異国に校舎を建てるものがたり

大島 中正 (日本語学)

『僕たちは世界を変えることができない。という映画

おはようございます。

皆さんは、映画、お好きですか。私は、1年に1、2度しか見られないのですが、先日、若い女性から誘いを受けました。誘ってくれる人のことが分かるような気がして、誘いを受けました。彼女は、予告編を見たのでしょうか、「この映画は私にとってはとてもリアルで、きっと身につまされるだろうと思う」と言います。彼女は私の妻のむすめ。私の娘でもあるのですが、当世大学生気質を垣間見るよい機会だと思って誘いを受けました。

その映画は『僕たちは世界を変えることができない。』という、向井理さん主演の作品です。現役の大学生が23大学54人の大学生メンバーとともに、総勢3,000人以上のチャリティーイベントを開催したりして、カンボジアに、屋根のある小学校の校舎を建てたという実話に基づく作品です。勉強、バイト、クラブ、飲み会等々大都会で学生生活を謳歌しながらも、何かが足りないと感じる主人公の甲太。 ある日、彼は郵便局で「150万円でカンボジアに屋根のある校舎が建つ」というポスターを見、友人たちにメールを発信して、「なんとなく」このボランティア活動を始めるのでした。仲間の女子学生から「私たちが小学校を建てるのってどんなところ?」と問われて、はじめて現地に足を踏み入れた主人公たちは、そこで母国日本では信じられない現実に直面します。ポル・ポト政権下で、反革命分子と見なされて捕えられ、拷問を加えられた人々のことを生々しく伝えるツールスレン博物館やキリングフィールド。地雷の恐怖。夫のためにエイズになり、死を待つしかない女性。家族を支えるために学校には行けない子どもたち。 終始、親目線で主人公たちの言動を見ていた私ですが、親も子も、まだまだ知らねばならぬ事があると痛感する機会となりました。

同志社女学校最初の校舎

この作品は、「えらい!」「めでたし、めでたし!」というものがたりでは決してありません。未完のものがたりであり、始まりのものがたりです。この映画を見終わった私は、ふと、異国に建てられた別の校舎のことを思いはじめました。それは、1878(明治11)年に竣工した同志社女学校最初の校舎です。135年前の1876(明治9)年の10月24日、京都ホームが開校されました。教師は、スタークウェザーという女性宣教師と新島八重の2人。生徒は12人でした。場所はデイビス宣教師の私邸の一画で、現在では国立京都迎賓館の正門のあたりということになります。 その翌々年の1878(明治11)年に、京都ホームは自前の土地と校舎を持つことになりました。 場所は五摂家の1つである二条家の邸跡、(この)今出川校地です。資料上段の版画をご覧ください。この和洋折衷木造二階建ての校舎は、1階が教室、2階が寄宿舎でした。位置は、栄光館のすぐ東隣、現在は女子中高の静和館の建っているところです。では、この校舎は誰の力によって建てられたのでしょうか。それは、ウーマンズ・ボードという、アメリカン・ボードと協力して、キリスト教の海外伝道をサポートする女性団体の力によって建てられました。日本の京都という所に、キリスト教のガールズスクールが始まるというニュースが伝わり、"our Japan home"の建設のために、6,000ドルという目標金額が定められました。では、この募金の寄付者はどんな人たちだったのでしょうか。それは、各教会の女性団体と日曜学校の子どもたちでした。奥さん、お母さん、そして子どもたちが"our Japan home"のために寄せた浄財によって、同志社女学校は最初の校舎を持てることになったのです。資料の下段をご覧ください。芳名録です。この芳名録にはご覧のように、ヨハネ3章16節の聖句が日英両言語で記されています。この聖句は新島襄の愛唱句でもあります。

同志社女子大学史料室第17回企画展示 「同志社女子大学135ものがたり」

ここで、宣伝をします。お手元のチラシをご覧ください。本学の史料室では、今月18日オープンの企画展の準備をすすめています。テーマは「同志社女子大学135ものがたり」です。写真・文書ばかりでなく、今出川・京田辺両校地の建造物・記念碑・植栽などを135点選びました。

残念ながら、同志社女学校最初の校舎は、影も形もありません。現存していれば、135のうちの第1番のアイテムとして、この校舎が選ばれたに違いありません。 ものがたりから生まれてくる祈り『僕たちは世界を変えることができない。』の原作者でもありモデルでもある葉田甲太さんは、現在東京都内で研修医をしているそうですが、カンボジアの小学生たちに次のようなメッセージをおくっています。

僕は日本人です。
君たちはカンボジア人です。
肌の色も違えば、宗教も食べているものだって違います。
だけど、僕たちは今同じアジアというところで、同じ地球というところに住んでいます。
僕は思うのです。
それだけで、僕たちがここに小学校を建てる理由は十分にあったんじゃないかって。
(下略)

(葉田甲太著 『僕たちは世界を変えることができない。』 小学館文庫177頁)

それでは、なぜ、19世紀のアメリカの女性や子どもたちは、見も知らぬ異国の少女たちのために、浄財を寄せてくれたのでしょうか。 それは、神が愛された人の世にともに生まれ、ともに生きているからなのでしょう。

21世紀の日本の大学生たちによるカンボジアの小学校の校舎も、19世紀のアメリカの女性や子どもたちによる同志社女学校の校舎と同様に、やがては取り壊される時が来ることでしょう。取り壊される前に自然災害によって破壊されてしまうかもしれません。たとえ、人の世の不条理が、天災による破壊が、なくなることはなくても、不条理や天災に直面するたびに、私たちが自分の無力を痛感するばかりであっても、異国に校舎を建てるものがたりに込められたおもいや、ものがたりから生まれてくる祈りは、時空を超越して滅び去ることはない。そのように信じつつ祈らずにはいられません。

135年を語りつぐ