同志社女学校第1回卒業生 原(山岡)登茂の生き方

坂本 清音 (本学名誉教授)

135年の歴史を持つ女子大学は何校あるか

先ほど司会者のお言葉にもありましたように、今年は女子部が誕生して135年の記念すべき年です。しかも今日10月24日は、まさに女子部の創立記念日です。皆さんは、日本で、キリスト教女子教育を135年も続けている学校がどれくらいあるかご存じでしょうか? キリスト教学校同盟の名簿を調べてみました。すると、現在大学レベルで存続していて、135年以上の歴史を持つ学校は全部で8校だけでした。その内訳は、今は共学になっていますが、創立時は男子校だった5校と、女子校3校です。女子大学として私たちの学校よりも、歴史が古いのは、フェリス女学院と神戸女学院だけでした。同志社女子大学は日本で3番目に古いキリスト教主義の女子大学ということです。皆さんは今その様な学校で学んでいると、実感されていますでしょうか?それほど昔に同志社女学校ではどのような生徒を育てようとしていたと思われますか?

創設時同志社女学校の目指していた教育とは

今日お話しする女学校第1回の卒業生、山岡登茂が出るのは、1882(明治15)年で、学校が創立されて6年後のことです。卒業生数は5名でした。当時は学校全体で、3~40名の生徒しかいなかった時代ですから、5名というのは妥当な人数です。当時、女学校の教師であった女性宣教師たちは、一大決心をして祖国を離れ、はるばる海を渡って来日したのですから、日本の女性たちをキリスト教によって自由にしたい、古い日本の儒教的価値観により、女は男よりも劣った者、卑しいものとしか見られていない日本の女性たちを、その様な呪縛から解き放したいとの強い願いを抱いていました。 当時、日本で始まったキリスト教女学校は概して、その様な教育を目指していましたので、ほとんどが寄宿学校として始まりました。 理由は、朝から晩まで生活を共にして初めて、キリスト教の価値観を植え付けることが出来ると考えていたからです。同志社女学校の校舎も、2階が寮、1階が教室や食堂・集会室といった造りでした。3~40名なら、建物一つで十分にそれ位の人数は収容できました。 では、そのように少人数で、徹底的にキリスト教の価値観を身に付けた女生徒は、卒業後、どのような生き方をしたでしょうか?

第1回卒業生山岡登茂の卒業エッセイ「責任」

幸いなことに、そのヒントとなる資料が残っています。それは女学校第1回卒業生山岡登茂(原の旧姓です)の卒業エッセイの草稿です。 当時の同志社女学校では、皆さんとある意味で同じ様に、卒業にあたり、これまでに学んだことを発表する制度になっていました。彼女は「責任」という題で書きました。罫紙6枚に毛筆で書いたものですが、今は時間の関係で要約のみをお話し致します。

そもそも責任には2種類ある。
1つは、人に対する(直接人に尽くす)責任、他は、人のためにする(他人の幸福を保護増進する)責任である。
今や女子も教育を受ける時代となった。幸運にも、自分は同胞女子に先んじて教育を受け、キリストの招きに従う者となった。だから、愛する同胞に教育の必要を示し、キリストの愛を尊ばしめることが、千七百有余万[当時、日本の人口は約3,500万]の姉妹のために有する自分の責任である

というものです。単に自分のことだけでなく、日本の女性全体に対する、教育を受けた女性の責任について論じています。まさに、日本の女性の先頭に立って歩む人生を引き受けようとしていることが分かります。

卒業後の山岡登茂を待っていたもの

しかしながら、山岡登茂が卒業した年の11月に岩倉使節団の一行として海外留学を終えて帰国した津田梅子が嘆いていますように、当時、女性が社会に出て、責任ある地位について、働くという道は皆無でありました。19世紀末の、多くの女性に求められていたのは、結婚して家庭に入り子育てをすることでした。従って、山岡登茂が日本の女性全体に対する責任と感じていたものを、文字通りの意味で、実現できたか否かは疑問です。

山岡登茂は、現在NHKの朝ドラ「カーネーション」の舞台となっている、岸和田の出身です。岸和田は、明治10年ごろに留学中だった藩主の岡部長職がアメリカでクリスチャンになり、新島襄に手紙を書いて、藩へのキリスト教伝道を依頼した地です。八重夫人もグールディ宣教師と共に、岸和田伝道に出かけています。山岡家では逸早くキリスト教を受け入れ、娘2人にキリスト教の教育を受けさせるために、同志社女学校に送りました。そのような家庭環境でもあったので、登茂は卒業2年後には、熊本バンド出身で、大阪島之内教会の牧師上原方立と結婚することになります。(結婚式は、大阪教会宮川経輝牧師と新島八重夫人に導かれて挙行されたとのことです。)

ところが、夫方立は1ケ月後に腸チフスで亡くなります。登茂は、その様な悲運を乗り越えて、岡山の順正女学校と大阪の梅花女学校で、「英語」と「音楽」の教師として働き始めます。それは、彼女にとって、同志社女学校時代に習得した二つの能力だったわけですが、同じく学校時代に身につけたキリスト教の価値観を支えに、夫亡き後も自立して生きる道となっていたことが分かります。順正女学校のある高梁では、登茂はその地で初めてオルガンを演奏した人でありましたし、英語に関しては、学校外でも、男子や自分より年上の人に教えることも出来ました。

二度目の結婚

しかしながら、その後の彼女の生涯も決して順調ではありませんでした。 簡単に辿りますと、数年後に再婚する相手も、同志社神学校出身の牧師、原忠美でありましたが、彼も余り丈夫な方でなく、結婚して5年も経たない内に、結核に掛かります。 結局15年の結婚生活の後に、夫と死別するのですが、特に最後の8年間、夫が病のために牧師を引退して無職となったときは、病人の夫とこども3人を抱えて、まさに「神に養われた8年間」であったと述懐しています。一家は、先ほど読んで頂いた「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」という聖句にすがって生活する毎日でした。でも、そうすると、不思議なことに、み言葉が実現される毎日だったそうです。

夫を天に送って後、彼女は二女を連れて10年余は、神戸女子神学校の舎監として、また後には、同志社女学校の舎監としても働きました。このような形で自活しつつ、彼女が持っている影響力を発揮する道が備えられていたことも、神の恵みでした。そして息子が長じて牧師になったときは、教会で一緒に暮らし、人に知らせず、困っている人の世話をよくしました。登茂は40歳くらいで髪の毛が白くなっており、人は夫の看病と貧苦で苦しんだ結果だろうと話していましたが、母は苦しかったということを、一度も息子に語ったことはありませんでした。そして、貧しい中でも、他の人々と食べ物を分け合い、苦学生のためには毎月学資を送るなどしていました。

卒業後の「責任」ある生き方

登茂が、女学校を卒業するときに抱いた、日本の女性全体に対する「責任」の思いは、社会に出て同胞を導くという形では実現されませんでした。 しかし牧師夫人として、夫の働きを支え、教会や学校に集まって来る人一人一人の「最も小さい者」に対して、キリストによる愛を実践するという生活を通して、身近な所で、一つ一つ責任を果たしたと言えると思います。また舎監として寮生活のキリスト教教育の一端を担ったことも、母校に対する責任を感じてのことでした。

今朝は時間の都合で、第1回卒業生原登茂の生涯を、かい摘まんでしかお話できませんでしたが、皆さんの先輩には、彼女のように、与えられた人生を、神様に委ねて、人にやさしく、誠実に、生き抜いた女性が沢山おられることを覚えていて欲しいと思います。

135年を語りつぐ