学びの場における宗教

宮川 成雄(早稲田大学教授・本学嘱託講師)

今日は、同志社女子大学の宗教教育強調週間で、お話をさせていただく機会を与えられまして、大変に光栄存じております。このようによそ行きの挨拶をするのは、少し面映い思いが致します。と申しますのも、つい2年ほど前まで、私は、同志社女子大学に在職しておりました。それも13年間奉職させていただきました。学部・大学院は同志社大学で勉強をいたしましたし、同志社は文字どおり私の母校であります。毎週、京都に帰って参りますと、同志社女子部の育ての母といわれる、デントン先生が、世界で一番良い国は日本、日本で一番良い街は京都、京都で一番良い学校は同志社、その中でも特に良いのが同志社女子部といわれたのを、実感することができます。同志社女子大学に戻ってまいりますと、お母さんというより、やさしいお姉さんのもとに帰って来たような感じがして、ほっとします。

在職しておりましたときも、毎年一度は、チャペル・アワーでお話をさせていただいておりました。いま私は、早稲田大学に在職しておりますが、今も、毎週月曜日の午前中に、京田辺キャンパスに参りまして、授業を担当しておりますので、お客さんとして招かれてお話するというより、いつまでも、同志社女子大学の先生方と同僚のままでいるという感覚があります。同志社と早稲田で教えておりますと、どうしても知らず知らず2つの学校の特徴といったものに、自然と思いをめぐらせてしまいます。この2年余り早稲田にいるときにいつも思いますことは、学びの場における宗教の持つ意味の重要性です。そして、同志社の中でも、そして同志社大学と比較しても、宗教教育を大切にする同志社女子大学におけるキリスト教主義教育の持つ意味の大切さです。

今日は3つのことをお話したいと思います。第1は同志社が祈りに包まれた学園であるということ、第2は神を考える手がかりとしての愛について、第3は宗教に基盤を置く学校の特性についてです。

同志社の女子教育は、1876年に始まります。今年、125周年を迎えます。同志社の男子教育が始まりますのが、その1年前の1875年です。同志社はいろいろな意味でアメリカとのつながりが強い学校です。同志社女子部の始まりの年は、奇しくも、アメリカの独立宣言の年、1776年の、ちょうど百年後であると考えていただければ、世界史との脈絡の中で、同志社女子部を位置づけていただけると思います。同志社の創立のときも、まず神への祈りでその教育の技がはじまりました。同志社の始まりはいつも祈りです。皆さんの入学式も祈りで始まったことを記憶されていると思います。スポーツ・フェスティヴァルにせよ、EVE祭にせよ、同志社女子大学の行事は全て、祈りで始まります。同志社女子大学の教授会も、やはり祈りで始まります。このことを何年か前に、同志社の法学部の先生にお話すると、「女子大は同志社の良き伝統を引継いでいるのですね。」と仰っておられました。同じ学校法人同志社にあって、同志社がキリスト教主義の学校であることを、頭ではなく、体験として実感できるのが同志社女子大学だと思います。

同志社女子大学が毎日の礼拝の時間を持っているということは、たとえみんながいつもこの礼拝の場所に参加できなくても、大変重要な意味を持っていると思います。私達が宗教というものに出会い、宗教のもっている意味を考える大変貴重な機会であると思います。

同志社女子大学の礼拝に出席していて、本当の祈りとはこういうことをいうのだなと実感したことがあります。現在、アメリカとイギリスによるアフガニスタンへの武力行使が国際情勢を緊迫させていますが、いまからちょうど10年前、1991年の湾岸戦争が勃発したときに、今はもうご退職になって、本学の名誉教授でおられる秦芳江先生が奨励されましたチャペル・アワーに出席したときのことです。秦先生が、そのときの出席者ほんの数名のなかで、ペルシャ湾から遠く離れた日本で、そして、戦火とはあまりにもかけ離れたのどかな田辺の地で、「中東の平和を祈ります」と仰って、お祈りをされました。人間の理性で考えれば、こんなところで中東の平和を祈っても、戦火を収めさせるのに何の力にもならないことは明らかに思われます。でも、その祈りの力を信じて、あるいは、その祈りの向けられている、人間の手の及ばない存在の力を信じて、まだ見たことも会ったこともない人の幸せを願う心の働きに、私は宗教的な祈りの最も純粋なものを見た思いがしました。このような祈りに一体どれだけの効果があるのかと皆さんは思うでしょうし、正直いって、私も疑問に思います。でも、祈りの例をもっと身近なことに置き換えますと、祈りのもっている役割を知ることができるように思います。

皆さんもあと何年か後には、結婚され子供さんをもたれることになると思います。皆さんが、4、5歳の幼稚園児ぐらいの子供を持つお母さんであると想像してください。子供が遊びに出るときに、「気をつけていきなさいよ」と声をかけるのと、声をかけないのでは、子供がけがをするかどうかに、少しは違いがあるようには思いませんか。また、声をかけなくても、家事に気をとられて子供が出かけたのを全く知らないのと、暖かい眼差しで送り出してやるのでは、子供の安全が少しは違うとは思いませんか。

自分の手の届かない存在に、自分とは違う他者の幸福を願い、その思いを託す。秦先生の平和の祈りと、子供の安全を願う母親の祈りに共通性があるとはいえないでしょうか。

同志社女子大学の礼拝では、今日この時間に、「もう一つのキャンパスでもたれている礼拝の出席者に思いをはせて」、とか、「礼拝に出席できない人へも思いをはせて祈りましょう」という言葉をよく耳にします。私達は目には見えなくても、誰か他の人からの暖かい心を受け取っているといえると思います。

では、その暖かい心はいったいどこからやってくるのでしょうか。私はクリスチャンでありませんが、この問いを考えるときにいつも勇気付けられるのが、今日朗読していただきました聖書の箇所です。「神を見たものは、まだひとりもいない。」「もしわたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」とあります。クリスチャンでない私は、神が何であるかを知りません。でも、人を大切に思う心が何であるかは、わかっているつもりです。それを愛と呼ぶことにも抵抗はありません。そして、愛の力を信じることもできます。私達の学園にはそのような愛があるといえると思います。そして、他者にその愛を及ぼす心の働きが、祈りとして私達を包んでくれているように思います。

そのような愛の作用について考える契機を与えてくれるのが、キリスト教主義の教育であろうと思います。キリスト教主義教育とは、決してキリスト教の布教のための教育ではありません。キリスト教に根ざした人間観に基づいた教育がなされるということが、キリスト教主義教育といえるでしょう。私が学部学生のときに、ある先生が大変に逆説的なことを仰られたのを記憶しています。その先生は、教育の価値とは、学校で習った知識を全部忘れてしまったときにはじめて表れてくる、と仰いました。私達は、勉強をするときは知識を得ることが目的であるかのように思います。しかし、人間の記憶力には限界がありますし、知識もそれが最先端のものであればあるほど、古くなって役に立たなくなってしまいます。しかし、私達が教育の過程で身につけることは、正しいと思われるものを、自分を偽ることなく、探し出そうとする、生き方の真剣さ、真摯さではないでしょうか。そして、人間の力の限界を知る謙虚さではないでしょうか。そして、キリスト教主義に基づく同志社の教育は、その限界のある人間の知識の活動を、他者のために用いること、しかもそれが、いかに無力に見えても、他者の幸福を祈る心と共に用いることを、その特質としているのではないでしょうか。

125年を語りつぐ