無くてならぬもの

酒井 康(名誉教授・元本学学長)

人生の旅路を歩む一人ひとりの人格の内面に、その人生行路を意味づけ価値づける決定的に必要なもの、無くてならぬものとは一体何なのでしょうか。今日の聖書の箇所には、イエスがベタニヤ村の姉妹―マルタとマリア―の家に迎えられた折り、主のもてなしにせわしく立ち働くマルタに対して、マリアは主の足もとに座ってその話に聞き入っている。主イエスは、そのマリアの選択を嘉納されて、多くのことに思い悩むマルタに向かって、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と諭される。この物語は私達に「無くてならぬもの」はただ一つと語っているのですが、しかし、この時イエスがマリアにどんな内容のどんな話を聞かせておいでになっていたのかは明らかでないし、具体的には何も書かれていない。でもそれだけに、そこに在った情景とともに、マリアのひたむきの求めに応えて語られるイエスの、世にあらぬ真と義と愛に満ちたみ言葉への心ときめく思いを掻き立てられるような気がいたします。

わたしが女子大に赴任したのは、女子大が新制大学として発足してから3年目、1951年の4月でした。初代学長のヒバード先生はすでに学長を辞されて、第2代の片桐哲先生が学長であられました。それまで公立、官立の学校ばかりで育った私は、初めて経験するキリスト教主義の私学同志社の学風やキャンパスの雰囲気、とくに学内の人間関係の自由で民主的な日常性につよく心を引き付けられていました。学長をはじめ先輩の諸先生方から一様に感じ取られる、人への温かい思いやりや労わり、学生の一人ひとりに注がれる教育的情熱の質の高さは、新米教師の私にとって新鮮な魅力でした。浅学非才の私が、退職まで35年の間に、心にしみ入るように学ばせていただいた、同志社に語りつがれている精神的遺産の数々をわたしは終生大事にして生きたいと願っています。

東京育ちで京都弁もなかなか物にならないでいる私に、「はやく同志社に馴れるように」と、何度か親切に声をかけてくださったのは、その頃研究室の主任をしておられた、のちの3代目学長滝山徳三先生でした。創立以来、リベラル・エデュケーションの伝統に培われた同志社に、戦後新たにリベラル・アーツ・カレッジとして誕生する女子大の、その生みの苦しみを担って指導的役割を果たされた主要な方々のお一人が、この滝山先生でした。1973年の夏、76歳で天に召された先生の、追悼集に寄せられた片桐哲先生の弔文には、滝山先生を「女子大の恩人の第一人者」と書かれ、「愛の教育家」と称えておられました。事実、女子大の経営にも、英文学の講義にも、学生指導のすみずみにまでも、先生の愛の教育はまことに濃やかに、徹底して行なわれたと思います。栄光館で語られる学長の式辞も学内礼拝の奨励も、さまざまな会席でのスピーチも、いつも柔和で温かくてユーモアがあって、心地よい余韻を残されました。先生が読まれる聖書の箇所は決まってコリント前書13章の「愛の賛歌」でした。ある日の礼拝で、「わたしはこの箇所を読むと、自分の愛がどんなに小さいか、どんなに貧しいか、どんなに不完全かを知らされるのです。」と話されたことがありました。私はこの時、先生がキリストの愛をどのように生きておられるのかを垣間見る思いがいたしました。先生の生を支え守り導いた「無くてならぬもの」は聖書であったのですが、その聖書のなかに先生が見つめ続けられたものは、キリストの愛のリアリティであったように思われてなりません。

第2代学長の片桐哲先生から教えて頂いた数々の賜物も、私にとっては同志社への感謝とともに忘れることができません。滝山先生の大阪風の親しみやすさと少し違って、岩手水沢藩ご出身で、新島先生の直弟子であった父君の薫陶を受けて育たれた哲先生には、温顔の中にもどことなく威厳が感じられるように思われました。幼少の頃、父からラテン語の素読をさせられたと伺ったことがありますが、夙に西欧の学に親しまれた先生は、やがてキリスト教神学やヘブライ語の研究に専念され、同志社大学の文学部長にもなられました。女子部の校長になられたのは1933年ですが、当時、専門のご研究に生涯の目的を定めておられた先生にとって、この人事は人生の岐路にたって重大な選択を迫る大問題でした。しかし、先生はついに同志社の女子教育のために、主の召命に信仰によって応えられるのです。しかもその頃わが国の風潮は軍国主義・全体主義の高揚のなかで、すべての面にleadershipが強調されていたのに対して、先生はかえってsteward-shipこそ主の求め給う管理者の道と、「仕える者」となることに徹しられたのです。イエスは仕えられる者としてではなく仕える者としてこの世に来られました。先生は当時の世相に抗して「上に立つ者は仕える者のようになりなさい。」(ルカ22:26)とのみ言葉通りに、主の僕として教育に献身されたのでした。女子大が開学以来、毎日の学内礼拝を欠かさずに行い、かなりの年月、聖書科目6単位が一般教育・専門科目の枠外に必修として課せられていたことの背後には、女子大のキリスト教教育に対する先生の確固たる信念に基づく方針があったと思われます。

もうお一人、私が尽きない感謝の念いをもって回想するのは、初代学長であり英文学教授であり、また宣教師でもあられたE.L.Hibbard先生についてであります。最近、同志社創立125年を機にヒバード先生の顕彰の企画が行なわれることを伺い、心から喜んでいる者のひとりですが、前記のお二方の先生とともに忘れることの出来ない功労者がヒバード先生であったと思います。先生は日本に生を享けられた宣教師の二世で、ご自身を「宣教師っ子」と呼んでおられるほどにキリストの福音の宣教に一生を徹底して捧げ尽くされた方でした。主の召命に従って時を得るも得ざるも、どんな場所に在っても、常に神を愛し隣人を愛して、それを直ちに最も相応しい具体的な行動に移される、そんな先生の見事に洗練されたお姿を目のあたりにして、わたしは信仰と愛に生きる最高の模範を見る思いでした。キャンプでもリトリートでもバイブル・クラスでも、女子大でも東北学院でもピルグリム・プレイスでも、少しも変わらない先生の生活の基本姿勢は驚くべきものでした。それだけではなくて、先生の大きな功績は女子大のリベラル・アーツ・カレッジとしての創設と形成に心血を注いで尽力なさったことです。同一法人内に二つの独立の大学が設立されるのは、全国でも珍しいケースでしたし、とくにリベラル・アーツの4年制大学を創設するために払われた努力や労苦は並大抵ではなかったと思います。初代学長として、その使命を担われたヒバード先生はアメリカの代表的なリベラル・アーツの女子大、マウント・ホリヨ一クのご出身であり、この種の大学の本質や理念に関しては熟知しておられただけでなく、母校に対する誇りと愛情を抱いておられましたから、その教育理想の実現のための意気込みには格別のものがあったと思われます。さらに先生を支えて協力を惜しまれなかった片桐先生、滝山先生はじめ多くの先輩の先生方の結集した努力の賜物が、開学50年を迎えた今日の繁栄の土台に揺るぎない堅実さを与えているように思います。

個人の人生や思想・信仰に「無くてならぬもの」があるように、同志社のような教育共同体にも、恒久的な立学の精神とか教育の理念といった「無くてならぬもの」があると思います。今日ご紹介した3人の先生方は、いずれもすぐれた信仰の先達であり、またリベラル・アーツの達人のような先輩でありました。そしてどの先生も、その人格の内奥に「無くてならぬもの」を明確に体得されて、それによって人生を生き抜かれた方達でした。しかも、どの先生もとくに女子大の草創期に、新しく誕生した生命を愛し育てるために常人の及ばぬ歴史的な貢献をなさったことを考えますと、いまは天に在って主のみ許に憩われる先生方に対して尽きることのない感謝の思いに充たされるのです。おわりに、いまこの学園に勤め、教え、また学ばれる教職員や学生の皆さんの上に神の祝福が豊かにありますように祈ってやみません。

125年を語りつぐ