徳冨蘆花と同志社

児玉 実英 (同志社女子大学名誉教授・元本学学長)

徳冨蘆花(ろか)といえば、みなさんご存知の方も多いと思いますが、明治から大正にかけて活躍した作家で、『不如帰(ほととぎす)』(1898年)や『黒い眼と茶色の眼』(1914年)など、その当時多くの人が大変感激しながら読んだ小説をたくさん書いた人です。彼が晩年住み、「恒春園」と名付けた家屋敷とその周辺は、現在、芦花公園として知られ、京王電鉄の沿線の駅名にもなっています。1868年生まれですから、夏目漱石よりも一歳、年下になります。
この徳冨蘆花と同志社とは、どんな関係があったのか今日は、そういうお話を『黒い眼と茶色の眼』をご紹介しながら、したいと思っています。そして135年前、草創期の同志社を支えた人々が、どのような伝統の礎を残し、それが今までどう伝わっているのか、そのようなことを考えたいと思っています。

蘆花は、本名は健次郎といいますが、彼は2度同志社で学んでいます。1度目は明治11年から13年まで、10歳から12歳までの時ですが、兄徳冨猪一郎(この人はのち徳冨蘇峰という筆名で有名な評論家になる人ですが)に連れられて、同志社にやってまいります。 学寮に入って勉強していました。2度目は明治19年から20年にかけて、彼が18歳から19歳までです。が、この時、大変な事件を起こしてしまいます。それは恋愛事件で、相手は、こともあろうに山本覚馬の娘、15歳の久栄という女学生でした。山本覚馬はご承知のように新島先生とともに同志社を創った人で、その妹八重は新島夫人になった人です。だから当時大問題になりました。その後27年たって蘆花が46歳の時、やっとこの事件を振り返ることができまして、書き下ろしたのが『黒い眼と茶色の眼』です。

舞台は主に京都と東京です。時は明治19年から20年。そこに同志社を創ったいわば歴史上の人物が、次々、また生き生きと登場します。ただ名前は、少し変えてあります。たとえば、新島先生ですが、飯島先生という名になっております。憂いに満ちた優しい黒い眼をしておられます。お多恵さんという名で出てくる人は八重夫人。寿代さんという茶色の鋭い眼をした女学生は、山本久栄です。主人公の敬二は、もちろん著者徳冨健次郎その人の分身です。少し前に同志社を出、今治で牧師をしていた健次郎のいとこの横井時雄は、又雄さんという名で出てきます。その他キラ星のようにたくさんの人が現れます。

物語は、敬二が又雄さんを追って京都にやってまいりまして、夏休み中だったのですが、梨木神社筋向いの東桜町にあったもと公卿屋敷の又雄さんの家で、寿代と出会うところから始まります。その後又雄さんは木屋町三条上ル東側に移りますが、近くの河原町には寿代が父親と住んでいる家がありました。転宅の手伝いや、大文字の山焼の夕べなど、二人は顔を合わす機会が多くなります。しだいに彼の心の中に、彼女がしっかりと「侵入」し始めます。

やがてクリスマスが過ぎ、ある日次平という、これはいとこの子どもですけれど、この人が熊本からやってきて「寿代は、あゝたに恋着しとる…どうすったいな」といいます。 敬二は寿代の気持がわかり、「吾が未来の妻」「君が将来の夫」と書いた手紙を寿代に送ります。

ところがこの一件が、又雄さんや飯島先生に知られるや、皆怒っている、と伝わってきます。敬二は寿代を南禅寺に呼び出します。 三門で待っていると、人力車が止まり、紫のはかまに空色の洋傘をぱっと開いて、寿代が降りてきます。二人は天授庵の庭にはいり、そこで敬二は、別れ話をしようとします。 (この寺は横井時雄の父横井小南が明治2年丸太町で暗殺されたあと葬られた寺でした。)すると、そこへ突然又雄さんが寺にやってきます。二人を見つけると、又雄さんは、「なんという不都合な…」と叱ります。「妙令の女子を誘って野外において密会したること」はよくない。「成業後なおその感情に変りなくば別問題」であるが、「今日の所為の如きは全然論外である」というのです。敬二はよく考えた末、「無条件の降参」をいたします。 そして寿代さんには、彼女から来た手紙を返し、彼女からは自分の手紙を返してもらいます。

このあとの物語を手短かにお話ししますと、敬二は同じようなことを二度くりかえします。 一度は二人で梨木神社の東側のまん中の寺で会い、敬二は寿代に「プロミスをリストア」する、つまり約束を復活させる旨を伝えます。 そしてまた又雄さんに叱られます。「リーズンをもってパッションに打ち克つでなけりゃいかん」敬二は忠告を受け入れます。もう一度は、敬二が夏休みになって東京に移っていた両親のもとに出かけたときのことです。兄も近くに事務所をかまえていました。隣の霊南坂教会には小﨑弘道が牧していましたし、本郷教会には海老名弾正がいました。敬二は寿代にあてた手紙を書きます。「あゝなんの日かおん身を手をたずさえてこの游をなすを得んや」そして「君が至親の夫」とつけ加えて投函します。そこへ又雄さんが上京、旧友とは歓談しますが、敬二にたいしては、「あんたまた詐うそを云いなはったな」と叱ります。

京都へ帰った敬二は、いよいよ「破約」を決意します。清滝へ行って静かに考えます。 しかし学業が手につかず、旅館の支払、送金の遅れ、金策、借金、月謝滞納、処分の警告など、難題が次々やってきます。学業の遅れと落第の恐怖、相国寺で見た首つり自殺をしていた男の想起、などが続けて敬二を襲います。彼は飯島先生にも失望されたと思い、先生に遺書を書き置き、京都を脱出します。あてもなく、ただ西に向かい、古い自分の死と、新しい自分の生を求めて旅に出るというところでこの物語は終ります。最後にエピローグがついていて、その後なん年かして飯島先生が亡くなり、寿代の父も亡くなり、続いて寿代自身も病死した。「茶色の目は23才で眠った」と、淡々と、しかし紙背に反省と悔悟の念をこめて、書かれます。

この小説は、徳冨健次郎が自分の過去のコンプレックスにみちた経験を骨格にすえ、ある程度脚色した自伝的小説といってよいでしょう。精神的葛藤の末、最後には自分の目で判断する、という精神的成長を描いた『ヴィルヘルム・マイスター』のようなビルドゥングスロマンのような作品になっています。主人公の優柔不断なところは、二葉亭四迷の『浮雲』の文三のイメージと重なるように思われますが、敬二は文三のように最後まで弱い男でなく、たくましく自分を求めていきます。

またこの小説は、19世紀末ヨーロッパでヴェルトシュメルツつまり世界中の苦悩を一人で背負うようなハムレット的な悩みを美化して描くことが流行していたのですが、その一面ももっています。学園生活を描いた文学作品として有名なマイアー・フェルスターの『アルト・ハイデルベルグ』と比べても、この小説は遜色ありません。まして田中康夫の『なんとなくクリスタル』よりは少し上と思われます。

この小説には、また、物語のスケルトンのまわりに、宗教、思想、服飾、旅行、経済、教育など、文化的厚みがたっぷり与えられていますので、いろいろ興味深いことを指摘することができるのです。が、今はそのうち大切なものを3つだけ、申し上げておきましょう。

一つは、この小説の中にみられる宗教とりわけキリスト教的、聖書的エコーです。敬二は又雄さんに3度ウソをつきますが、これは、ペテロが鶏が鳴くまでに3度主を裏切る、ルカによる福音書の場面を踏まえていると思われます。それから、寿代は紫の袴に空色の洋傘をさしてしばしば敬二の前に現れますが、青い色はマリアの色です。また敬二と寿代や又雄さんの間に立って、敬二に強い不信感を抱かせてしまう次平は最終的には和解するのですが、ユダのイメージと重なっています。

2番目に指摘したいのは、この小説に出てくる学生たちの勉学の様子です。彼らは、日本文学や漢籍の素養があるうえに、学校では聖書、数学のほか、世界の歴史や地理、欧米の文学など幅広く英語で読んでいました。クロムウェルの清教徒革命のことや、シェイクスピア、ミルトンなど、外国人の先生からも、山崎為徳のような若く元気のよい寮に住み込んでいる先生からも、習っていました。彼ら初期の同志社の学生たちは、国際的な教養を身につけるよう教育されていたのです。同志社のキリスト教や国際主義、リベラル・アーツの伝統は、このころから植えつけられていたのです。

3番目に指摘したいのは、新島先生の人格を通しての感化です。敬二は最後に飯島先生の自宅に出かけ、そこにいた寿代と二人だけで話がしたいと願い出るのですが、「なりませぬ」と許されず、帰ってしまいます。そのあと先生は敬二の義兄を呼び出し、「青年一人を度すこと(説教すること)ができぬ」と涙を流し、敬二の借金は自分が立て替えてもよいと語られた、とのこと。敬二はそれを聞いてすっかり驚いてしまいます。同志社に心の最後の砦があると感じたのです。ここに心のよりどころがある、と感じたからこそ、敬二は先生宛に「成ス所ナクバ決シテ温顔ヲ拝セズ」と書き残して出奔できたのでしょう。先生だけでなく、主人公の周囲には兄、姉、おじ、おば、いとこ、その他たくさんの親族、姻戚、それに親切な先輩や友人たちがいて、世間の常識を教えたり、誠意ある忠告を与えたり、同情したり慰めたり、キャンパス全体が大きな家族のような状況だったことが、よく描かれています。同志社の人格教育、良心教育の原点は、そして同志社人の人間に対する根本的な信頼感は、このようなところにあったのだと感じさせます。

『黒い眼と茶色の眼』は、考えさせられるところの多い宝の山のような小説です。当時の時代感覚をもってぜひご一読おすすめしたいと思います。

蘆花はキリスト教に近づいたり離れたりしました。一時はトルストイ主義に深く共鳴した時期もあり、蘇峰の娘たちから「おじさん」ではなく「トルさん」と敬愛の念を持って呼ばれていましたが、最後に伊香保で亡くなった時はキリスト教式の葬儀で葬られました。 彼の作品も、キリスト教に近づいたり離れたりしていますが、全体としてみれば、広い意味でキリスト教文学といえる、と言われています。すでに『黒い眼と茶色の眼』を読んだ方は、同じ蘆花のより深みのある『思出の記』などをお読みください。言い尽くせないことも多くありますが、これをもって今日のおすすめに代えさせていただきたいと思います。

135年を語りつぐ