二年間の学び舎

藤浪 敦子 (前パイン合同メソジスト教会牧師)

私は一九九七年の春に、同志社女子大学の日学に入学させていただきました。ただ、三回生になるときに同志社大学の神学部に編入してしまいましたので、同志社女子大で学んだ時間というのは、ほんの二年間だけになります。きちんと卒業せずに、進路を変えて退学してしまったので、こうして女子大の創立百三十五年を語り継ぐというには、恐れ多いのですが、でも一つ、はっきりと感じていることは、「女子大での学びの機会がなかったら、私は牧師になるという今の人生を選ぶことはできなかった」ということです。たったの二年間でしたが、でも同女でのあの二年間には、私の人生の歩みに大きく影響を与えてくれる、学びの場があり、先生や友人との出会いがあったことを、今、感謝の思いとともに、実感しています。

女子大でのスタート

私は高校を卒業するまで、ずっと東京で育ちました。もちろん東京にも大学はたくさんあったのですが、どうしても平安文学が育まれたこの京都という土地で国文学の勉強をしたくて、高校を卒業してすぐに、親元を離れ、同志社女子大学に入学しました。

女子大での国文学の学びはとても楽しくて、休みのときには同じ日学の同級生と、文学や歴史にゆかりのある京都や奈良のお寺周りもしたりしながら、日本の文学と文化と歴史に包まれながらの充実した毎日でした。ただ、そうやって充実した生活の一方で、女子大では日本文学以外のいろいろな学びの機会も開かれていて、これは私の歩みを豊かに広げてく れるものでした。特に、キリスト教の専門的な授業を受けたり、お隣の同志社大学の授業も受けることができたことは貴重な経験だったなと感じています。

私は、もともとキリスト教の家庭に育ったので、キリスト教も信仰というものも、体の一部のような、とても身近な存在でした。でも、女子大で開講されていた少し専門的な聖書の学びや、同志社大学の神学部で開講されていた神学の授業はとても新鮮でした。慣れ親しんできたキリスト教ではあるけれど、これまでとは違う角度から、キリスト教や神学について考えてみたいという思いが次第に強くなっていった、そのきっかけを与えてくれたものでした。そして、いろいろ悩みながら、お隣の同志社大学の神学部に編入学することを真剣に考えだすようになったのが、二回生の夏前の頃のことだったと思います。

支えてくれた女子大の先生、友人

学びの分野を文学から神学に変えるということも、とても大きなことでしたが、場所も関係も近い同志社女子大と同志社大学とはいえ、女子大を退学して編入学するということは、まだ二十歳になったばかりの私には重すぎる悩みであり、決断でもありました。自分が進路で悩んでいることや迷っていることを面にだすことはあまりありませんでしたが、でもそんな中、支えてくれた人が三人いました。一人は、小さい時から通っていた東京の教会の牧師で、もう一人は、私が一回生だったときの女子大の聖書の先生、そしてもう一人が、同じ日学の同級生でした。

東京の教会の牧師は、私のことを本当に小さい時から知っている人で、何か悩みがあるときは親よりも先に相談できるような信頼感がありました。なので、私のそのときの思いを理解してくれて、すぐに神学部へ編入することを応援してくれると言ってくれました。

でも、私にとって意外で、しかしとても有り難く、心強く、その時の私の決断を支えてくれたのは、女子大の聖書の先生と日学の同級生も、私の決断を応援してくれると言ってくれたことでした。神学部という女子大にはない学部への転向とはいえ、私は女子大を退学しようと考えていたわけです。言ってみたら、その先生や友人のいる女子大から私は離れていこうとしているのに、それでも親身になって私の悩みを聞いてくれて、「応援してくれる」と言ってくれたことは、その時の不安でしかたなかった私の心を強く支えてくれました。

多くの学生、多くの同級生の友達の中からみれば、私はその中の小さな一人にすぎないわけです。でも、大学の教授と学生、同じ大学、同じ学部の同級生という枠組みではなくて、一人の「人と人」として、真摯に向き合ってくれて、理解し、支えてくれた先生や友人に出会えたことは、二年間という短い女子大での学生生活の中で、本当にかけがえのないものであり、また自由で豊かな人と人とのつながりを教えてくれた、私の女子大での大切な経験でした。

あなたたちは真理を知り、 真理はあなたたちを自由にする

今日、読んでいただいたヨハネによる福音書の聖書の言葉「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という言葉は、同志社を創立した新島襄が好きだった聖書の言葉の一つだと言われています。この聖書の中で言われている「真理」とは、私たちが普段、使っている「真理」という言葉とは、少し意味合いが違って使われています。特に、キリスト教信仰の中では、イエス・キリストが、真理と自由をもたらしてくれる存在として、「真理」をイエスという存在の内にあるものとして理解されています。

「真理はイエス自身である」というと、却って分かりにくいかもしれませんが、噛み砕いていえば、これは、私たちが何か他者の力や思いに縛られるのではなく、また自分自身の自己中心的な思いに縛られるのでもないということです。そうではなくて、こうして一人ひとりに与えられている命を、人の知恵や力を超えた大きな存在、大きな流れに守られ、委ねながら、豊かに、自由に真実を求めて生きていくことです。

二年間という短い時間でしたが、今、こうして振り返ってみると、私は女子大での二年間で、この聖書が伝えている「真理と自由」というものの姿を教えていただいたのだと思っています。豊かで自由な女子大での学びの環境の中で、「何を学び、何を追い求め、どう生きていくのか」という問いを与えられ、真理と自由を求めて生きていくことの大切さ気付かせていただいたことは、私がこうして牧師としての人生を歩むことになった、今の自分の歩みの原点の一つとなりました。そして、先生や友人との出会いの中で、自分で自分の人生を選び、歩んでいく孤独さや不安の中にも、支えてくれる真理と自由の存在が、いつもどこかに必ずあることを気付かせてくれたことは、あれから十年以上たった今も、私の心をずっと支え続けてくれています。

女子大が創立百三十五年を迎えられるにあたり、その歴史のひとときを私も女子大で過ごさせていただき、こうした豊かな学びと出会いが与えられたことを、心から感謝しています。そして、正にこの百三十五年の節目の時にあって、学びの時を送っておられる学生の方々、そして寄り添っておられる教職員の方々の上に、神様の豊かな導きとお守りを心からお祈りしていたいと思います。どうもありがとうございました。

135年を語りつぐ