~特別編~ 求めつつ歩むよろこび

有賀 のゆり(名誉教授)

おはようございます。わたくしは一昨年の3月まで同志社女子大で教えさせていただいておりました有賀と申します。今日は久しぶりに田辺のほうに来ましたが、来る度にこの辺はきれいになっております。だんだん新緑も見え出して、いいなと思って参りました。そして今日は特に本当に新緑のような皆さんとお話ができるということは、とてもうれしいことです。皆さんは、小・中・高とずっと次の学校の入学ということを目的に勉強して、それぞれの過程を通って今度大学に入って来られたのだと思いますね。ですから教育課程の中では終盤に入っていらっしゃって、もうこれ以上は、大学院にいらっしゃる方もあると思いますけども、たいていの方はこれでもうあと入学試験はないからと、本当に解放された気持ちでいらっしゃると思うのです。そして新しい授業が始まった今、この学校へいらっしゃって、専攻のそれぞれの課程で、本当に良かったなあと思っていらっしゃる方もあるかもしれないし、またこんな所へ来るんじゃなかったと思っている方もあるかもしれません。どんなことを皆さん考えていらっしゃるのでしょう。気持ちが自由になって、自分は本当にどういう人間なのかしら、自分はどうやってこれから生きて行ったらいいのか、これからの将来はどういうことになるのかなあ、などと思っていらっしゃる方もあると思います。とても大事な時期なんですよね。皆さんはまだ本当にお若い。まさに青春のただ中にいらっしゃるわけです。

こう申しますわたくしでも青春の時代というのがあったのです。わたくしの青春時代というのは、同志社女子大学通信第15号の中でわたくしが書いている記事がありますので、もしもご興味がある方はそれを読んでいただいたら分かりますが、そのタイトルは「欠乏感の中で求め続けて」というものでした。わたくしたちの青春時代、それは実は今の女子大の前身の女子専門学校だった時代なのです。わたしがその女子専門学校に入ったのは、戦争の、って言うとみんなびっくりなさるんですけれども、太平洋戦争の最後の年ですね。昭和20年、1945年のことでした。日本中各地で空襲があって、わたしのクラスメイトは皆、伊丹、現在空港がある所ですね。あそこに軍需工場がありまして、そこに動員されて働きに行っておりました。わたしたちはその時に高等女学部4年生だったのです。昔の制度でいきますと小学校を終えてから後、高等女学校というのがあったのですが、それは5年間で卒業したのです。でも、わたしたちは戦争のために4年しか勉強していないのです。4年修了です。しかも本当に勉強したのは3年間だけです。4年目はこの様に動員に徴用されましたから中学の3年ぐらいしか勉強していないわけですね。大変に教育が欠如しております。それでも一応4年だけで女専に入学を許されたわけです。ですけれども普通なら4月に入学式があるところが、まだ戦争中ですから工場を離れることが許されないので、入学式は7月の11日に、わたしのクラスメイトは初めて京都に帰ってくることを許されて、今出川校地の栄光館の2階の大教室で行われました。わたくしは足が不自由なものですから、残留組といって、それまで他にも身体に障害のある方たちと一緒に栄光館のひと部屋にあります作業所で手作業をしておりました。一応、入学式はあったのですが、その後まだ空襲警報が毎日鳴り、敵機がやって来ますから、授業ができなくて家に待機しておりました。そして8月15日、わたしたちは呼び出されて学校に行きましたら、直ちに先生に連れられて、今の同大のクラーク館の前に集まったのですね。そしてそこで玉音放送というのがありました。玉音というのは天皇陛下のお声で、そのお言葉を生まれて初めて聞かされたのです。でもほとんど聞きとれませんでした。わたしたちはすぐにまた、現在、改修工事が行われておりますジェームズ館の2階のわたしたちの教室に戻ってきました。そこで担任の中村貢先生(今その息子さんが庶務のほうのお仕事をしていらっしゃいますけれども)、その先生が日本は負けた、無条件降伏をしたという通告をわたしたちに伝えてくださいまして、わたしたちは大声を上げて泣いたのです。それまで苦労して耐えて耐えてきたのですね。戦争に勝つと思っていたのですね。それがだめになったということで、本当に教室中、わあわあという泣き声でいっぱいになりました。それからわたしたちはまた家に帰って、待機していたわけです。

そして9月の1日に一応、授業開始になったのですが、ちょっと学校に行ったと思いましたら今度は、進駐軍、つまりアメリカの兵隊たちが入って来るというので、女の子たちは危険だからと、また家で待機だったのですね。でも予測に反してアメリカ兵は幸いにも紳士的に入って来ました。ともかくそんなことでやっと授業開始になったのが10月の15日でした。ちょうど皆さんの後期の頃ですね。さっそく、礼拝が始まりました。わたしはその頃の授業のことはあまり覚えていないのですが、礼拝は朝の10時から10時半でしたか、ちょうど授業の間に行われて、全学生、全教職員が現今出川キャンパスの栄光館、皆さんが入学式をなさったあの立派な建物の中に入りまして、そして本当に真剣に礼拝をしたのです。日本中が空襲でやられて、そしてご家族を亡くした方、お父さんがまだ兵隊に行ったまま復員して来ない方とか、お腹もみんな空いていて貧しい人たちばかりでしたけれども、何か非常に求めていたのですね。ですから礼拝のお話はみんな食い入るように聞きました。そこで話された方々は、その時の学長でいらした片桐哲先生や後に学長になられた滝山徳三先生、加藤謙爾先生等です。それから学外の牧師先生もたくさん来てお話ししてくださいましたが、皆さんが共通して強調されたのは同志社こそ、これからの新しい日本の要になる一番大事な教育をするところだということでした。それまではわたしたちは全体主義、軍国主義という一色で教育されてきました。教えられた通りに行動しなければ、何も許されなかった。全て命令だったのです。全てが天皇陛下の命令で、自由に考えたり、自由に行動したりすることは許されなかったのです。

ですけれども自由な時代になったわけです。民主主義の時代になったのです。民主主義というのは一人一人の人間に価値がある、命に価値がある、可能性があるということを基本原理にしている主義なのですね。そしてそういう考え方の基盤になるのが、キリスト教です。キリスト教では、神様が人間一人一人を造ってくださって、一人一人が神様の愛する存在。神様はその一人一人が互いに愛し合い尊重し合いつつ、個々の可能性を充分にいかして共に生きてくれることを望んでいらっしゃる、と教えています。新島先生はそのキリスト教を基盤にして同志社をお建てになった。だから同志社では学生を丁重に扱うべし、と先生はおっしゃっていますね。さらに同志社では自由・自主の精神を持った人を養成するとおっしゃっています。その意味は、自分勝手な人を養成するということではないのです。神様から与えられた命をあくまでも大事にして、それを責任を持って育み、その可能性を伸ばす、ということですね。しかも、良心を手腕に運用する人を養成する。ただ技能とか知識とかに秀でているだけではなくて、良心をもって行動する人です。良心っていうのは神様の前に自分が立って初めて分かることなのです。ですから自分勝手をすることではなくて、神様の前に立って、自分がこれは本当に正しいことかどうかを判断する。世の中の人がこう言っていても、あるいは政府が権力を持って命令しても、まず自分の心に聞いてこれが正しいと思うことを考え、そして実行する人、そういう本当の意味で強い人をつくりたいと新島先生は願われたのでした。皆さんは、その学校に入って来られたわけですね。

さて私の青春時代は、先程申しましたが一言で言いますと、それはハングリーであったということです。私の仲良しのお友だちに、ハングリーさんという人がいます。彼女はすごく正直な人で、ちっとも気取らない。それで顔を見るとすぐに、おはようと言う代わりに、お腹空いたわね。いつ会っても、お腹空いた、って言うのですね。実際そうだったのです、みんな。だけど、ちょっと大人だからと思ってみんな言わないでいたわけですが、彼女は口に出して言うものですからみんなが、ハングリーと呼ぶようになりました。もう少し丁寧に言う時は、ハンちゃんと言うのです。いまだにそのハンちゃんは、電話をかけてきても、「もしもし、ハングリーだけど」って自分で名乗るのですね。今だにみんなの間でハングリーで通ってるんですけれども、これは正にわたしたちの青春時代を象徴しております。

さて、1年目はほとんど授業がなく、そして2年目、1946年の4月頃からやっとまともに授業が始まりました。わたくしの在籍していたのは今の英語英文学科の前身で、その頃は英語科と言いましたけれども、以前は英文科だったところです。その頃、英語科は一番少数のクラスだったのです。戦争中にはたいていの人は家政科(今の生活科学部)の方を選んだわけですけれども、変わり者だけが英文科に入りました。その中には私の親のように、戦時中は英語は敵性語でいらないと言われているけれども、戦争が終わったらきっと役に立つから勉強をしておいたほうがいいよ、と勧める様な家庭出身の方が多くて、わたしを含めて全部で49人でした。でも全く何もなく、教科書もないのですよ。先生方は大変でした。紙もないのです。それで試験の古い答案用紙の、まだ答案の字が書いてあるのを裏返して、そして書いた方の名前は墨で消して、その裏側にガリ版刷りをされるのです。皆さんはお分かりにならないかと思いますが、先生が尖った金物の先で一つ一つ、謄写用紙の上に字を書いて行かれて、それを刷るんですね。1枚ずつ。そうしてできたのが教科書。紙は古いですから所々、破けたり、英語も字が読めないところがいっぱいあったり、裏の字がちょっと表側に写っていたりとか、そういうもので授業を受けました。それからもちろん冬は暖房はありません。

今度、125周年の立派な写真集がでましたね。皆さん、ご覧になったかしら。そしてその歴史的な記録の頁に宮澤正典先生や坂本清音先生等が本当に素晴らしい解説の文を付けてくださっています。その中の142ページにわたくしが入学した時のクラスの全員写真が入っています。それは「新しい息吹」と題して戦争直後のことを扱っているページなのですが、先生方も含めて、みんな本当に寒そうな格好をしてズボンをはいて集まっています。場所はジェームズ館、現在、今出川の改修工事の行われているジェームズ館の南側なのですね。そこが日が当たって学校中で一番あたたかい所だったのですね。だからお天気のいい日はみんなそこへ出ていたのです。猫の子のように、そこで暖をとっていた。見たところはなんとも哀れな感じです。わたくしはだからこのごろ、世界中のいろんな所での避難民、とくにその子供たちの顔や姿を見ると、こういうわたしたちの古い時代を思い出すのです。でもこの写真の顔をよく見ると、みんなけっこう笑顔で楽しそうな表情をしているのです。それはやっぱり若いからです。青春っていうのは矢張り素晴らしいものなのですね。

ところで2年目になってだんだん授業が軌道にのり始めると、とてもみんな知識欲がわいてきたのです。それ迄、何にも勉強をさせてもらっていないのですから。その時に、わたくしに一番刺激を与えられた先生は、日本人の先生では加藤さだ先生という方です。加藤先生は、ご主人の龍太郎先生とともに英文学の先生でいらっしゃいました。ことにさだ先生という女性は、戦前にアメリカに留学された方で、本当に生き生きとした先生でした。その方が、「あなた方は頭が空っぽでしょう。自分で考えたことがないでしょう。自分の頭で考えなさい」と鋭くおっしゃったのでわたしたちは刺激を受けて、ものすごく勉強を始めたのですね。同時に音楽にも非常に興味を持ちました。その2年目の秋には戦時中アメリカに帰国しておられた女性の宣教師、クラップ先生、グウィーン先生、ヒバード先生(後の新制女子大の初代学長になられた)3人の先生方がさっそうとして同志社に帰ってきてくださいました。そして初めてわたしたちはほんものの英語、生の英語を聞いて、ああ、わたしたちにもこんな世界があるんだと、急に目の前がパッと明るくなる様な気がしたのです。また、課外音楽でもわたしはクラップ先生にピアノのご指導を受け、一生懸命やりだしたものですから、先生は音楽の方へ進むように強くすすめられ、留学への道を開いて下さいました。そこで英語科を卒業した後、20歳でしたけれども決心をして、音楽の勉強のために一人でアメリカに行きました。その頃はまだ空の便はなく、船で2週間かけて太平洋を横断しました。アメリカで学部と大学院を卒業して帰ってきますと、同志社女子大学には既に音楽の専攻が発足していましたので、教えることになりました。5年後にまた勉強がしたくなって今度はヨーロッパに行きたいと思っていた所、ドイツ留学の機会を与えられ、更に勉強をさせていただくことができて幸せでした。ふりかえって考えてみると、このように求め続けてよろこびを与えられてきたというのは、やはり青春の学校時代にハングリーであったということに起因する所が大きいと思います。

皆さんは今、どうでしょうか。ハングリーでしょうか。物はいっぱいあります。そして本当に便利なものばかり。ですけれども、実際には大事なものがない、あるいは分からない、ということがあるのじゃないでしょうか。かえってあんまりいろんな物があって、あまりに情報があってその中で一番大切な本物を見つけるのが大変な時代でもあると思います。皆さんにとっては大変しんどい時代でもあると思います。そして現在の日本の状態、将来、これから地球がどうなるか、人間がどうなるか、本当に何か不安を覚える時代ですね。でも皆さんは確実にこれからの世代を担っていく方なのです。ですから、絶えず求め続けてください。同志社女子大には、求めたら必ず与えてくださる先生方がいらっしゃると思います。そして先生方を通して与えられるのは、実は目に見えない神様のお働きなのですね。求めるのはあなた方です。神様が与えてくださったと思った時に、そこに感謝がわきます。よろこびがわきます。自分が勝ち取ったんじゃない。神様が与えてくださったと。そしてそれをまた人にもしてあげたいという気持ちになります。それがわたくしは今朝与えられた聖句の教えだと思います。あなた方は自分がしてほしいと思うことを、人にもしてあげなさい、とそこに記されています。求めていくということは、本当はそういうことだと思います。求めているのは、あるいは求める事が必要なのは自分だけでなく、人も同じだ、ということを分かるところから始めなければならないのです。

私たちは求める際に、まず神の前に立つ事が必要です。神など無い、信じない、と思っている方もあると思いますが、他の言葉で言うと、愛の心です。神の愛は通常の人間の智性や感情を越えた、広く、高く、深く、あたたかい心です。同時に人間同志を結び、人間の中に生きて働いている精神の世界です。これはキリスト教だけでなく、仏教でも、イスラム教でも、およそ信頼すべき宗教なら説いているところです。その愛の心に照らしあわせて、自分が何を、どの様にして求めるべきか、を探っていくことが大切だと思います。そうしてこそ、求めつつ歩む真のよろこびが与えられることでしょう。

神様は、あなた方一人一人に、今、若さと可能性を与えて下さっています。どうかその与えられた生命を大切に、将来に向けて、本物を求めて、人と共に歩み続けて下さい。神様が必ずその求めに答えて下さることを信じて。皆さまの将来に祝福をお祈りしています。

125年を語りつぐ