海を渡って

米田 祐子 (からだの科学)

今日は、『海を渡って』と題してお話させていただき、渡米された新島襄先生や、来日された宣教師の先生方、をはじめとした同志社にゆかりのある方々のおかげで私たちが学ぶことができているという日々に感謝したいと思います。

新島襄先生の渡米、そして帰国

新島襄先生は、1843年2月12日に江戸の神田の小川町にあった安中(現在の群馬県)藩主、板倉公のお屋敷内の新島家で誕生されました。その地は現在、学士会館という古い洋館が建っています。その会館の入り口の脇に、新島襄の生家跡と書かれた石碑があります。東京に行かれたら、そちらに行ってみて下さい。そこで新島先生は成長され、江戸時代の幕末に日本のために勉強しなければならないと思い、キリスト教、蘭学、英学、数学、天文学、航海術などさまざまな学問を学ばれました。そして21歳の時に鎖国している日本から脱出することを決意し、アメリカに渡られました。飛行機に乗ると、十数時間で着くという今日のような時代とは異なり、約一年間の船での生活を送られました。

一年間にわたる、海の航路について少しお話したいと思います。現在では、アメリカに行くならば、飛行機で日本から東へと太平洋まわりで、アメリカの西海岸へそして東海岸へ向かうことになりますが、新島先生が渡米されたのは、船で日本から西へ向かう航路によるものでした。ヨーロッパとアジアを結ぶ貿易の船が主流の時代でした。たとえば、イギリスからインドへ綿製品が、インドから中国にアヘンが、中国からイギリスへお茶がという三角貿易などについて世界史で学ばれたと思いますが、そのような貿易船です。

新島先生は、江戸時代の幕末である、1864年6月に北海道の函館からアメリカの商船であるベルリン号で出航されました。江戸時代の日本は、約200年間の鎖国をしていたので、開港後も自由に海外へ渡ることができない時代でしたから、密航です。新島先生を乗せたベルリン号は、上海に到着しました。その船のセイヴォリー船長は、若い日本人の青年である新島先生が次の船に乗船できるように、いろいろな方々に声をかけて下さいました。密航者ですから、内密に人々に相談することは大変困難でしたが、『ワイルド・ローヴァー号』のテイラー船長が、引き受けて下さり、乗り換えることができました。そして、1864年7月に上海を出航し、テイラー船長の指示のもとで、身の回りの世話などの仕事をさせてもらいながら、勉強することができました。香港、フィリッピンのマニラ、アフリカ西南端の喜望峰、ヨーロッパを廻って、1865年7月アメリカ東海岸のボストンに到着されました。今度は、テイラー船長が、『ワイルド・ローヴァー号』の船主であるハーディー夫妻に、アメリカでの新島の世話と教育をしてくれるようにと頼んでくれました。

そして新島襄先生は、フィリップ・アカデミー、アーモスト大学で学ばれました。以前にアーモスト大学に訪れた時、ジョンソン・チャペルも案内してもらいました。ジョンソン・チャペルには、アーモスト大学の元総長の先生方、牧師、研究者、卒業生で元アメリカ大統領らの肖像画が壁面に飾られていました。その中で新島襄先生の肖像画は正面向かって右手のとても見やすい良い場所にかかげられています。新島先生は、アーモスト大学では、世界観や人生観を形成するうえで最も大切な時期を過ごされました。人間としての幅を広げ、さまざまな事を考える充電の時期ともいえます。そしてさらに聖書を学ぶためにアンドーバー神学校へ進学されました。日本からの岩倉具視全権大使団の木戸孝允らとも親交があり、約10カ月のヨーロッパ教育の視察にも通訳として同行された事もありました。その頃には、教育の大切さを痛感されるとともに自らの教育観に磨きをかけられました。

いよいよ日本への帰国です。新島襄先生は、帰国後に、当時の日本に必要な事はまず教育であると判断し同志社という学校を設立されました。1875年のことで、開校式は11月29日に行われました。そして翌年の1876年に同志社女学校の授業が始まり、今日にいたっています。

若王子のお墓に眠る方々

皆さんは、入学式の後のオリエンテーション期間中に若王子の山に登ってお墓の前で礼拝されましたよね。

今一度、思い出して下さい。新島襄先生が亡くなられたのは、1890年1月23日ですが、その4日後の1月27日に同志社チャペルで葬儀が営まれました。新島八重先生のお墓は、新島襄先生の右隣です。お二人は、京都ではじめてキリスト教による結婚式を挙げられました。2年後の2013年のNHK放送の大河ドラマでは、新島八重の生涯を描く『八重の桜』が放送されると発表がありました。今年の3月11日に起きた東日本大地震で、福島県には、大きな被害がもたらされましたが、新島八重先生は、その福島県の会津藩ご出身です。大河ドラマの制作担当者は、「東日本大震災を受けて、日本人の心や絆を描きたい。復興を後押しし、被災地を励ますことができれば。」と話しておられるとのことです。今から楽しみですね。新島八重先生のお兄さんである、山本覚馬先生のお墓もあります。京都府顧問(現在の知事)という公職にありながら新島先生の良き理解者で、『同志社』という名称の発案者だと言われています。

そして忘れてはならないことは、海を渡って日本に来られてた宣教師の先生方のおかげで今日の同志社があるということです。アメリカン・ボードから派遣された宣教師デーヴィス先生、新島先生らと共に女学校を開校されたアメリカン・ボードおよびウーマンズ・ボードの女性宣教師のスタークウェザー先生、明治、大正、昭和と60年にわたり同志社女学校の元を築かれ、同志社幼稚園の開設者であるもあるデントン先生、同志社女子大学初代学長のヒバード先生方の分骨や遺灰が収められています。若王子のお墓に、また訪れてみて下さい。

過去、現在、未来を繋ぐ学び

皆さんはどういう気持ちでこの同志社女子大学学生になられましたか?

皆さんは、神様のお導きで、縁あってこの同志社に入学されました。勉学だけではなく、人として大切なことを同志社に集うメンバーから学んで下さい。このメンバーとは教職員も学生も卒業生も、現在生きている人も亡くなった人も含めてです。伝統というものですね。そこで、皆さんに是非訪れてほしい所があります。同志社大学や女子大学の図書館や史料室です。史料室には多くの書物、貴重な史料や展示物があります。現在はインターネットなどで様々な事を容易に調べる事が可能ですが、先人たちの愛用品、書物、直筆の手紙などの実物を見て、感じて伝統を大切に守って欲しいと思います。是非利用して多くのことを学んで下さい。

今日は、海を渡って勉強された新島襄先生をはじめ、海を渡って日本に来られた宣教師の先生方他、同志社にゆかりの方々のことを思う一時をもつことができました。いろいろな本を読んで、話を聞いて、経験して、世界中の事を理解し、幅広い知識を身につけて、伝統を守っていきたいですね。

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