同志社女学校への来校者たちー明治・大正期ー

宮澤 正典(本学名誉教授)

同志社と京都府

3月の震災から気付くひとつの要素は、地域と学校とのつながりというのは非常に強いのだということを印象づけられます。では同志社女学校の場合はどうなんだろうかというと、はたして京都に作られた同志社女学校は、今、東北でその絆が謳われているような、強いつながりを持っていたんだろうかということです。むしろ公立と私立の違いを越えてキリスト教であったがゆえに、ある意味では京都に受け入れられなかったという歴史があります。今、そういう例を3つ程挙げてみたいと思います。

まず京都府の監察係がレポートしたものなんですが、同志社が土地を購入することについて、次のように言っています。「内部怪シムベキアルヲ以テ監察係ハ執拗ニ探索ヲシタ」と。1877年、明治10年ですが、「嗚呼新島襄ノ陰謀ヤ己レ皇国ニ生マレナガラ外国人ノ股こ肱こうトナリ(つまり外国人の部下となる)、国ヲ売ルノ所業ヲナス。自己一身ノ上ニ止マズ漸次多数ノ男女ヲ誘ヒ外人ノ恩ヲ蒙ラシメ亡国ノ不民ヲ蕃殖セシメント謀ル。慨嘆ノ至リニ堪ヘズ」と。

こういう京都府の姿勢というものがあります。さらに翌年、明治11年ですが、「新島襄、帰朝ノ頃ハ只一介ノ書生ニ有之。結社人、山本覚馬ニヲイテモ無財産ノ貧士族ニテ何ゾ大金ノ貯蔵アル謂レ無之。然ルニ明治八年該者設立以来、今日迄経費ヲ予算スルニ別途之通万以上、大金額ナリ。斯ノ如キ大金ヲ探索スルヤ、貨幣偽造ヲナシタルカ。マタ盗金ナシタルカ」。それは「米国耶蘇会社ノ出金ニヨル。彼等耶蘇会社ノ奴隷トナリ国賊モ亦甚シ。皇国ノ大切ヲ忘レ新島ガ如キ不忠不義ノ売国者世界トナランコトヲ恐懼嘆息スト風聞頻ニ相聞候」。こういう見方が公的な機関でなされたということですね。

2つめ。同志社女学校は最初、同志社分校女紅場という校名で1877年、明治10年に発足します。校長は新島襄です。ところが4月に発足しながら9月に同志社女学校に校名を変えたいと願い出て認可され、それ以来ずっと同志社女学校という名前を使うわけです。この「女紅場」と「女学校」ということについて、どうして半年もしないで校名が変更されたかというと、京都府の勧業課が府に上申書を出しました。それによりますと、女紅場の開業願のカリキュラムを見ると到底「女紅場」とはいえないという言い方をするんですね。つまり「女紅」というのは「婦女子ノ業ヲ修メ或ハ産ヲ営ム資ニ充ルモノニテ勧業授産ノ一途ニ出ル」。「女学」とは「婦女子ノ才芸知識ヲ開拓スル主意ニテ目途ヲ異ニスル」。新島襄設置の女紅場規則の科目によると「女学校」というべきである。

「府下ノ人民或ハ各所ノ女紅場誤テ女学校ト同一ノ者ヲ為シ夫ノ学識ノミヲ有シテ目今浮業ナル芸妓輩或ハ良家ノ子女職業従事ノ念慮ヲ薄クシ、到底勧業授産ノ要ヲ失シ候。新島襄設立ノ如キ女紅場ノ名称ヲ転ジ女学校ト可改」と詮議するのを上申し、〈付箋〉に「女学女紅ノ名称論位ハ格別有害ナシト雖モ毛唐人ノ恩ヲ受ケ、新島ノ如キ往々国ヲ売ル不民ヲ蕃殖スルヲ小官等ハ第一番ニ嘆息スル也」(明治10年2月26日)とあります。

つまり付箋に表れているように京都府のそういう姿勢というものが、いかに同志社女学校が地域と絆を結ぶことができなかったか。さらには仏教勢力の京都府に対するプレッシャーが、そういう形になっていったのだろうということがみられます。

3つめ。同志社女学校は、アリス.J.スタークウェザーという女性宣教師が中心となって作られました。新島八重がサポートしました。 同志社女学校が発足して生徒を集めるなかで、二人目と三人目の宣教師を雇おうとします。H.F.パーメリーとJ.ウィルソンの雇い入れを京都府に願い出ますが、許可されませんでした。1877年の12月です。1878年の1月にもう一度願い出るのですが、認可されませんでした。パーメリーとウィルソンは京都に住むことができませんから、神戸の外国人居留地から3か月ごとにやってくるという状況で、新島襄は京都府だけではなくて文部省に交渉しようとして東京に出向きますが、門前払いされるということがありました。こういうことをみてきますと、初期の同志社が一種異物として疎外の待遇を受け、いかに地域と融合できなかったかということを物語っていると思います。

京都という地域をこえた絆

第一回の女学校の卒業生は5人ですが京都府からは1名だけでした。少し間をおいて明治26年、在校生が83名に増えていますが、京都府下は18名なんですね。こういう状況は明治時代ずっと続くんですけれども、これはある意味、寄宿舎が非常に重要であったということがわかります。しかもこの寄宿舎というものはたいそう魅力的でして、今日、写真は持ってきませんでしたけれども、一階が教室で二階が寄宿舎になっている。そして宣教師の宿舎になって、来訪者たちの宿泊施設になってもいました。寄宿舎でいろんな行事が行われるということで、同志社女学校の一つの性格がこのあたりに出てくると思います。反面、ある意味では地域を越えた絆というものが重要な意味をもっていて、その絆というのが、共通の理念を持っている学校や地域とのつながりというものが強くなってきます。たとえば熊本であるとか、岡山であるとか、群馬県であるとか。群馬県は新島家の郷里ですがそこからは、横浜まで出て、まだ東海道線がありませんから船で神戸までやってきて、同志社女学校の寄宿舎に入るという生徒たちがおります。つまり京都という地域との絆よりも、むしろ理念を共有する地域とのつながりを、さらに言えば日本を越えて国際的なつながりが非常に強かったということが分かります。

来校者たち

たまたま明治27年以降で、どんな人たちが来ているかということを少しひろってみます。明治27年の5月3日、エモルソンというアーモスト大学の教授が同志社女学校にきます。それからフォスター将軍、(前の外務大臣)が講演をしております。フォスター将軍の一行の一人のオーア嬢という人がやはり女学校で一場の感話をした、それから米国の貴女ボルクハイム嬢が、本校に寄付をされたということが書かれています。それから楠本貴族院議長、河嶋衆議院議員、徳富蘇峰(同志社出身の国民の友の記者)、それから1月から5月の間に熊本女学校、梅花女学校などの11校の校長たちが来校します。こんなふうに評価しています。
「来観あるは本校の却って栄誉とする所にして右諸氏の一場の感話は大いに全校の精神を奨励したり」。

尾崎行雄が女学校の文芸会の折にやってきたり、それから我校の姉妹校の山陽女学校、清流女学校、梅花女学校、神戸女学院の教師生徒は校内に泊まって、ことに梅花女学校の場合には数日を過ごして寮生と一夕親睦の会をやっています。明治32年には大隈重信がきています。彼は何回か女学校へやってきます。それから明治34年には、台湾人男女数名が来遊、通訳が一人付き添っているのですが、寄宿舎で懇親会をやって次の年にも台湾人男女十数名が来校し、デントンの厚意で茶菓を饗し生徒の方は、薙刀や琴、オルガンの合奏をして歓迎をしたという。明治38年には、文芸会のときに新渡戸稲造がやってきます。この人は京大教授のときに、奥さんがアメリカ人ですから、デントンと非常に親しくなったといいますけれども、新渡戸稲造はしばしば女学校にやってきて講演もしています。各地から牧師がやってきます。外国からも、イギリス人、清国人(中国人)、韓国人、ドイツ人、ロシア人、そして救世軍のブース大将が明治40年にやってきます。アメリカの陸軍大臣のタフト卿が夫人と一緒にやってきた。アメリカ前副大統領のフェアバンク氏、オベリン大学学長のキング氏、ハーディー夫妻が来校し、壮大な歓迎会が催されています。

ハーディー夫妻というのは、新島襄がアメリカでお世話になった夫妻のお孫さんたちです。明治43年にはフェノロサ夫人。明治44年には韓国牧師団、スタンフォード大学総長のジョルダン博士、翌年にはハーバード大学総長のエリオット博士、ロシア女学生生徒6名が女教師2名とやってきて、専門部の生徒が歓迎園遊会をやっています。向こうはロシアの歌を歌い、こちらは君が代を歌ってすすめたということがありました。それからベルギーの被災のときの慈善音楽会をするのですが、このときベルギーの公使のデラ・ファイユ伯爵がやってきて講演をして、翌日慈善音楽会の1,129円をカスチュル領事に渡すということがありました。神戸女学院と梅花女学校から校長が引率して昼前に来校して午餐会の後、三校連合庭球大会というのが大正時代ですけれども、何回かありました。大正4年には野口英世がただ来校しただけではなくて、彼は日米関係と同志社の特色について講演をするということがありました。大正10年にはジェームズ氏夫妻がやってきます。ジェームズ館と家政館を寄付した方ですね。ジェームズ館前でご夫妻、海老名総長を中心に、同志社の男子学校も含め、全学生が集まった歓迎の記念写真が残っています。大正12年にはルーズベルト大統領夫人がやってきます。

貞明皇后の行啓

ひとつのエポックとなりますのが、大正13年の貞明皇后行啓でした。12月8日です。このときには朝の礼拝から始めて授業参観をします。フランス語、修身、漢文、英語、割烹、洋裁、和裁、家事、化学の授業参観をされて、展覧室では新島襄の写真にむかってしばらくそこに立ち止まられて、「今まで彼が生きていたらどんなに喜ぶだろう」と言われたということが記録されています。この貞明皇后の行啓に関して、ときの海老名総長はこんなふうに言っています。つまり明治以来、同志社はいろんな障害物によって疎外されてきた、むしろ嫌悪されてきた。そのために発展にブレーキがかけられたけれども、貞明皇后が来られたことによってそういう因習、偏見がうち払われた。女学校のためだけでなく、全同志社にとってどんなにか幸福であったかわからない。ただ残念なことに同志社自体のキリスト教が薄れてきているのではないか、そういう反省がなされるべきだということを挙げ、国母陛下行啓が我々にとって多大の奨励となったことは感謝のほかないと。 明治・大正ではありませんけれども、実はヘレン・ケラーが栄光館のこの壇上で講演をされました。最初が昭和12年、次いで昭和15年。第二次世界大戦後の昭和30年のとき私は大学の3年生でした。パイプオルガンは2階にはない時代で、ちょうどその辺の席からトムソン女史・寿岳文章の通訳で、ヘレン・ケラーの講演を聴いたことがありました。とくに外国の著名人が来校されたのには、同志社が京都にあって幸いだったこともありました。地域を越えてということですけれども、同時に大正時代からは地域ともつながりを強めていきます。

今日ChapelNewsを見ましたら、この月曜日にはスタンフォード大学の学生聖歌隊がここの讃美礼拝で合唱されたとのこと。夕方には京田辺で、音楽学科の合唱団との交流コンサートがあったということを知りました。今もそういう国際的なものを大事にしていくべきことを思い返しながら、今日の135年をふり返る礼拝とかえさせて頂きます。

135年を語りつぐ