一八七六年十月二十四日

坂本清音(学芸学部特任教授・英米文化研究)

数字ばかり並べた散文的なタイトルで、きっと話も非常に散文的なものになると思いますが、お許しください。

まず「125年を語りつぐ(1)」ということについて、少し説明させていただきます。1回生の方はともかくとして、2回生以上の方は昨年、新制女子大学創立50周年のさまざまな行事、たとえば、ホームカミングデーがあったことなどをご存知だと思いますし、またキャンパスのあちこちに新制女子大学創立50周年、同志社女子大学創立125周年の記念の行事と銘打った立て看板や、ポスターを見られたことがあるかと思います。それは実は私たちの学校が来年、125周年を迎えるということで、そのことをめぐって2、3年前から様々な会議や委員会によって、いくつかの計画が練られるようになったからであります。その時にいつも思っていたんですけれども、50周年だとか125年だとか、その時間の長さは強調されるのですが、じゃあ中身はどうだったんだ、という問いかけがあまりないような気がして仕方がありませんでした。残念なことですが、私たちの学校の歴史に対するこれまでの姿勢と関係があったのかも知れません。

ところが、今年の春学期の宗教教育強調週間で、同志社女子大学のルーツということでお話しさせてもらいましたところ、宗教部の方が、こういう話はもっとみんなが知るように、みんなのものになるようにする機会を持つことが必要だと考えてくださって、「125年を語りつぐ」というシリーズがこの秋学期から始まることになりました。私個人としては、とっても喜んでおります。この企画は、今年の秋学期と来年1年間をかけて、多くの方に同志社女子大学あるいは、それ以前の女専、あるいは女学校の頃の歴史について、何が起こりどのような試練を経て、現在の同志社女子大学になって来たかについての事実を少しでもみなさんと共用したいというのが目的であります。差し当たって記念事業の一つであります『同志社女子大学125年』という写真集が、もう1ヶ月もすれば皆さんのお手元に届くと思うのですが、それに関わりました編集委員7名の内の4名が、先ずひと月に1回の割合でこの場に立ち、編集作業を通して感じたこと、あるいは学んだことについてお話をさせていただくことになりました。一応、私が今日、トップバッターということなのですが、先週の宗教教育強調週間で鴛淵紹子先生がお話し下さった「同志社女子大学誕生の頃」も、この「125年を語りつぐ」というシリーズの特別編ということになります。

ところで、1876年の10月24日、今日、10月24日ですよね。だから今から124年前の今日、ということなんですが、それが私たち同志社女子大学の始まりの日ということを皆さんはご存知でしょうか。その日を基にして、来年は125年の記念を迎えるということです。今から、なぜ10月24日なのかということをお話ししましょう。その頃、私たちのルーツとなる学校に「同志社女学校」という名前もまだなく「京都ホーム」という名前で呼ばれておりました。そこの教師をしておりましたスタークウェザーという女性宣教師がアメリカにある支援団体ウーマンズ・ボード(同志社と関係の深いアメリカン・ボードの女性部内)に手紙を送り、その中で、「今日から、今日、10月24日というのは、昨年J.D.デイヴィスが京都に住むようになって1年と5日後のことなんだけれども、という説明を加えながら、正式に女学校の授業を始めました」と報告したことに基づいているのです。

ところが、女子部に関しましては、私はこの春の強調週間でも話させてもらったのですが、4月の21日にもやはり創立記念日があるんですね。さらに同志社全体としては11月の29日。これも1回生の方はまだご経験がないのですが、上回生の方々はその日は学校がお休みだし、その創立記念日の前3、4日というのは「同志社EVE」というのがありまして、授業がなくて同志社大学、女子大学共に期間を別にしてEVE祭があります。それらの行事を通して私たちは、同志社全体の創立記念日というのは11月29日であるということを知ります。しかし、それはあくまでもお隣りの同志社大学、その前身の同志社英学校が始まった日であって、その時点ではまだ女学校は影も形もなかったんですね。もう少し詳しく説明しますと、そのスタークウェザーという人は、アメリカン・ボードから派遣されて、実は1876年の4月10日に京都入りをし、デイヴィス邸に居候しながら、「同志社英学校とペアの関係になる同志社女学校」をスタートさせる仕事に着手しておりました。最近、見つかった手紙によりますと、10月より半年早い「5月2日から、毎日授業を始めました」と報告されています。そうすると10月24日よりも5月2日を京都ホームの始まった日とした方がいいのかもしれないということになるのですが、とも角1876年をベースにして、私たちは2001年が創立125年だと言っているわけです。

先程言いました4月の21日というのは、新島襄が京都府に、今日から「同志社分校女紅場」という名前で正式な女学校を始めたいという届け出を出した(実際には4月23日に届け出を出して、許可が下りるのは4月28日)ことを基にしているのですが、それはさらに1年後の1877年の4月のことであります。それが21日になったのは、新島襄の残した文書の中に「4月21日、柳原邸内に於て女学校開設」とあることから、現在では女子部の創立記念日は4月の21日というふうになっているのです。今出川キャンパスではお隣りにある、私たちの学校とルーツを共にする同志社女子中高では、11月29日の他に4月21日も創立記念日として記念礼拝をまもっておられます。その4月21日を基にしますと、再来年が125年になるということになるのですが、私たち同志社女子大学は、1876年を基準にして2001年に125年を祝おうとしているのです。これは私たちの人生で考えたら、お母さんのお腹から生まれてきて名前を持つまでに、少し時間がありますよね。お父さんなり、お母さんなりが、うちの娘はこういう名前にしようと考えをめぐらせた上で区役所とか市役所に届けますね。そこで初めて私たちは戸籍の上に公式に名前が載るわけですけれども、でもそれ以前から私たちは生まれてこの世に存在していたということで、1876年の「京都ホーム」と呼んでた頃も含めて、歴史を考えようとしているわけです。

では実際にどんなふうに始まったのかということを、時間があまりありませんので、本当に具体的な事実のみをお話しいたします。まず場所は、京都の今出川キャンパスをご存知の方はすぐ頭に思い浮かべていただけると思いますが、前方に京都御所という広い区画と、そして後ろに相国寺というお寺、それもとっても大きなお寺ですけれども、その中間地域に位置していました。しかし、いわゆる「京都ホーム」が始まったのは、御所の中の柳原前光邸というお公家さんの家です。かつて御所には天皇の住まいがあり、それを取り囲んでたくさんのお公家さんのお屋敷がありました。現在、時代劇なんかでよく出てくるような、とっても大きないくつもいくつも部屋があるような所です。1869(明治2)年、明治天皇が東京に遷都するということになり、お公家さんたちもこぞって東京に移って行きました。ということで、御所の中には人の住まなくなった公家の屋敷がたくさん残っていました。その中の一つが、柳原前光邸だったんですね。

当時、キリスト教が京都に入って来るということに関しては、もちろん仏教界も神道もそして京都の人々もとっても神経質になり、また抵抗しておりましたので、新島が山本覚馬と結社して京都に同志社英学校を創設すると決め、それまで神戸に住んでいたデイヴィス宣教師の家を探すのですが、なかなか見つかりませんでした。やっと見つかりそうになっても、そこにアメリカ人が住む、宣教師が住むと判ると、すぐ断られるということが何度もあったようです。御所の中のお公家さんの屋敷は、住人がもういなくなって4~5年経ってたんですけれども、誰も住んでいないということでやっと借りることができたわけです。

 まず1875(明治8)年10月にJ.D.デイヴィスが引っ越して来て、その後、今言いましたスタークウェザーという女性宣教師がその家に同居するという形で住むようになりました。もちろん50以上ある部屋を全部使うんじゃなくて、かなり傷んでいましたから、比較的住み良い部屋を修理して住むことになるのですが、その中の南側に面した3つぐらいの部屋で「京都ホーム」は始まったと言われています。みなさんにぜひ想像してほしいんですけれども、今のこの立派な2つのキャンパスに、こんな立派な校舎をいくつも持っている同志社女子大学の始まりは、御所の中の柳原邸というお公家さんの邸、広さは充分あったけれどもさびれて傷んだ、そういう家で始まったということですね。

それとじゃあ、誰が生徒だったかということです。スタークウェザーの手紙の続きとして、「現在、12名の生徒が学んでいます。その内の8名は寄宿生で、残りの4名は通学生です」とあり、その8名の寮生が紹介されます。ここで注目しておきたいのは、同志社女子大学のルーツは「ホーム」の形で始まったということです。言い換えると、キリスト教の女子教育は普通に学校に通って教室で知識を学ぶだけでは不十分で、生活を通してキリスト教の精神、文化を身につけることが肝要と考えられたことです。それともう一つ、京都でキリスト教主義女学校を始めても京都からは生徒は来ないだろうというふうに思われていたことです。それはキリスト教に対して、あるいは宣教師というものに対して、京都の人はものすごい警戒心を持っていたからです。案の定、ほとんど来ませんでした。というか京都から来たのは実は2人、8人の内の2人ですが、2人共お百姓さんの娘さんでした。そのお百姓さんというのはデイヴィス邸に野菜を持って来て、下肥えを運んで帰るという間柄だったのですが、お百姓さんたちは、宣教師とじかに接することによって、キリスト教というのはそんなに恐いものじゃない、宣教師というのは実はとても立派な人物だと、理解するようになるわけです。たまたまその2人のお父さんが亡くなって、遺言でぜひとも娘はあのキリスト教の学校に入れてほしいと言い残したから、連れて来られたというふうな2人です。その場合にも、着る物は自分の所で用意しますが、食べることと教育のお金はできませんのでよろしくお願いします、という2人。それから、来るとしたら、地方から来ている同志社英学校生徒の妹とか、その知り合いだろうとの予測通り、英学校第1期生の本間重慶(この人は伊勢出身です)の許婚が、1人入って来ました。彼は自分が牧師になるのに、妻がキリスト教のことは何も知らないのでは困るということで連れて来ましたが、彼女の授業料は払えないので、彼がスタークウェザーに日本語を教えてその謝礼を、許婚、春の授業料にするという取り決めでした。伊勢からはもう1人、来ておりました。それからあとの2人は、はるばる熊本からで、それも熊本バンドの1人の下村孝太郎という人の姉妹なのですが、父の不行跡で一家が破産してしまい九州にはおられないということで、夜逃げ同然にして6人姉妹の内の2人が来ました。その運賃ももちろん、宣教師たちが出したということです。最後の1人は伏見の女性なのですが、やはり家の借金11円で身売りされそうになったという知らせが伝わってきまして、そんなかわいそうなことをということで、また宣教師たちがお金を集めてその11円を払って、17歳の身売りされそうになった娘さんを引き取ったというわけです。このような人たちが柳原邸に集まって来て「京都ホーム」での生活は始まったのです。それに対して通学生の4名というのは、早い時期から新しいことに目覚めていた医者の娘 高松仙、それから同志社を創った山本覚馬の長女 峯、そして九鬼という綾部の殿様の2人の令嬢だったということです。だから同志社女学校の始まりは比較的豊かな生徒とそしてお金がないという人が混ざり合って、何の違和感もなく始まったといえると思います。

以上走り抜けるように、1876年10月24日前後の「京都ホーム」の様子をお話しさせていただきました。現在は2つのキャンパスを持ち5000人以上の学生を擁する同志社女子大学がどんな風にして始まったかを知っていただけたら幸いです。最後に、今日歌いました、「主われを愛す」という讃美歌は、先程触れました本間春が同志社女学校で、スタークウェザーが持ってきたオルガンで初めて弾けるようになった曲であること、そしてヨハネ3章の16節というのは新島襄が最も愛した聖書の箇所ということをつけ加えさせて頂きます。ご静聴ありがとうございました。

125年を語りつぐ