京田辺キャンパス・今出川キャンパス

森田 潤司 (食品学総論)

みなさんおはようございます。私たちの同志社女子大には、今、京田辺キャンパスと今出川キャンパス、2つのキャンパスに5学部10学科、大学院も含めて約6,500人の仲間が学んでいます。この規模の女子大で、なぜ2キャンパスなのかと不思議に思われている方もいらっしゃるかもしれませんね。 今日はキャンパスの移り変わりを簡単に振り返りたいと思います。

最初のキャンパス

同志社女子大学は、 今から135年前1876年 (明治9年)に、京都御苑のなかの旧柳原邸 で始まった女子塾がルーツで、今年創立135年です。この場所は現在の京都迎賓館の正門あたりです。ここが最初のキャンパスです。 その後、今出川を挟んだ二条邸跡に移りました。これが今の今出川キャンパスです。

京田辺キャンパス 利用の始まり

また、今年は京田辺キャンパス開設25周年ですが、これは京田辺キャンパスに音楽学科が移転し、今はない短期大学部が開設されてから25年というわけです。

実は、京田辺キャンパスはもっと以前から利用していたのです。きっかけは家政学部、現在の生活科学部の設置申請でした。

戦後1947年、同志社女子大学となった当時は、学芸学部1学部で英文学専攻、音楽専攻、食物学専攻の3専攻でした。やがて、英文学科、音楽学科、家政学科の3学科となり、ここから家政学部を独立させて開設しようとしたところ、当時の文部省から校地面積の不足が指摘され、問題となりました。幸い、前年法人で購入していた田辺の土地に急きょ課外活動施設を作り、田辺学舎として利用することにして、やっと家政学科と食物学科からなる家政学部が開設されました。これが1967年、今から44年前のことです。京田辺キャンパスの利用の始まりは、この時からといえましょう。

その後、短大設置などいろんな計画が建てられましたが、どれも校地面積が足りないからだめといわれて駄目でした。1978年には、梨の木神社の北の角、現在ライオンズマンションが建っているところに、土地建物を購入し、梨の木キャンパスとし、語学や一般教育の授業を行うことになりましたが、それでも法律的には校地面積が足りない状況でした。 そこで、田辺キャンパス利用の議論が始まったようです。

この頃、工業(場)等制限法というのがあって、首都圏や近畿圏の大都市では校地面積がとてもきびしかったのです。大学のキャンパスは、なんと工場と同じ扱いだったのです。ひどい話ですね。それで大都市の大学は発展を目指して、相次いで郊外へと移転する状況でした。

京田辺キャンパスへ

私は本学に来たのは、その頃の1982年で、当時本学の学生数は2,000人位だったと思いますが、梨の木キャンパスがあり、学生や教員は御所の中を通って移動していました。 実はこの頃の今出川は、2キャンパスだったんですね。

田辺校地利用の議論も真っ最中でした。当時の田辺学舎はログハウス風の建物で、私もゼミ合宿などで行きましたが、グランドらしきものは草が生え放題、おまけに少しでも雨が降るとずぼずぼぬかるんで、とてもまともに運動できる状態ではなかったですね。

さて、田辺校地利用の最初の案は、全1、2年生が田辺で学び、3、4年生は今出川キャンパスで学ぶといういわゆる横割り案だったと思います。この形での利用が教授会で決まったのが、1983年2月1日です。たしか1票差でした。ぎりぎりの決断でした。

その後、1年から4年までの合同授業があるというカリキュラムの都合で、音楽学科は縦割りで移転することに変更され、1986年に音楽学科が移転しました。あわせて英米語科と日本語日本文学科からなる短期大学部が設置されました。今年はここから数えて25周年です。梨の木キャンパスは移転資金に充てるために、このときまでに売却されました。この頃の田辺キャンパスは整地したものの植栽がなく、ほこりっぽくて、まるで砂漠に建った校舎と表されました。今はずいぶんきれいになりましたね。

計画では、続いて、残り3学科の1、2年生が京田辺で学ぶ予定になっていましたが、施設面やカリキュラムの問題などがあり、学科ごとの縦割り移転計画に、また変更になり、1988年に英文学科が移転しました。この新島記念講堂ができたのがこの年の9月です。生活科学部、当時の家政学部は2001年に移転するということでした。

今考えると田辺移転計画は当時の本学の財政規模からすれば大変なことでした。不安もいっぱいの中のスタートでしたが、結果的にうまくいって今があるわけです。本学にとって幸運だったのは、世の中の状況が、景気の上昇、大学進学率上昇、受験者増とすべて上向きだったからで、これはまさに神様のお守りとしか云いようがないと思います。こんなところで神様を引っ張り出したら、しかられるかもしれませんが、そう思いますね。

新しい仲間の受け入れ

ところで1986年の京田辺キャンパス開校以降、次々と新しい学科が出来ていくわけですが、忘れてならないことは、学生先輩達の果たした役割です。

短期大学部の開設のとき、当然1期生には先輩がいないわけです。先生も新しく赴任した方が多い。そこで同女の血をひきついでもらおうと、在学生が立ち上がって準備をしてくれて、入学式直後の合宿形式の学外オリエンテーションをはじめ、いろんな形で第1期新入生の指導をしてくれたのですね。短大の基礎はこうしてつくられました。現在も各学科でいろんな新入生オリエンテーションがありますが、原型はこの時できたものが多いです。

その後4年制の日本語日本文学科、現代社会学部社会システム学科、情報メディア学科、現代こども学科、薬学部医療薬学科、国際教養学科と新学科や新学部ができる際には、他学科の先輩たちが手伝って、あたらしい仲間を迎えてきました。特に2000年に短期大学部を改組転換して現代社会学部とするときは、私は学生部長をしていたので、短大生に説明会を開いて説明しましたが、エーッ私たちには後輩は来ないんですかとさびしそうでした。しかし、短大生たちは、短期大学部のすべてを新しい学部の1期生に引き継いでほしいと、オリテのお世話係となって準備をし、現代社会学部社会システム学科の1期生を迎えてくれました。短大設置の際の先輩からいただいた恩を、この時返したということになりましょうか。もちろん、他学科の学生も大勢伝ってくれたのですが、最後の短大生たちのがんばりは感動的でした。

こうして同女の血、同女の遺伝子が先輩から後輩へ連綿と受け継がれてきました。

みなさんも、同女の伝統を伝えていってほしいと思っています。オープンキャンパスのお手伝い、オリテリーダー、ビッグシスター、いろんな形があります。できることに参加して見てください。自分を見つめ直す良い機会にもなりましょう。

全学統合案から二キャンパスを活かした学びへ

さてキャンパス問題ですが、生活科学部の移転を2001年に予定通り実施することは、当時の財政状況などから、難しいことがわかり、1992年9月教授会でいったん白紙に戻して議論することになりました。それから10年たって2002年に情報メディア学科ができた頃から、財政的にも安定してきて再度、全学部全学科の京田辺キャンパスへの統合が提案されました。

リベラルアーツの実践には、全学部全学科の学生が同じキャンパスで学ぶことが必要だという理想を実現しようとするものでした。しかしながら、今出川キャンパスの跡をどう使っていくのか、良い案がなく結論が出ませんでした。そこで、とりあえず京田辺キャンパスで学部学科の充実をはかることとなり、2004年に現代社会学部に現代こども学科、2005年に薬学部医療薬学科ができました。そうこうするうちに京田辺キャンパスの学生数が増え、広いと思われた京田辺キャンパスも、福利厚生施設面から手狭になってきました。コンビニも導入されましたが、お昼休みの食堂とかひどい混雑だったことを覚えています。

一方、今出川キャンパスについては、2002年(平成14年)7月に工業(場)等制限法が、廃止になり、今の面積でも一定数の学生を戻せることがわかりました。この規制緩和で、校外に移転していた大学では都市部へ回帰現象が始まり、今も続いています。

本学では、京田辺、今出川二つのキャンパスを維持する大原則のもと、全学統合案を白紙とし、今出川の古くなった純正館を立て直して、1,500名を限度として今出川キャンパスに移すことにし、議論のすえ、英語英文学科と日本語日本文学科が移転することになりました。英文は2度目の移転です。同時に京田辺の充実と学科バランスを取るため、2007年に国際教養学科が開設されました。英語英文学科と日本語日本文学科は2009年に今出川に移転し、現在、表象文化学部となっています。

リベラルアーツとキャンパス

私たちの同志社女子大学は、学則でリベラルアーツをうたっています。これは、多様な発想を身につけ生きる力を身につける学びです。京田辺、今出川、それぞれのキャンパスで、それぞれリベラルアーツを実践するのが、今の本学のコンセプトです。 理系やら文系やら、いろんな学生や教員がそれそれのキャンパスにいるのはそのためで、そこから生まれる雰囲気や環境が、多様な考え方を知り、身につけるために大切です。

京田辺でいうと、音楽をやっている人、試験管を振っている人、砂場で何かやっている人、パソコンでコンテンツをつくっている人、それぞれがいて、自分と違うことをしている人を、横目でもいいから見ていることも大切だと思うのです。おっ?あれなんだ?という経験ですね。今出川でいうと、シェイクスピアの発声練習している横を通り過ぎて実験に向かう、またその逆、そういう環境が大切だと思います。

現実的には、せっかくそういう環境があるのに、今、学生も教員も、各学科ごとに閉じこもりがちなような気がしていて少し残念です。 みなさんどうでしょうか。文学に興味がないと遠ざかっていないでしょうか?理科的なことから逃げていることはないでしょうか?せっかくいろんな分野の人が近くにいて交流できるのに、もったいない気がします。いろんな各学科のイベントがあるので、こうしたものにもどんどん参加していくと、得られるものが多いではないかと思えます。

多くの部分があって一つ

先ほど読んでいただいた聖書の箇所は、「体は一つの部分ではなく多くの部分から成り立っています」と教えています。それぞれあって一つの体です。同志社女子大学も、いろんな経緯で二つのキャンパスから成り立っていますが、二つで一つです。いろんな学部学科があって一つです。

礼拝のはじめに、よく、両キャンパスで今同時に行われている礼拝をお守りくださいとのお祈りがされますね。これを聞くと、ああ同女は二つで一つなのだと改めて思います。 たとえ一時でも他キャンパスの仲間のことを思い浮かべることは、大切なことだなと思います。

同志社女子大のキャンパスは二つで一つです。京田辺キャンパス,今出川キャンパスどちらも自分のキャンパスであり、どちらのキャンパスの学生も、同じ同志社女子大で学ぶ仲間であることを忘れないようにしたいものです。

135年を語りつぐ