同志社および同志社女子部創設の影の立役者M.L.ゴードンについて

岩谷 幸春 (宗教主任・生活経済学)

1.はじめに

本日の奨励では、「同志社女子大学135年を語りつぐ」というテーマで、「同志社および同志社女子部創設の影の立役者M.L.ゴードンについて」紹介させていただきます。

「よき人生は、よき出会いとよき交わりである。」という、本学名誉教授で家庭経済学者の故坂本武人先生の名言があります。この名言の通り、新島襄のアメリカでのM.L.ゴードンとのよき出会いとよき交わりが、同志社と同志社女子部のよき歴史の礎を築くことに繋がっていった、といっても過言ではないと思います。

M.L.ゴードンについては、たぶん、ご存じない方がほとんどではないかと思います。私もそうでした。しかし、私は2010年度、本学史料室運営委員として、ゴードンについて調べる貴重な機会を与えていただきました。 なお、ゴードンに関する展示の解説は、日比惠子(えみこ)先生(本学英文学科卒・滋賀短期大学名誉教授)の研究成果(注)に負うところが大きい。

2.ゴードン、アメリカン・ボード派遣の宣教師として来日

当史料室は、2010年11月19日から2011年7月29日まで、「宣教師からのおくりもの~LearntoLiveandLivetoLearn~」と題する展示会を企画しました。2010年は、アメリカン・ボード(アメリカ最古の宣教師派遣団体)創立200年に当たりました。アメリカン・ボードは、新島襄、熊本バンドと並ぶ同志社の3つの源(みなもと)の一つです。ゴードンはその宣教師として、また江戸時代に脱国してアメリカ留学を果たした新島襄は准宣教師として日本伝道のために派遣されました。

ゴードン(1843~1900)は、1870年にアンドーヴァ神学校を卒業し、1872年にアメリカン・ボード宣教師として来日しました。任地は大阪となりました。1879年、ゴードンは、J.D.デイヴィスらからキリスト教関連科目を日本語で講義できる最適任者として期待され同志社(京都ステーション)に招聘されました。ゴードンは眼病を患い、生涯それに悩まされました。その療養のために2度、1年余りの帰国と休暇を余儀なくされました。

3.アメリカでの新島襄とゴードンとのよき出会いとよき交わり

大阪ステーション時代のゴードンの貢献の一つとして挙げられるのは、京都ステーション(同志社)結実に大きな役割を果たしたということです。もちろんこれは結果的に言えることではありますが。

ゴードンは来日前、すでに新島とは知り合い、親しい間柄にありました。そのため、ゴードンは他の宣教師たちに一歩先んじて、1873年12月16日に、新島襄宛に個人的に手紙を出し、外国人宣教師による伝道の困難さ(日本語の壁)を述べ、新島に早く帰国して援助するようにと、要望しています。

4.ゴードンを媒介にした新島襄と山本覚馬・ 八重兄妹とのよき出会いとよき交わり

そのゴードンを媒介にして、山本覚馬-新 島襄-山本八重の繋がりができあがったということは、後の同志社にとって幸運なことであったと言えます。京都ステーション成立までは紆余曲折がありますが、「神戸ステーションのギューリックが京都で蒔いた種をゴードンと新島襄が成長させたことになる」、その出会いでありました。

きっかけは、ゴードンの山本覚馬・八重兄妹との出会いであります。それが新島襄と山本覚馬との結束を生み出します。ゴードンは、京都府顧問であった山本覚馬に、W.A.P.マーティンによる中国語のキリスト教入門書『天道溯原』を贈ったのです。この『天道溯原』が、山本覚馬のキリスト教理解に決定的な指針を与え、後に山本覚馬が新島襄やJ.D.デイヴィスの同志として、同志社を設立する基盤となりました。ゴードンはまさしく将来への布石を打っていたことになります。1875年11月29日、同志社英学校が生徒8名をもって開校しました。存立の基盤をこの学校に依存する、京都ステーションの誕生でもありました。

さらに、ゴードンが山本八重と新島襄との出会いのきっかけを作ったということは、やがて新島と結婚した八重が1876年、アメリカン・ボード派遣の女性宣教師A.J.スタークウェザーらとともに女子塾(同志社分校女紅場)を開設し、同志社女子部の礎を築くことに繋がっていきました。新島の覚書および八重さんの回想録より、二人の初めての出会いは、1875年4月5日、月曜日の夕方、ゴードンの京都木屋町の宿所においてでした。八重さんはそこに聖書を習いに通っていました。

5.M.L.ゴードンとM.F.デントンとのよき 出会いとよき交わり

ゴードンは、隠れた人材の発掘にも手腕を発揮しました。第2回目の休暇先のカリフォルニア州サウス・パサディナで、ゴードン一家は、後に同志社女子部で約60年を過ごし、「同志社女子部の母」といわれることになるM.F.デントンと知り合いました。パサディナの小学校教師をしていたデントンのクラスに、ゴードンの娘二人が入ったのです。デントンは生徒思いの熱血教師でありました。ゴードンは同志社という新しい学校への熱き思い、新島という素晴らしい人物についてデントンに語りました。同志社で人材が必要というゴードンの言葉に、デントンは心を動かされ、宣教師として同志社に赴任する決意を固めたのです。

6.むすび

以上のように、アメリカでの新島襄とM.L.ゴードンとのよき出会いとよき交わりに始まり、京都での、M.L.ゴードンと山本覚馬、M.L.ゴードンと山本八重とのよき出会いと交わり、ゴードンを媒介にした、新島襄と山本覚馬、新島襄と山本八重とのよき出会いとよき交わりの連鎖、並びにM.L.ゴードンとM.F.デントンとのよき出会いとよき交わりが、同志社と同志社女子部のよき歴史の礎を築くことに繋がっていった、といっても過言ではないと思います。

(注)日比惠子「宣教教師M.L.ゴードンの活動」『アメリカン・ボード宣教師神戸・大阪・京都ステーションを中心に、18691890年』『同志社大学人文科学研究所研究叢書』XXXVII、2004年10月。 2011.9.22

135年を語りつぐ