東側一帯が新烏丸頭町で、新島夫婦の新居である岩橋邸は、荒神口通の名の由来でもある「護浄院(清荒神)」というお寺の南隣にありました。すなわち、八重さんの「女学校」はここではじまった、というわけです。

生徒は3人。女の子の姉妹2人と、どういうわけか9歳になる男の子がいたそうですが、やがてその男の子は辞めてしまい、女の子も姉のほうが病気で亡くなり、妹は勉強が嫌になって…、というありさまで、間もなくおそらく数週間か、長くても2ケ月といったところでしょうか、自然消滅してしまいました。「いつ開校式があったということもなくはじめました」というのですから、おそらくちゃんとした名前も付けられてはいなかったと思われます。少なくとも名前は伝えられていません。

ミス・スタークウエザーはこの年の4月10日、京都に到着します。そしてデイヴィス邸(柳原邸)に滞在して、彼女らのいわゆる「京都ホーム」の準備を始めます。新島夫人から日本語を習いながら、と言っていますから、この学校はこの頃までには消滅してしまっていたのでしょう。これ以後のことは、機会があればあらためてお話したいと思います。

今日は、同志社女学校前史ともいうべき、短命だった八重さんの「女学校」のことについてお話ししました。

135年を語りつぐ