「無告の民」への誘い ~卒業生・清水美穂の足跡を訪ね~

小﨑 眞 (聖書)

はじめに

同志社の創立記念の時期に本日は「同志社女子大学135年を語り継ぐ」ということで、本学の卒業生である横田(清水)美穂の事をお話し致します。 本学の史料室の仕事に従事した際に出会った方であり、偶然にも私の前任校の桜美林大学を創立した清水安三のお連れ合いでもあります。歴史上の人物として語るため、敬称を付けず語ることをご理解下さい。

ある卒業生

横田(清水)美穂は1918年(大正7)同志社女学校を卒業し、清水安三を追う形で中国に渡り、安三と共に飢饉による餓死寸前の子どもたちへの救済事業を実践しました。そして、北京朝陽門外の貧民街での教育実践を基とし、1921年崇貞女学校を創立しました。今から、90年前のことです。その後、1933年12月19日、美穂は結核に犯され、京都にて永眠しました。38歳という長からぬ生涯でありました。
配布した資料に掲載した写真は当時の同志社女学校の静和館前での美穂の卒業写真です。 最前列、右から5番目の方が美穂です(かなり判り難いですね…)。美穂が身につけている袴は清水安三が送ったとのエピソードが残っております。この写真の静和館は建て替えられ、現在は新静和館として女子中高の校舎となっています。新静和館の南側に旧静和館を記念して3つのアーチの部分が残されています。

美穂は、臨終を前に、同志社女学校時代に世話になった恩師ミス・デントンへの感謝の念を表し、臨終の場に集まった人々に対して、只今歌った讃美歌「わが行く道」を歌う事を求めた、とのエピソードが残っています。 「わが行く道、いついかに、主はみこころ・・・・・・なしたまわん。そなえたもう主のみちをふみてゆかんひとすじに」(傍点筆者)との歌詞は、まさに美穂の足跡そのものを語る歌でした。永眠2時間前、美穂は「神の召命をきく、後事に対して思ひ煩はず、萬事神に信頼して安心、萬歳」と語り、手を拍いたとの証言が残っています。美穂は「主のみこころ」を確信し、「ひとすじに」天へ凱旋したのかも知れません。

美穂の生き様

美穂の亡骸は、彼女の遺志に従い崇貞女学校の敷地内に葬られました。彼女の墓標には「清水美穂は、一生、自分の楽しみを求めず、その身の三分の一を崇貞女学校に、三分の一を夫に、三分の一を子どもたちに捧げた」と記されました。現在、墓標の所在は不明でありますが、美穂の人生の三分の一が学生に奉げられた事を証しする、次のようなエピソードが残っています。「冬になると自分の手を暖めてその子の痔の世話までしてやられた」と。美穂は名利名声を超越し、貧しさの現実に襲われた婦女子の立場に身を置き、教育実践に献身しました。まさに、墓碑は彼女の生き様を証言します。同様に、崇貞女学校の卒業生によって東京都町田市の桜美林学園内に建立された記念碑にも「利人不利己愛的奉献」とあり、美穂の献身的教育実践を顕彰しています。

美穂の教育実践の中で、特に「手芸教育」は注目に値します。美穂は婦女子たちに手芸を教授し、その作品(ハンカチーフ、テーブルクロス等)を商品としました。生徒たちの家庭は月平均10元程度の生活でしたが、これらの手芸作品を売ることで、月平均35元に向上したとの報告があります。さらに、朝陽門外の経済が年額50万元アップし活性化した事が報告されています。「手芸、裁縫」といった技術は、男性の価値観に基づき、いわゆる「良妻賢母」的素養と理解されがちであります。しかし、美穂は、そのようなイメージを払拭し、女性たちに経済的自立の機会を提供する結果を生みました。まさに婦女子たちに自立した新たな歩を切り拓きました。

美穂の教育思想

美穂の息子、清水畏三は美穂自身の厳しい生い立ちが、上述の教育実践へと彼女を駆り立てたと語ります。確かに美穂が身に受けた苦境の経験から「心身的かつ生活的に弱い立場の婦女子」に対して、共感の思いを抱いたことは想像し得ます。美穂は、没落した貧窮な家庭に生を受け、その後、実母とは別れ、継母によって育まれました。そのような複雑な家庭環境から抜け出す事を求め、同志社女学校の門をくぐりました。

美穂は模擬家族としての寮生活の中に、自らの新たな居場所を求めました。しかし、美穂を真に満たす「場」は提供されなかったようです。むしろ、周囲からもたらされる孤独感や寂寥感の現実の前に美穂は佇まなければなりませんでした。帰る場のある友人たちを前に、帰る場の無い美穂は居場所の無い自分自身に直面し、一層苛立ちました。

そのような不条理な現実の只中を歩まざるを得なかった美穂は、疎外感、孤立感に苛まれながらも、同志社女学校の女性宣教師・M.F.デントン(Mary Florence Denton 1857-1947)に出会いました。デントンも、アメリカと日本の間に彷徨し、この地上には居場所が無かったのかも知れません。それゆえに美穂は自らの歩みを恩師デントンの歩みに重ね、デントンのごとき自己無化的キリスト教思想に覚醒したのかもしれません。

美穂のキリスト教信仰を育んだ同志社女学校は、当時の社会が期待した「良妻賢母」の育成とは全く「異なる」女性観に基づく教育を実践していました。その教育姿勢を、女学校校長新島襄の言葉に読み取ることができます。新島は佐々城豊壽(日本基督教婦人矯風会書記)に宛てた「頼みたき事業」(1889.12)の中で、「女性の権利を拡張すること」、「慷慨心を起こさせること」、「世の改革者、いや、改良者となること」を求めました。それは、男性主導の価値基準に縛られた当時の日本社会の常識とは、全く「異なる世界観」に立脚した女子教育の実践でした。女性性の意義を再確認し、女性の自律を求めることが目標とされています。権利尊重、慷慨心の奮起、世の改良者を育むキリスト教教育こそが同志社女学校の教育の本質であったといえます。美穂はこのような発想に基づき、朝陽門外の婦女子に対して、新たな地平を切り開く教育を実践しました。

ゆえに、美穂の教育実践を象徴する「崇貞女学校」の「崇貞」に新たな意義を発見できます。「崇貞」とは「女性の操が正しいこと・女性が正しく身を守ること」との指摘があります。しかし、その「女性の正しさ」の内実を、新島が語った「慷慨心、改良者」、あるいは、女性宣教師の言葉に残されている「本当の意味での謙遜」と読み替え、深めることが可能です。いわゆる男性社会が女性たちに要請する貞操観とは全く異なる視座に立ち、人権尊重に根差した自主・自立の女性観を読み解くべきでしょう。「崇貞」とは自己の名利や欲望を超越し、尊敬(崇)と正しさ(貞)に根差した人間観を指し示す言葉でしょう。 ここに、美穂の教育実践の本質を確認できます。

十字架上のイエスを仰ぎ

美穂は無力で異なる者として扱われる現実の只中に介入してくるイエス・キリストの言葉を生きたのではないでしょうか。美穂が身に受けた不条理な絶望と虚無は、彼女自身を「低み」へと落としました。しかし、その「低み」でこそ、美穂は朝陽門外の婦女子に真に出会い、新たな関係性を切り開き、婦女子たちを真に生かしました。

その歩は十字架上のイエスが虚無、無力を通し、新たな地平を開いたことを伝える聖書の思想に通底します。イエスの十字架の死を「意味不明のまま、最も残忍に捨てられた死」、「『有意義』を説明されない死」、「虚無のまま置かれた死」として捉えた時、この虚無さに主体的に覚醒する事を通し、他者にむけ自分を脱する事が可能となります。イエスは超人的能力や人並み外れた力ではなく、全くの無力さを通してこそ、根源的に無力で疎外され、かつ、自らをも疎外している人間性と連帯します。

ゆえに、聖書は一粒の麦の例えを通し、麦が「死す」ことの只中にこそ、「新たないのちが息吹く」ことを語ります。言い換えれば、イエスも耐え難い苦しみと痛みを身に受け、自身を中心とする世界観に死すことで、当時の多数派から遺棄された人々と共に歩み(運命を共にし)、それゆえ、全体主義的ユダヤ国家の「彼方」に他者と共存する地平を拓き得たと言えます。

それは、時代の只中で忘れ去れ、捨てられていた「無告の民」の存在を露に浮かび上がらせることでもありました。この思想に押し出され、美穂は自らを賭して、朝陽門外の婦女子に対して生きる地平を拓き、その存在を顕わにしました。

おわりに

自己の論理の外、自己の期待の外に佇む時にこそ、真に出会い得るものがあるのかも知れません。歴史的絶滅状況、「低み」に追いやられた痛み、「傷つきやすさ(vulnerability)」の只中でこそ、他者との新たな地平が創出するのでしょう。

清水美穂は自身の生き様を通し、偏狭な「自己実現」を求めている私たちに問い続けています。自らの成し得た業績、獲得し得た成果に心を奪われ、自己の世界観に閉塞していく状況にあって、自身の世界観に合わぬものを徹底的に排除する私たちの現実があります。しかし、私たちが無力なものと判断して排除してきた無名のひとり一人こそが、逆に私たちの在り方を根本から問い、私たちを真に生かすべく「宝」として迫ってきます。自身を揺さぶり自己が納得し得ない視座(自分の世界観とは異なる視座)を通してこそ、他者と調和した関係性を築くべく新たな地平が拓かれます。

自己実現のみを求める私に死に、私の論理を越えて想定外の事柄に巻き込まれ、無力で無名な民としての歩を通してこそ、相手を自分の都合、自分の世界へ閉じ込めず、相手の真実に出会い得るのではないでしょうか。ひいては、自分自身も相手の世界に縛られない、新たな自分自身に出会えることになります。 相手も自分も真実に生き得る新たな関係を生みだす事こそが、清水美穂の夢であったのではないでしょうか。その思いに触発され、今日を新たに歩む者でありたいです。

少々、冗長になりますが、朝陽門外の貧窮の現実に直面する婦女子と共に生きた教育者として、陳経淋中学の中で清水美穂の姿が語り継がれています。その事実は、美穂の教育実践が「遅れ」て現代に顕れ、その意義を問いかけていることを証しています。「発展、進歩」が、次世代に向けたキーワードになりがちな時代状況にあって、むしろ、「遅れ」という視座を取り戻す必要があるのかもしれません。その視座の中で、私たちの歩みが再定義される必要があるのでしょう。時代から「遅れ」てこそ、真理は露になるのかもしれません。

135年を語りつぐ