新島襄と女子教育
三宅えり子(現代社会学部助教授・英語科教科教育法)
同志社女子大学は、創立125周年を迎えようとしていますが、その記念行事の一貫としまして、記念誌がまもなく発行される運びになっています。7人の教員がこの編集作業にかかわりました。私は途中から記念誌の中のある1章の1節だけにしかかかわっていませんが、今日は、同志社女子大学の歴史を語りつぐということで、この作業に携わった一員としまして私自身が感じましたことを皆さんにお話ししたいと思います。
結論から先に申しますと、創始者新島襄が100年以上を見通すいかに素晴らしいヴィジョンをもって同志社女子大学を創ったかということに、心から感動した点に集約されると思います。そして母校であり勤務校である同志社女子大学に、心から愛校心と誇りを持つに至りました。
順を追ってお話ししますと、実はあまり大きな声では言えないのですが、記念誌の編集会議に出るのはあまり気が進みませんでした。田辺キャンパスでの授業が終わってから今出川に移動しまして、時には夜おそくまでかかることがありました。私自身の興味関心から申しまして、現在の社会問題には関心があるのですが、歴史的な事になりますとどうも二の足を踏んでしまうのです。私があまりやる気がないのを察してか、ある先生が「三宅さんは同志社女子大にはあまり愛着はないのですか?」というふうにお尋ねになりました。その時に、もう忘れていたずっと昔の大学時代のことを思いだしたのです。入学当時、ここ同志社女子大学は自ら望んで入った所というよりは、自分が希望する所に行けず、しかたなく女子大に来たのだという気持ちがあったのです。それにこう申しては失礼なのですが、当時は同志社大学の付け足しのような気がしていました。ですから在学中は、気持ちが常に大学の外に向いていたのを覚えています。そういう状態でしたから、女子大の思い出や印象もそれほど強くはなくて、母校に愛着を持つということからは少し離れていたように思います。
さて、この記念誌ですが、同志社女学校創立当時からの単なる写真集ではなくて、歴史的記述の部分がとてもたくさんありまして、女子大の歴史が詳しく述べられています。新島襄の女子教育観を表すものとして、次のような記述がありました。「…女権を拡張することにも一層の力を盡されたし…一体婦人は社会改良や社交の事には男子よりも勢力あるものなり」と言っています。また当時、新島は近代化をはかろうとする日本について、「文明の基」を立てる道として2つの点を強調しています。第一は「神を知ること」。2番目が「教育によって人心改良に取り組むこと」です。すなわち明治当時の富国強兵によってではなくて、人の心を変えることによって社会を良くしようという考えがあったのです。女子教育の必要性に関しましては、「自由の心を持ち、見識と愛情を持った女性が育っていないところに、この国の深刻な問題があることです。教育、なかでも女性が抑圧されてきたこの国では、女子教育を充実させることが必要です。」これを読みました時は、「あーそうだったのか」と目からうろこが落ちる思いでした。私たちの同志社女子大学は、1世紀分先を見通す優れた理念を持つ創始者によって始められた教育機関なのです。新島襄の思想に関しましては、数多くの研究がなされています。ただ新島襄と女子教育ということに関しましては、宮澤正典先生がお書きになったものなどがありますが、非常に文献が限られています。私の場合は、125周年記念誌の編集に参加したことがきっかけで、おくればせながら、同志社女子大の偉大さを認識するにいたりました。
なぜ私が、女子教育の必要性と女性の社会改革への参加を唱えた点にこれほど感銘したかと申しますと、当時女性がおかれた状況が、あまりにも新島の理念と対極する位置にあったからです。また女性の社会参加が今でも課題となっているからです。同志社女学校ができましたのは、1876年、明治9年です。明治初期の自由民権運動の芽ばえの中で、女性の権利が主張され、男女平等論が展開されました。ところがこの運動の弾圧と、明治22年の男性優位の男性のみの権利を認める帝国憲法の制定によって、女性の権利は凍結されてしまいます。さらに当時は、江戸時代から続く男尊女卑の教えが強い社会的影響力を持っていて、まさに新島がいう、女性が「奴隷のごとくさげすまれている社会状態」だったのです。そして対外的には、江戸時代の鎖国が解かれたのは、同志社女学校開学の約20年前のことであり、キリシタン禁制が撤去されたのは、女学校開学のわずか4年前のことです。そういう社会情勢の中で、女性のための学校、しかもキリスト教の女性宣教師を雇い入れて、良妻賢母というよりは、リベラルアーツに基づく全人教育をしようというのは、明治9年の時代背景を考えますなら、革命的大胆な行動だったと言えます。私たちの想像をはるかに超えた情熱と使命感、そして信条に導かれてのことであったろうと思われます。
学校は、優れた、普遍的な教育理念がなければ100年以上の長い期間にわたって存続できるものではありません。新島襄は、私たちにすぐれた遺産を残してくれました。同志社の教育理念への理解を深め、時代に応じた解釈を加え、質の高い教育を提供することが、私ども教職員の使命だと考えます。開学して125年たった今でも新島が唱えた社会改革、特に男女共同参画が課題とされています。そして、開学約100年後に生まれた女性学の視点から、フェミニズムの流れの中で女性と教育が問題にされています。本学に所属します私ども教員は、女子大学の存在意義について問い直し、女性の自立と社会参加を促進する最も良い方法は何かを模索している真最中です。
最後にこの機会に、私自身にとりまして、同志社女子大学在学期間がどういう意味をもっていたのかということをふり返ってみました。この年になるまで女性問題で悩まなくてもいいくらいに、伸びやかな学びの環境を与えてくれた所、そして、性別や年齢へのこだわりなしに、自分の可能性を追求してみようという動機を与えてくれた所なのです。現在、同志社女子大学に学ぶ皆さんの中から、さらに次の世代に語りつぎたくなるような新たな歴史ができることを願っています。