今を大切に

中江 昌子(卒業生)

私は1950年、今から約50年前に同志社女子大学の前身である同志社女専の英文科を卒業いたしましたが、それは、つい昨日のことのように思われます。今日選んだ讃美歌122番は入学式に私が初めて歌った、忘れられないものです。また先刻選びました聖書の箇所は恩師滝山徳三先生が礼拝の度に、いつもお読みになった箇所なのです。今日、私は皆様に「今を大切に」というテーマでお話ししたいと願っておりますが、あまりに恵まれていて「今」という時をつい粗末にしがちな、若い方々にお話ししたくて選びました。

私が入学した1947年頃は、まだ戦後間もなくて、日本中の主要都市は焼け野原でした。皆、食べる物も着る物もなく、日本中が貧しい時でした。生きていくのが大変なその時に娘を同志社へ送り出してくれた両親に、私たちは、とても感謝していました。私たちの学年には海外から引き揚げてきた人達や戦災にあった人達もいて、年齢も様々だったのです。私たちは動員学徒として軍需工場で働かされた最小学年でした。1年5ケ月の間、学校という学習の場に籍を置きながら、全く授業はなくて、日曜日も返上して工場で働いた後でした。ですから、「焼石に水」の譬え通り、全身で知識を吸収していったように思います。公立学校から同志社へ来た私は、「日本にこんな学校があったんだ!」と驚きました。牛か馬を追うようにして働かされた記憶の後で、私を同志社で迎えてくださった先生方は、穏やかで、慎ましくて、とても温かい方々だったからです。ことに、毎日の礼拝において読んだ聖書の中の言葉、先生方から奨励の中で教わった事柄は、私の心をほのぼのと温めて優しくしてくれました。授業で読んだ小説や詩の中で出会った聖句の数々も忘れられないものとなりました。

人生には、実に色々なことがあります。私は三人姉妹の末っ子ですが、国公立の学校でしか学ばなかった姉たちと、同志社で学んだ私との違いを人生の節々にしみじみと感じました。年々老いていく親たちへの心配りや、成長期の子供達への接し方などです。その度に、「私は、このように受けとめられて良かった」とか、「このように人を許すことができて、幸せだった」と幾度思ったかわからないのです。それらの時に私を幸せにしてくれたものは、同志社で学んだ「人を愛し、人を許す」という心でした。私には、息子と娘がいて、娘は当然のごとく同志社に学び、今は幸せな家庭人となっています。一方、息子の方は全く違った方面に進み、今は、勤務医となっております。その彼が、病院の機関紙のようなものの中に、次のようなことを書いているのを、先日知りました。
自分は、幼い頃から、「自分がして欲しいと思うように、人にしてあげなさい」とやかましく教えられてきた。当時、私は、「そんなことをしていたら、損をするだけ だ」と口答えして反発してきたものであった。けれども、今医師という職業について「患者さんの気持ちになって、いたわってあげたい。患者さんの痛み、苦しみを判ってあげなくては・・・」と心から思えるようになった。そのように思える自分は幸せである」

こんなことを書いていたのです。これは、私を通して彼に伝わった、同志社からのすばらしい贈物だと思ったのでした。

もうひとつ、皆様に聞いて頂きたいお話しがあります。来春、発刊されるヒバード先生追悼集の中にも、書かせて頂いたことですが・・・。ある冬の大雪の日のことです。当時、私たちは、ヒバード先生に英文学の講義を受けていたと思いますが、その日は大雪で、ほとんど全ての交通はストップしてしまいました。そのため、出席した学生数は少なかったのです。すると、教室へ来られた先生は、「今日の私の講義は今日だけのものであり、あなた方は今日しか、それを聞くことは出来ないのです。みんなで手分けして出来るだけ多くの学生を集めなさい。集まったら、私を呼びに来なさい」とおっしゃったのでした。当時は、交通も今ほど便利ではなく、食料事情から寮にも入れなくて、遠距離通学生はたくさんいました。でも、私たちは、手分けをして電話をかけたり、電報を打ったりして、クラスの仲間を呼び集めました。そこそこの人数が集まった後、先生はにこやかに授業をしてくださいました。この時、先生は「今を大切に」という「一期一会」の心を教えてくださったのです。

恵まれた時代に恵まれた学園で学んでいらっしゃる皆さんは、どうぞ、「今を大切に」生きて頂きたいのです。毎日の礼拝の場で教わること、講義を通して教わること、それらを大切に受けとめて頂きたいのです。心に、信仰と希望と愛を持って、「今を大切に」生きて頂きたいと思います。

125年を語りつぐ