一事を為す (なでしこ薬剤師、米国へ)

岡部 進 (元本学薬学部教授)

はじめに

「頭が下がる」という言葉があります。今からお話するのは、最近私の「頭が下がり」、また友人も「頭が下がった」人のことです。 その人は日本薬学会の機関誌『ファルマシア』(Vol.47、No.8、2011)741_745頁に、「私の夢:米国で『臨床薬剤師』として活躍!」という一文を寄稿しました。私の友人で、T薬品工業の研究所で長年苦心、努力した結果、新しい降圧薬を発明し、大河内賞を受賞した人がいます。その彼は記事を読み、「頭が下がり、感銘した」といいます。今回は、その人が門を叩いたお話をしましよう。

なでしこ薬剤師の夢

7年ほど前、以前勤務していた大学の私の部屋に1人の卒業生(女性、以下Aさんと略)が訪ねてきました。Aさんは大学を卒業後、大学院(博士課程前期)に進学、修了後、製薬メーカーに就職しました。学術・マーケティング部へ配属され、病院訪問などをしていました。その際病院で働く医師、看護師、薬剤師をみて、自分も薬剤師として、医療チームで働きたいと思い、企業を退職しました。 熟慮の末、薬剤師として勤務する以上、世界最高レベルと言われる米国の臨床薬剤師になりたいと思い至りました。

当時、私は『薬局』という月刊誌に、「海外の薬剤師を訪ねて」という題で、連載しておりました。その連載を読んで、私に相談に来たと言いました。一番前で講義を聴いていた学生なので、顔はよく覚えていました。私の科目の成績は優秀でありました。一見物静かで、目立たない女子学生でありましたので、胸に秘めた熱情(パッション)のほどは知る由もありませんでした。今、日本では、女子サッカーの「なでしこジャパン」が大人気ですが、Aさんは、いわゆる「大和なでしこ」という感じの学生という感じでした。

「米国で臨床薬剤師になるためには、もう一度最初から米国の薬科大学に入学し、米国の薬剤師の免許を取得して、それから認定試験なり、経験を増やして、臨床薬剤師となる長い課程をとる必要があります」、と前提条件を簡単に説明して、話を聞くと、以下のことが分かりました。

Aさんは、英語の会話力はほとんどなく、外国人と話した経験もありませんでした。当然ながら、米国で薬剤師として勤務する以上、医師、看護師、そして患者と会話する必要があります。聞き違いや、言い間違いは許されません。患者の生命に拘わります。推定年齢27、28歳、これから日常会話および薬剤師として必要な専門英語(医学、薬学)を習得するためには、相当な時間がかかると思いました。必要な資金としては、企業にいた2年間で若干貯金しているという程度でした。また、米国に親戚などの係累は一切ないともききました。その時の私の言葉の端々に、また顔にも「この話、絶対に無理!」という表情が浮かんで、彼女もそれを感じていたのではないでしょうか。今にして思えば、教師として、誠に遺憾であったと思い、申し訳ないことをしたと悔悟しております。

米国へ旅立ち

しかし、折角の大志、夢を現実に引き寄せる手配を約しました。私は直ちに、米国のロスアンジェルスにあるカリフォルニア大学の医学部教授で、ベテランズ病院で内科医をしている友人にメールを送りました。卒業生の希望を伝え、一度そちらで引見して頂き、臨床薬剤師を紹介してほしいと書きました。折り返し返事がきて、「ウエルカム」とのことでした。彼女に伝えると、急遽日本の英会話学校に通い始め、調剤薬局で、経験を積み、米国に出掛けました。ベテランズ病院で教授および直属の臨床薬剤師と面会し、色々と情報を得たのち、帰国しました。おそらく、教授も薬剤師も日本語は話せないので、彼女と十分な会話ができず、米国の臨床薬剤師として働くのは「難しい!」と思ったかもしれません。しかし、おそらく「頑張ってください」と激励したのではと思います。そのせいか、彼女は暫く日本の薬局で働き、再度渡米し、その臨床薬剤師のもとで、ボランテイアとして8ケ月見習いをしました。生活費を得るために、伝手を介して、市内の「リトル東京」と呼ばれる所にある、日系人の経営する薬局の薬剤助手として採用してもらいました。以後、大学に入学するまで、その薬局で、アルバイトをし、生活の資にしたようです。夜は、コミュニテイカレッジにでかけ、英会話を習いました。もちろん、日本にも頻繁に帰国し、調剤薬局でパートのアルバイトをして、生活費を蓄えました。

米国で薬剤師免許取得

4年の歳月が流れ、薬科大学への入学の準備がととのい、あちこちの大学を受験したようですが、最終的には、フロリダ州にある私立薬科大学に入学しました。その大学は、故国で薬剤師の免許を既に得ており、また米国で1~2年以上調剤薬局で調剤の経験を有する人は、3年で卒業出来るPharm.Dコースを有していました。Aさんは無事入学し、3年間を過ごしました。日本とはかなり異なる講義もあり、それなりに知識も増えたと連絡をうけました。写真も時々いただき、学友、教師との楽しげな学園風景を拝見しました。物価高の米国、かなり経済的には苦しかったようで、各種奨学金を探していましたが、縁者の援助で、乗り切ったようです。 学生時代は講義、実習など、アルバイトが出来ない状況だったのでしょう。しかし、全課程を修了し、晴れて卒業し、Pharm.D(Doctor)という称号を貰いました。その時のメールです。

──先週で10か月のインターンシップもすべて無事に終え、オフィシャルに卒業となりました。一息といきたいところですが、国家試験、就職活動がまだ次に続きます。まだまだ道は長いです。卒業後、就職しようかレジデントプログラムにアプライしようか悩んでいるところであります。

その国家試験に合格し、フロリダ州の薬剤師の免許証を取得しました。つづいて、カリフォルニア州の免許証も取得しました。ちなみに、フロリダ州、カリフォルニア州は気候が温暖で、人が集まるので、薬剤師の免許を取得するのは、米国では最難関と聞いております。

米国で病院薬剤師として活躍中

夢は臨床薬剤師なので、あちこちの病院に応募しましたが、採用通知はきませんでした。とりあえず、調剤薬局に勤務して、薬剤師としての業務になれ、予防接種などもおこなって地域医療に活躍していました。その間、カリフォルニア州のCVSPharmacyにて、卒後インターンを修了しました。免疫系疾患の認定薬剤師の免許も取得しました。暫くすると、現在勤務中の病院から薬剤師の公募があり、念願の病院薬剤師となりました。ただし、院内の処方箋の監査のみで、病棟には出られませんでした。 臨床薬剤師になるためには、大学を卒業後、レジデントを修了すればよいのですが、猛烈に忙しく、時間を取られる。そこで、彼女はそのルートは選ばず、病院薬剤師として数年勤務し、レジデント修了並の実力をつけて、臨床薬剤師としての資格を得られる道を選んで、もっか活躍中です。

以上のような経過で、彼女の抱いた夢は現実となりました。日本の一薬剤師が、世界でも最先端と言われる米国の臨床薬剤師になろうとしています。紹介している自分でも信じられない思いです。途中で、何度も、giveupを考えたが、止める理由がみつからず、夢へと向かったと雑誌の記事に書いてあります。 彼女は一見、物静かで、喜怒哀楽が表面には出ない、あるいは出さない女性のようでしたが、ここまで向上するとは、心底頭がさがりました。この間、7年余の歳月が流れましたが、あまりにも感動的な話なので、みなさんにご紹介しました。

「成功するか失敗するかは、最後まで続けるか止めるかで決まる」
スティーブ・ジョブズ

おわりに

以上の話を、主題「135周年を語り継ぐ」につなげましょう。 校祖、新島襄の言葉に、「男児志を決して、千里に馳(は)し、自ら辛苦を嘗(な)む」があります。同志社女子大においても、校祖の言葉は「女子志を決して、千里に馳す」と読むことができるとおもいます。135年の年輪をもつ同女という大樹、その樹から派生した新しい幹である薬学部。その巨きな樹につながる学生諸君が、身体的にも、精神的にも、「千里に馳す」という校祖の気概をもって、各自の抱いた夢の門を叩き、その成果を次の時代に語り継いで欲しいものだと願っております。

135年を語りつぐ