~特別編~ 同志社女子大学誕生の頃

鴛淵 紹子(名誉教授・オルガン)

今朝は同志社女子大学誕生の頃という題で、私自身の体験を通してお話しいたします。私が同志社高等女学校3年の時、太平洋戦争が終わりました。戦後日本では、学制改革が行われ、中学校3年、高等学校3年、そして4年制の新しい大学が創られることになりました。

女子大学の誕生 すでに70年以上の歴史をもっていた同志社女子部では、それまでの女子専門学校を土台とし、新しく音楽専攻を含む三つの専攻―英文および食物専攻をもつ学芸学部の大学の設置がきまりました。私が音楽専攻出身であることをふまえてお話ししますが、同志社女子部では、戦前より課外の音楽教育がさかんであり、ピアノや声楽、合唱などの実技のほか、音楽史や理論の講義も行われていました。とくにその講義は通訳付きとはいえ、英語で行われていたものもありました。これらを下敷きとして、今後女子大学が独立して存在して行くには、同志社大学にはない専攻が必要ではないかということで、音楽専攻が作られたわけです。そして私の場合、新制の大学には音楽専攻が設置されるから、あなたは絶対にそこに行くようにと一方的にきめられてしまいました。勿論、進学は考えていたのですが、音楽を専門にすることは当時の私の考えのなかにはありませんでした。それに、これから創られる海のものとも山のものともわからない大学に行くには、当然のことながら大きな勇気と決心がいります。しかも、すでに長い歴史を持ってきている同志社女子専門学校をやめて、新設の学校に移行するのです。でも、いずれ廃止される学校の最後の学生になるか、新しい未知の世界に飛び込むかと考えると、やはり新制第1期生という響きに魅カがありました。

新しい大学はDoshisha Women's College of Liberal Artsと呼ばれることになり、1949年4月18日、今出川キャンパスの栄光館ファウラーチャペルで開学式が行われました。私は第1回入学生を代表して宣誓を行いました。学生数は、三専攻あわせても100名になりませんでした。卒業の時はほぼ80名でした。音楽専攻生は入れ替わりが激しくわずか5名です。でも、この小人数のお陰で私たちは全専攻生のお互いの名前と顔が一致しており、今もクラス会など全員で行っています。

新設ということに対する期待、希望に満ちているとはいえ、不安もいっぱいありました。すべての科目について、その科目の時間数の2倍の時間を予習と復習に当てるようにと言われても、その頃の女子部には図書館と言えるものはありませんでした。せいぜい図書室程度の部屋があっただけです。音楽の設備としても何も特別のものはありません。今までの課外授業に使っていた部屋のピアノ数台、そして練習室は栄光館のチャペルの中の今は物置になっている所が小部屋に区切られていて、数台のピアノがあるだけでした。しかも数週間前まで同じクラスだった旧制の女子専門学校の人達と、同じ教室、同じキャンパスを使うのですから、いろいろ混乱も生じます。私のように、旧制の専門学校1年修了からの横滑り組、新制の高等学校3年を終わって入学してきた人達、のちには旧制の女子専門学校を卒業して3年に入ってきた人もあり、卒業の時には皆一緒になりました。授業に関しては、いままでは学校側で時間割がきちんと作られていたのが単位制になったので、学科登録という大きな問題が起こりました。それらを指導する側の混乱も大きいのです。Liberal Arts Co11egeと呼ぶことになったとはいえ、そもそもLiberaI Artsとはなんぞやということが、学校側の人々によく理解されていたでしょうか。勿論、初代学長のHibbard先生をはじめ、戦前すでにアメリカで勉強された数人の先生たちは別として、教職員の皆さん、本当にお気の毒なことだったと思います。私の場合でも、これはとらなくてよいと言われた科目が4年になって必要だと言われ、落としたのではないのに下級生と一緒に3月になって、それも卒業式の1週間前に試験があるという状態でした。

Liberal Artsについて さて、同志社女子大学設立の基本理念は、キリスト教主義、国際主義そしてLiberal Artsであるということは、皆さんのお持ちの学生要覧に書かれています。(私たちの頃は学生必携と呼んでおり、それは手書きでガリ版刷りでした。)その中で、キリスト教主義、また創立者新島嚢先生のこと、さらに国際主義については、私のように幼稚園から同志社で育ってきたものには改めて言われるまでもなく、一応わかったつもりでいましたし、毎朝の礼拝には当然のこととして出席していました。でも、Liberal Artsは問題でした。そもそもLiberal Artsとは、広辞苑などにおいて要約されているように〈普遍的全体的調和的人間の完成を目指し、西洋では古代ギリシャローマ以来の伝統を持つ概念〉というものですが、戦後の学制改革で一般教養、あるいは一般教育という言葉が使われ出した時、本当の意味を理解していた人はきわめて少数だったと思います。のちによく学生さんたちは、パン教などと馬鹿にしたような言い方をするようになるのですが、人文・社会・自然科学の三分野から、必修科目を含め三科目ずつ選ぶようにと言われても、選択の余地はあまりありませんでした。その上、先にも言いましたように、参考文献が殆どなく、勉強の仕様がなかったのです。それだけに、みな講義には熱心に出席しました。今のように冷暖房もない時代、でも戦時中の女学校生活で殆ど勉強していなかったので、とくに一般教育科目は私にとって、とても楽しいものでした。今も記憶のなかによく残っているものを挙げてみましょう。そのひとつは近代文明史です。ルネッサンス期のFirenzeのMedici家のことを、非常に情熱的に語られる先生がおられ、歴史大好き人間の私にとって、とても楽しみな時間でした。そして未知の世界へのあこがれの気持ちを強く持ち、いっか絶対にその町をたずねたいと思ったものです。のちにその夢は実現しました。また日本文学で、近松や西鶴の作品について教えて頂いたことも忘れられません。さらに生物学で種無し西瓜のこと、ショウジョウバエの染色体のこと、そして、その頃探検に行かれた小麦の先祖の話など、それこそ50年前の、当時の最先端の植物遺伝学の講義など、とても心魅かれる授業でした。それに、もうひとつ、日本作文の時間に、100字または200字というかぎられた字数で文章を書く訓練をしてくださったことも嬉しく思い出されます。これらのことが後になってどれほど役にたつものかはその頃には考えもしませんでしたが、私は自分の専門科目以上に楽しく勉強しました。

開学前から、学校側では聖書と人間関係の授業のことを強調しておられましたが、聖書はともかくとして、人間関係という科目には私はものすごい抵抗感をもっていました。人間が生きて行く上で人間関係が必要であり、人間教育の重要性は理解できますが、若い私にとってどうしてこのような名前の授業があるのかよく理解できなかったのです。

大学生活の初期において、宗教性、人間性をふくめ、広い視野を持ち、幅広くさまざまな考え方を学ぶというあまりにも理想的なLiberal Artsの概念を植え付けられた私が、いざ専門分野の勉強に専念しようとした時、そこには私の期待とは大きな差がありました。たしかに幅広く学ぶことの大切さは十分にわかりますが、音楽の専門の技術の習得には大変な時間がかかります。毎日は時間との格闘であり、同時にきわめて真面目な学生であった私は、礼拝、リトリート、プレイデイ、アッセンブリーアワーなど、すべての学校行事にも参加し、何もかも完全にしょうとしたため、結局ものすごく中途半端になっていました。卒業後、アメリカに留学し、最初の1年を過ごした学校は、純粋な意味でのLiberal Arts Collegeでしたので、私にはとても居心地がよかったのですが、修士課程のために転校したところは、じつに厳しい音楽専門の大学でした。しかも、クラス授業もきっちり行われるので、ついて行くのに必死でした。けれども、私は同志社で一般教育の大切さを学んだ上で、そのような専門の勉強ができたことを、今ではとてもよろこんでいます。音楽のように、とくに全人格的なものが要求される世界では、ただの専門馬鹿では本当の芸術家にはなれません。このことは音楽の分野だけでなく、あらゆる学問の世界でも同じだとおもいます。

今後への期待 創設されたばかりの新しい大学に入学以来50年が過ぎたのですが、この50年という年月は、過ぎ去ってみればあっという間です。そして、私は後ろを振り返ることなく、ひたすら前を見ながら日々をすごしてきました。学生として、さらに教師として、ずっと女子大学で過ごしてきたため、同志社のよい面を十分に見ながら、一方ではそうでない部分もみています。神様の不思議な御手にみちびかれ、この同志社女子大学の第1期生となった私は、学校側ともども苦労も多かったのですが、今は第1期生であったことを誇りに思い、心から感謝しています。常に好奇心をたっぷり持ち、やりたい勉強も生涯続けることができました。外国に行かなければ、その先の専門分野の勉強ができなかった時代とは異なり、やる気さえあれば何でも出来る今日の学生さんたちは幸せです。でも、発足したばかりの大学で、すべてのことに手探りで頑張って過ごしたことは、私にとって大きな財産です。時代の変化とともに、学部、専攻も増え、科目の内容もかわり、設備も立派で、初期とは比べものにならないほど大きな大学に発展したこの母校が、創設以来の基本理念と、これまでの多くの人達の苦労をわすれずに、21世紀により素晴らしい大学になっていって欲しいと念願しています。

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