ジェームズ館と機関砲

中村 恵(総務課長)

ボクは1943(昭和18)年4月、国民学校初等科に入学しました。国民学校初等科、というのは現在の小学校にあたります。

当時、日本は大日本帝国と称していました。そして、アメリカ、イギリス、中国などと戦争をしていました。

1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃から始まったこの戦争は、現在では太平洋戦争といったほうが通りがいいのですが、当時、大日本帝国の側からは「大東亜戦争」といっていました。

この戦争は、ご存知のように、北東アジアから中国大陸、東南アジアにいたる東アジア全域と、フィリッピン、ニューギニアをはじめポリネシア、ミクロネシアの島々を含む西太平洋全域におよぶ広大な地域を、当時の言い方によれば「大東亜共栄圏」として大日本帝国の指導下に、はっきりいえば植民地的支配下におこう、という、壮大な妄想としかいいようのない領土的野心、これを当時は「八紘一宇の大理想」といっていましたが、その大理想のもとに始めたものでした。

八紘一宇というのは、わが国古代の神話に基づくことばです。天皇のご先祖であるニニギノミコトというカミサマがタカマガハラからこの国に天下るときに、オヤガミサマであるアマテラスオオミカミから、「お前の子孫が永遠にこの世界に君臨し、支配するように」という命令をうけた、という話が、天皇による支配を正当化するモノガタリとして古事記、日本書紀の中にでてきます。日本書紀ではこれを漢文で「八紘ヲ一宇トナセ」つまり、「世界を一つの家のようにしなさい」、と表現しているのですが、その記紀の記述が、20世紀も1/3以上が経ったというこの時代に近代国家、大日本帝国の指導理念であるとされていたわけです。

わが国は、アマテラスオオミカミの直接のご子孫である天皇をいただく神の国なんだ。八紘一宇の大理想の実現は、カミサマから日本民族に与えられた使命なんだ。この戦争はカミサマが命じられた戦争なんだから、負けるわけはない、どんなに不利に見えても最後にはかならず劣勢を一挙に挽回するカミカゼが吹く、……。

国粋原理主義とでも言えばいいんでしょうか、今から考えればタワゴトとしか思えない、こんな話を、そのころ日本国民のほとんどが信じていました。アタマから信じないまでも、ともかく信じているフリをしなければならなかったのです。信じることができないものは非国民として指弾され、それを批判するものは死刑を含む罰則規定を持つ法律、治安維持法によって取締られることになっていたからです。実際、多くの学者、知識人、宗教家が逮捕され、容赦なく弾劾、弾圧、迫害されました。きびしい拷問の末に獄中で死んでいった人も少なくありません。

このような形で思想動員が進められた結果、あの文字通り国力を傾け尽くしての大戦争が可能となったわけです。

大東亜戦争が東アジアと西太平洋一帯の諸国と住民に与えた災厄や苦難や、日本の国土と国民自身が経験することになったさまざまな悲惨なできごとは、今日のボクの話のテーマではありませんので、これ以上は触れないでおきます。

この時代の同志社や同志社女子部のことは、一昨年暮に発行された『同志社女子大学125年』のなかでも特に一章を設けて詳しく記述してあります。

いわゆる学徒動員は1943年、ボクが国民学校に入学した、その年の10月から始まっています。学生が詰襟、角帽の制服姿で銃を担って雨のなかを整然と分列行進する、あの神宮球場での壮行会の場面はあまりにも有名ですが、戦争貫徹のため教室や研究室から動員されたのは男子学生だけではありません。本学の前身である同志社女子専門学校(略して「女専」と言っていました)の女子学生も、直接戦場には行かないまでも、学業を放棄して各地の軍需工場に配属され、戦闘機の部品をはじめ各種兵器の生産に従事したり、男手を戦争に取られた農家へ援農奉仕といって、農作業のお手伝いに駆り出される一方、校庭はもちろん、松ヶ崎や岩倉に畑を作り、はては鴨川の河川敷までも開墾して畑にしてイモやカボチャ、トウモロコシなどを植えていました。

これは、けっして女専の学生が自分たちの食料を稼ぎ出そうとしたわけではなくて、文部省から青少年学徒食料飼料増産運動というものが提唱され、その実施が指示されていたからであり、つまり、国家の方針として取り組まされたものだったのですから、収穫したものは当然供出することになっていたのだそうです。しかし、実際には学校農園の場合、収穫物は「家事実習等ニ用フルタメナラバ差支ナシ。統制ヲ紊サザル範囲ニ生徒ニ頒ツモ差支ナシ」ということで、授業で使用するという名目のもとに学内で処分することもできたようです。

ボクの父親は女子専門学校の教師をしていましたので、コドモだったぼくも、父親に連れられて、当時松ヶ崎にあった農場で、女専のおねえさんたちのお手伝い、というよりは多分にお邪魔だったのだろうと思いますが、畑仕事を手伝った覚えがあります。岩倉の農園、というのも覚えがあります。たしか植物園の中にも女専の畑があったように記憶しています。

当時、京都市内の交通機関は主に市電でした。

ちなみに、そのころは、市電が神社の前を通るときには、車掌サンが声をかけて、乗客はそちらの方に向ってお辞儀をして戦争勝利を祈願することになっていたものでした。

それはともかく、ある日、ボクは、母親と市電にのって今出川通を通っていました。烏丸今出川の交差点から今出川通を東へ向うと、左手に同志社の今出川キャンパスがあります。現在でもそうですが、今出川通から同志社の構内が見えるのは御所の今出川御門から東、女子部の構内にほぼ限られます。

父の職場、ということは知っていましたので、電車の中から女子部の構内を眺めていたのですが、そのとき、ジェームズ館の屋根の上に、…いまでも屋根のマンナカのところに出窓のようなものがありますが、あの出っぱりの上のところに機関砲が~つまり、あれが機関砲というものだと思うのですが、当時ボクたちコドモらが、絵本や雑誌でよく目にしていたものと同じ形をしていました~それが、砲身を斜め上にむけて据えつけられているのが見えました。そして、兵隊が三人ほどその周りで何か作業をしているようでした。

ボクは、今でいえば小学校二年の夏休に家族ごとイナカに疎開してしまいましたから、この記憶はおそくとも1944(昭和19)年7月までのことであるはずです。

数年前、同志社女子大学の『125周年記念誌』の計画が持ち上がったころ、このことを思い出して、編集委員会でも話題にし、また、女専の学生としてあの時代を過ごされた名誉教授の秦芳江先生にもうかがってみたのですが、ご記憶にないということでした。同志社大学の社史資料室にもそんな記録はないようです。

軍にとっては、対空兵器の配置などは重大な機密事項であったはずですから、当然新聞になど載っているはずもありませんので、どうやって調べたものか、と思いつつ、今日まで来ています。どうやら、長期間そこに設置されていた、というのではなく、ごく一時的に、なにかの特別な必要があって、……たまたま皇族の誰かが御所に滞在している、などの理由があってその警備のために、臨時に設置されたものだったのだろう、と思っています。

そういうわけで、あの機関砲が、本当にジェームス館、いや、戦争中は英語は敵国のことば、敵性語であるとして使用が禁じられていましたので、同志社では建物の英語名を日本語につけかえていました。だから、ジェームズ館も至恩館と名を変えていたのですが、その至恩館の屋上に、あの機関砲が本当にあったのかどうか、いまのところ国民学校初等科2年生だったボクの記憶以外には証拠がないのです。

「125年を語りつぐ」という、このシリーズに中で、こんなことをお話したのは、皆さんに、このような時代~国のすすめる考えとちがう、別の考えかたをする人が法律で取り締まられるような、その結果、自国の国民だけでなく、他の多くの国の人々が、とりわけ女性や子供たちが、文字どおり塗炭の苦しみを嘗めることになるような、学生が教室から戦場や工場、農場に動員されたり、女学校の校舎の屋上にまで機関砲が設置されるような、そんな、今時の感覚からすればマサカ、と思うようなことが、現実だった、そんな時代が、それほど遠くない過去にあったんだ、ということを、ぜひ学生のみなさんに知っておいていただきたいと思ったからです。

みなさんが生活し、活躍されることになる時代、21世紀が、本当に平和な時代となることを、そしてみなさんがたお一人お一人が「平和を作り出す人」(マタイ5・9)になられることを、こころから祈りたいと思います。

125年を語りつぐ