新島襄の病気

宮澤正典(生活科学部 特任教授)

新島襄は自分で、特に晩年ですけれども、お手元のプリントにありますように「病魔の囚人」と何回も書いています。新島書簡集の中から病気に関する彼の記述を拾ったら膨大な量になりました。その中の目に止まったものをそこに挙げました。悪性のはしかを青年時代に患い、函館では眼病をロシア病院で診てもらいました。その後ここに挙げているような病気を繰り返し記しています。それがどのくらい大変だったんだろうかと言いますと、始めの2つを見ていただこうと思います。一つは、「脳病よろしからず、脳中熱湯の沸くが如し、夜々の眠り不充分にして」というように、いかに頭痛が激しいものであるかということが伺えます。その次は「多病にして1年の半分余は病を養い居りて東奔西走我が事業に従事し得ざる」、とありますが健康のために1年の半分は保養とか療養のために時間をとられて大学を作るために奔走できないということが本当に苦痛だと述べています。そういう病気の状況は比較的早い時期からもありました。『七一雑報』というキリスト教の週刊誌が神戸から出されておりましたが、そこに広告を明治16年に2回載せております。「小生是レ迄何時トモナク諸君ノ御来訪ニ応ジ来候処多年ノ脳痛近時殊ニ甚敷覚エ候ニ付」、やむを得ずこれからは時間を区切ってお会いしますという広告です。

次はハーディーにあてた手紙の中で、頭痛のため読むことも書くこともできないと何回か書いています。徳富猪一郎にあてた年賀状の「小生ニも乍多病加年仕、臥櫪之志決不消御休神被下度奉希候」(明治16年)、つまり病気のためにいろいろさまたげられているけれども同志社を大学にするための志というものは決して消えていないんだと記しています。同じ年の日記にこんなことも書いています。「本日ハ脳病宜シカラサレトモ、無理ニ出校シタリシガ」「授業中何ニカ脳中ニ混雑ヲ覚へ」、生徒が質問をしたけれども思い違いをして答えてしまった。さらに同じ年ですが「病院ニ行キ、金月水ノ三日ニエレキヲ身体ニカケル事ヲ頼ム」とあります。これらはほんの一部ですが療養のために意を払っているということもよく出てきます。例えば保養に関しても、京都の冬がリュウマチに良くないということで神戸に冬の間、保養に行きます。3月になって京都に帰ったのですが、やっぱり寒さの苦痛には耐えられなくて、また神戸に戻るということもあったりしました。そういうのを拾っていきますと、奈良、札幌、伊香保、鎌倉、東京、比叡山、神戸など。丸太町上ルの自宅が寒いので円山公園には少し夜の気温などが異なるということで医者に勧められて円山に行くということもありました。最後は大磯で亡くなるのですが、病気のために随分時間が取られていることが実感できます。わたくしが拾ったのは『新島襄全集』の書簡の中ですが100回以上自分の病気のことを書いています。どうしてそんなに病気のことを手紙に書くのかといいますと、会合に病気のために参加できなくなってしまった。あるいはご無沙汰しているのは病気だった。説教や講演を依頼されてもそれに応じられない。保養に出かける、それは実はこういう病気のために保養に行かざるを得ないんだというふうに、手紙の中にそれを書かざるを得ないということがあって、頻繁にそれを書いているのです。最後は急性腹膜炎症で亡くなるのですが、去年研究会で医者が、亡くなるまでの1か月間の病状の記録を研究されて、もし新島がもう2年その病気になるのが遅かったら、手術で治ることができたのではないかと報告をしておられました。また、その1か月間の治療はほとんど痛みを取るための、例えばモルヒネなんかも使います。それは治療ではなくて痛みを取るためで、むしろその病気から逃げることであって、治療になっていなかったのではないか、とも述べておられました。

手紙を読んでいると、病気のためになぜもっと集中して治療しないのかと思わされるほどで、いらいらするくらいなんですが、新島襄という人は自分の病気に関しては、もう少しどうにかできたのではないかと思うほどです。しかし他人に対しては実に克明に健康の注意をしております。例えば、お父さんお母さんには常に健康を問うています。それから食事とか衛生上の注意についても固いものを食べちゃいかんとか、こはきもの、というのはどういうものか分かりませんが、召し上がらないように。弟の双六に対しても衣食住について、例えば部屋の掃除をしろ、下着は1週間に1回は洗濯しろ、それから炭火のあんかは炭酸ガスが出て危険だから使うなとか。酒とかタバコは身体を害すからやめなさい。散歩しなさい。熱い風呂はいけない。新鮮な空気を求めなさい。大食はいけない。食事の時間を決めて、消化の悪いものは食べちゃいけない。腐敗物にはご用心。塩、漬物は消化が悪いからやめなさい。牛肉、豚肉は食べなさい。それから長く座ることは、血のめぐりが悪くなるからやめなさい。実に細かく言っています。奥さんの八重さんに、関東に出かけている時ですけれども手紙の中で、費用はいかばかり相かかり候とも苦しからず。婦人の病気の一生涯の病持ちになり十分手を尽くさずして持病になるは我々の手落ちだ。だからどんなに費用をかけても病気を治しなさいと書いています。家族だけではなくて、卒業生たちに対しても病気の人にこんな手紙を出しています。決して失望ありたもうなかれとか、決してご落胆なしたもうなかれとか、無理はいけません。無理は不可。断然、休養の策をとりなさい。姑息の策は不得策である。つまり1年や2年は充分取り返すことが出きるんだから、療養しなさい書いています。さらに病気の人に、当時では相当な額だと思うんですけれども、お見舞いを例えば3円、それから別の時には返すがえすもご病気はお大切にと言って、見舞い金を5円送るというようなこともしています。それから八重さんに対して、お母さんの食事に注意しろと言うんですね。柔らかき物、甘き物、何ぞ魚の軽き物、茶碗蒸のたぐいを差し上げるように百方ご工夫ありて、まず健康をと書いています。他者には1、2年損失するとも挽回はいつでも出来申し候。悠悠閑閑、泰然として将来の大計をと言うんです。それから新潟に伝道に行く人に対しては冒寒せぬよう、つまり感冒にかからないようにせいぜいご用心、ご用心と書いています。大磯で彼は1か月後に亡くなるのですが、知り合いにこんなことを言っています。ご休養が上策。あまり強いご運動は不可。ご滞留の近傍の飲料水は不良。つまりあなたが宿泊している近くでは、去年腸チフスが流行した。だから心配なので、ステーション近傍の井戸の清水をお使いになりますように。老婆心の至りと書きます。つまり自分に対してもっと健康を注意したら良かったと思うのですが、他人に対してはそういう配慮をしています。

さて、プリントを見ていただきまして、3つ目の文章ですが、これは1884年の4月から85年の12月にかけて保養のためということで、欧米旅行をいたします。その旅行中にも実はサンタゴールの山を登っている間に、呼吸が苦しくなって遺書を書くというようなことがありました。旅行中、確かに保養に注意しています。けれども好奇心旺盛で教会や学校を訪ねたり、いろんな施設を訪ねたりということをやってアメリカに着きました。アメリカではハーディー、その他新旧の多くの人に会います。あなたは保養のためにアメリカに来たんだから、充分保養しなさいということを言われて、自分でも自覚してはいるんです。3つ目の文章を読みます。「病気故米国に参る事をえて」つまり保養のためにアメリカに来ることができたと言いながら、彼は熱心に募金活動をやるんですね。「此巨大之金を学校の為に募るを得しは、我等を愛する神」がいてくれたんだというふうに書きます。教え子の同志社の教師の市原盛弘に対して、大学設立のためのアメリカでの募金を達成しなかったら、再び諸君にご面会申すまじと決断致しおり候、というふうにして、アメリカに保養に行ったことは確かですけれども、大学のための募金に力を注いでいる。その後を拾ってみましょう。「その後宿痾全く癒えず」、「私はもとより覚悟の上の事男子の戦場に出るの同様なりと存候、落胆は致し申さず」。病気なんだけれども再挙を相計るつもりで、「この度は極めて大切な時に之有り、事の成らず前に帰宅は出来兼候」。これは八重に出した手紙です。最後のところは非常に印象的です。「我脳破裂すべきも千歳之一遇此好機決して失ふべからず」と書いています。最後は前橋で大学設立の募金運動をしますが、病気のために東京に帰らざるをえなくなった。さらに東京でも十分でなくて大磯へ行くわけですけれども、東京で入院中にも卒業生、賛同者を集めて募金の活動をします。とくに前橋以降の彼の手紙の書き方はすさまじいと言っていいくらいです。病床からも手紙を出し続けて、亡くなる前年の11月以来、数千通、翌年の1月には百余通も大学設立募金のための手紙を出していると書いています。

新島襄は、わたくしどもからみると、どうして充分療養してもう少し長く生きてくれなかったのかと思うのですが、彼は大学をつくる千歳一遇の好機がここにあって我脳破裂するともそれをなさなければならない。そしてもし私が命を失ってもそれを継いでくれる人がいるということを信じて、そういうふうに振る舞ったのだろうと思います。彼が亡くなってはるか後も、わたしどもはそのようにして、できた同志社にいるものたちであり、新島のそういう思いを常々思い起こしていく必要があるのではないかと考えています。

125年を語りつぐ