心の目を開く―ミス・デントンと松田道―

紀嘉子(生活科学部 特任教授)

同志社の理想へのアプローチ

人間は理想を求めて成長する存在です。では、同志社では何を理想として教育が行われて来たのでしょうか。
私が受けた同志社における教育の中で、先生方は何を語られ、そして、それを受けた私は、学生さん達に何を語りつぎたいのか考えてみました。

総論的ではなく、もっと具体的に、ミス・デントンが同窓生を通して、間接的に、私達に語られたことは何だったのか。松田道先生が直接、私達に語られたことは何だったのか。その共通点を探ることによって、具体的に、両先生は何を語られ、私は何を学生さん達に語りつぎたいのか、生徒・学生・教員として過ごした長い同志社という学び舎での生活を通して、今、理解できたことをお話したいと思います。

松田道先生とのめぐり合い

私が中学生の頃、松田道先生とめぐり合いました。1950年頃、敗戦から何年かたった時でした。時代は、戦争と軍国主義の時代から、平和と民主主義の時代へと大きく変化し、精神的に明るく、伸び伸びした男女同権を目指す世界が生まれていました。戦争中は食べ物もなく、小学生は空襲によって自宅と学校の間を逃げ惑ったり、集団疎開に行ったりして、勉強もろくに出来ない日々でした。中学生から大学生は工場で働き、男子は学徒動員で戦争にかり出されました。そして、軍部に抑圧され、間違った情報を流され、それを信じる事を強制されていました。敗戦によって、このような自由で開放された世界が生まれたことは、子供心にも奇跡のように思えました。戦後、思想の大きな変化の中で心のよりどころを求めて、人々の関心は、キリスト教に、そしてキリスト教主義の学校で教育を受けることに注がれていました。

そうした時代での或る日のこと、私は同志社女子中学の生徒でしたが、新学期の聖書の時間、どのような先生にお習いするのかと期待に満ちて廊下に向かって開かれた教室のドアを眺めていました。すると高齢の小柄な一人の女性が、颯爽と力強い足取りで教室へ入られ、教壇に立たれました。そして開口一番、「パウロはタルソのキリキヤに生まれた」と大声で話し始められたのです。そのいでたちは、グレーの髪を高く結い上げてカモジを入れ、頭のてっぺんにおだんごのようにまとめておられました。着物と羽織にモンペを身に着けられ、白足袋に白い鼻緒の畳表の草履を履いておられました。御歳のころは80歳位とお見受けしましたが、よくわかりません。

この先生は松田道先生といわれ、その昔、同志社女子専門学校(同志社女子大学の前身)の教員であると共に、同志社女学校の初の女性校長でいらしたこと、若き日にアメリカの大学で学ばれたことなどが、少女達の耳に伝わってきました。

松田先生は小娘の私達に、熱心にパウロの生涯を語って下さいました。中でも圧巻は、クリスチャンを迫害していたパウロが、イエスとめぐり合って回心し、熱心なクリスチャンとして、福音を述べ伝えるようになるくだりでした。

当時パウロはサウロと言っていたのですが、クリスチャンを迫害するために旅に出ました。その時、昼間でしたが、突然、天からの光が光々と彼のまわりを照らしました。サウロは地に倒れてしまいました。そして、「サウル、サウル、何ぞ我を迫害するや」松田道先生はこう言われたのですが、つまり「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのですか」という声を聞いたのです。サウロが、あなたはどなたですかというと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである、起きて町に入りなさい。そうすればあなたのなすべきことが知らされる」という答えがありました。パウロは急に目が見えなくなり、同行していた人々に伴われてダマスコという町に入ります。サウロは三日間目が見えず、食べも飲みもしませんでした。イエスがクリスチャンのアナニアを通してパウロに言葉を伝えられました。パウロは、イエスの言葉を伝え聞いて、元どおり目が見えるようになり、食事をし、元気を取り戻して、ダマスコでイエスの福音を述べ伝えるようになります。
これは、言いかえるとパウロは以前からクリスチャンを迫害しながらもその福音を知り、クリスチャンの生き方に心惹かれていきました。そしてパウロは、すでに亡くなっていられたイエスの声を聞き、三日間熟考の上、目が開いて回心するということではないでしょうか。
パウロは当時、重んじられていたローマ帝国の市民権を持ち、ギリシャ語ができました。そして「幕屋作り」、つまり神殿などで用いられるテントを作る質の高い技術を持っていたために、生きる糧を、働いて自分で得ることができました。こうしたパウロがイエスに選ばれて、クリスチャンになった事は、イエスの福音を広く、世界に述べ伝える上で大変有利なことでした。
松田先生は、この後、御高齢のため遠方の弟さんの所へ行かれたと伺いましたが、その力強く、分かり易い授業は少女達に強い印象を与え、いつまでも遊びの中に、「パウロはタルソのキリキヤに生まれた」という言葉を折り込んで遊んでいました。

ミス・デントンからのメッセージ

その後、私は、同志社女子高校、同志社女子大学へと進学し、同志社岩倉高校非常勤講師を経て、同志社女子大学の研究助手から専任講師になりましたが、この頃、家庭管理実習を担当していました。この実習の中には「御招待」というプログラムが組み込まれ、家政学部の大学4年の実習生、1グループ10名、10日間、必須の実習でしたが、その実習生が毎回、色々と準備をして、総長先生、理事長先生、同窓会の会長さんはじめ、役員の方々、(いずれも50~60歳以上の方々)を実習ハウスでのお茶にお招きする行事がありました。この行事の中で、世代をつなぐ沢山のめぐり合いがあり、学生も、お客様方も楽しいお話しを通してさわやかに励まし合いを行い、勇気付けられ、生き方を探る一時を持つことが出来ました。

この時、いつもミス・デントンという同志社女子部の母ともいうべき先生のお話しが出ました。

ミス・デントンはすでに亡くなっていられましたが、同窓会の役員の方々が学生でいらした頃、まだお元気で、当時義務付けられていた礼拝をエスケープする学生を追いかけて、御不自由になられた足を引きずりながら御所まで追いかけて行かれたことと、英作文や西洋料理を熱心に教えて下さったことを楽しく懐かしそうに語ってくださいました。「レター下さい」と言って英文のレターを先生に出させたり、英語でお話しをさせて、英作文を日常生活に結び付けて教えられたこと、そして、西洋料理を生徒達の家庭に広めるために、実習で作ったクッキーやケーキを家に持ち帰らされたことなど、具体的なお話しを伺いました。
何故ミス・デントンはこのように学生を礼拝に出席させることに熱心であったのでしょうか。そして、何故学生からこのように愛されていられたのでしょうか。

また、松田道先生は、何故、小娘の中学生の私達にあんなにさりげなく、かつ力強く熱心にパウロの生涯を語って下さったのでしょうか。

同志社女子大学の存在理由

今、考えますと、両先生は「聖なるめぐり合いによって心の目を開き、神を愛し、隣人を自分のように愛すること。そして、生きるために、何か自分に適した仕事をする力を身につけ、それを用いて、地の塩・世の光として輝く人になって欲しい」と願われたからではないでしょうか。

言いかえると、ミス・デントンと松田道先生が学生達に望まれたことこそが、同志社女子大学の存在理由であると考えます。

心の目を開いて生きるには

キリスト教主義に基づく学校で教育を受けて、地の塩・世の光として生きる方々があります。それは、その方々は、礼拝や聖書の時間や、教会やその他の場所を通して、聖なるめぐり合いを経験し、心の目を開いて「高い志」を持たれたからではないでしょうか。

聖なるめぐり合いが行われた「その他の場所」は、人によって違いますが、例えば弁護士の中坊公平氏は「現場に神宿る」といわれ、筑波大学の応用生物化学系の教授でいられた村上和雄氏は「遺伝子の研究を通して、サムシング・グレート=偉大なる何者かの存在を感じる」と言われています。つまりその他の場所とは、依頼された件についての現場であったり、実験室であったり、その方が真剣に生きる場をさすと言えるでしょう。

今日は、新島襄先生の建学の精神に感銘を受け、志を同じくして同志社での教育に情熱を注がれた、ミス・デントンと松田道先生のお話しをさせて頂きました。

125年を語りつぐ