新島先生と近代体育

秦 芳江(名誉教授)

みなさんおはようございます。私は体育の教師ですので、ほんとはマイクはいらないくらいです。さっき歌いました讃美歌30番。私とってもこの曲が好きで、私くらいの年齢になりましたら、そろそろお葬式の用意をしなくちゃなんないんですけど、是非この曲を歌ってほしいなぁと思ってます。皆さんも好きになってください。

私は、今を去る60年近く前に、生活科学科の前身である同志社女子専門学校家政科の一学生として、そのへんに座ってました。だから今日は、肉親の孫達にお話しするような、楽しい、気楽な気持ちで話すようにいたしますので、みなさんも、おばあちゃんのおしゃべりを是非聞いてください。

さて、家政科を出た私がどうして体育の教師になったのか?私の在学中は、いわゆる戦争中でした。ほとんど勉強はしないで工場で働きました。もう戦死するかと思ったぐらい。それで卒業といわれても、何の勉強もしてないのに、何か勉強しなくてはと思って恩師のところへ相談に行きました。そしたら恩師は、同志社は新島先生以来、体育を大事にしている学校だから、体育を勉強しなさいといわれました。私は言うことをとてもよく聞く子でしたから、ハイって言って、それから東京で2、3年勉強致しましてね、帰ってきました。

ところが戦後でしょ、ボールが2~3個とテニスコートくらいの空き地がね、2面半ほどあるだけでした。一体ここで、どうやって体育をしようかと悩みました。体育というのは施設の学科です。施設がよくなければ体育はできないの。だから私は名前が秦ですが、はたと困りました。新島先生は体育を大事にしているとおっしゃってるけど、新島先生の考えている学校の体育ってどんなもんなんだろうと、今でも好奇心旺盛な人間ですが、とっても知りたくなったんです。

それでまず、新島先生ってどんな格好の先生だろうなと思いました。みなさん、正面の横の新島先生の肖像をご覧になってください。明治風なハンサムですね。先生の気迫が顔に出てます。今の日本男児には、残念ながらここまで気迫のある顔をした男性は少ないです。男の先生方お許し下さい。戻りますが、新島先生は一体どんなボディーサイズだろうと思いました。それで探しましたところ、ありました。新島先生の遺品庫に残されている、学生時代のノートの端っこに書いてあったんです。それは新島先生がアーモスト大学の学生であったときに忘れないように書いたんでしょうね。身長5フィート5インチ半、体重123ポンド、換算すると身長165cm、体重は55.8kgです。そうするとみなさんなんだと思うでしょう。みなさんのお父さんや、ボーイフレンドの方がもっと高いわね。最近は男の子の平均身長が165cmになりましたでしょう。だから今からいうとちびさんですね。ところがその当時、明治の23年に初めて兵隊検査があってね、その時の日本男児の平均が大体156cm、女では150cm以上あったら大女の化け物で、お嫁の貰い手がなかったんです。日本人って大きくなりましたね。そういうような状態でしたから当時の学生は僕たちの先生は素晴らしい、女子学生たちは背が高くて素敵ねと思ったでしょうね。だからその当時の学生さんは、森有礼という当時の文部大臣が学校に来られた時に、私たちの先生のほうがよっぽど堂々として立派だと書いています。

どうしてノートの切れっ端に、身長と体重が書いてあるのかしら。みなさん近代体育ってなんですか?近代体育っていうのはね、その当時までの経験的にこうしたらこうなったとかいうんじゃなくってね、科学的に測定をして、それから体を作ることなんです。世界ではじめて大学に体育を取り入れたのがアーモスト大学です。その当時、19世紀の半ばから前には、そんな体格検査をしている学校なんてなかったと思いますよ。したがって、世界で最初に大学で体育を受講した80何人かの学生の1人が新島先生。

なぜ大学に体育をとりいれたのかといいますとね、そのころは体育はphysical educationじゃなくって、 physical cultureと言ったの。身体的な教養ね。だからスポーツだけじゃなくって、人前での話し方、態度、言葉の使い方、礼儀、そういうことまで含まれたのね。だから立派に紳士として通用する、physical 、manners 、cultureを教えたわけね。もちろん、スポーツも体操もですよ。それで新島先生は、自分が受けたアーモスト大学の体育をこの学校に持ってきました。

新島先生を指導した体育の先生にエドワード・ヒッチコックという人がいます。えらい方でね、初めて体力測定、体格測定をやって、例えば、垂直跳び、指極、こういうものを考察した体育学者です。この人は全米の体育学会の初代会長。そういう人に習ったわけね。

じゃ、アーモス大学はなぜ体育を授業に入れたかというとね、新島先生のおられたのは、南北戦争の終った頃ですので、復員の学生が学校に帰ってきても、健康を害して卒業もできないで、退学する人が多かった。また他の東部の大学でも、タイタニック号が沈没した時に、救助船まで50フィートのとこへ泳ぎつかないで、溺れ死んだ卒業生が多いの。だからある学校では卒業単位と同時に50フィートの間を沈まないで泳ぐというのが、卒業資格になったわけね。それほど今まで学校というところは勉強ばっかりして体が弱い学生が多かったけど、それじゃだめだということで、全米の特に男子校、女子校もそうですけれども、体育に熱心になったわけです。社会的にも体育に熱心になったわけですね。なぜかというとYMCAの体育部とか、YWCA、ボーイスカウトとか、そういうキリスト教的な青少年運動でも、身体運動がすごく重要視されました。今まで、体のことなんか、宗教家はかえって、浮世的なことでだめだと思っていたのが、そのころから新しい神学は、体も魂も神によって作られたものだから大事にしなくちゃいけないという解釈が出てきたわけですね。だから新島先生はそういう時代の尖頭を行ったアーモスト大学で、世界中の80何人かの学生の一人として初めて大学体育を履修した日本人でした。

その当時、日本は明治維新が終わったとこで、学制改革、子供たちの教育をどうしたらいいか思案していました。というのも一番困ったのが、音楽と体育なんです。なぜかというと、今まで日本の寺子屋に音楽なんてなかったでしょう。読み書きそろばんですよね。だから体育って、体作りって、いったいどうしたらいいのか?そのために文部省は外国人を雇い入れて新しく、音楽と体育をやりました。その時に、新島襄の親友で田中という文部大臣がいましてね、新島君の行っている学校は確か体育をやってるということでアメリカのアーモスト大学に訪ねてゆきました。体育をみて、新島先生を通じて学長に頼んだわけです。どうか日本の体育、昔で言えば体操の先生を指導する先生をお宅からよこしてくださいと。そうしたら、こんなにすばらしい新島という学生をよこす日本という国にはよっぽどいい卒業生を出さなくっちゃいけないということで、リーランドというアーモストの卒業生のドクターをよこしました。筑波大学の体育学部の前身の前身の前身で、Dr.リーランドは、初めて日本の体育の先生を養成されました。それから他には、アーモストの同じく卒業生で"Boys,be ambitious!"のクラークさんがおられます。彼が初めて札幌農学校で運動会をしたのよ。だからね、日本の学校体育やゲームにはアーモスト大学からの大きな影響があるんですね。

新島先生が同志社を作られた時の教育計画に、アーモストではintramural gamesといって、それぞれの学生達がお互いに自分達のチームを作ってゲームをさせ、学生リーダーを作って、教師は直接指導をしないで、そのチームを戦わせて競わせた。それをアーモストprincipleといって、自由と自治の精神の基礎をつくらせた。だから先生は同志社内でも学生達の自治と自由を奨励なさいました。

東京ドームへ行かれたことありますか?東京ドームに野球ミュージアムがあります。野球の殿堂。この間なくなった杉浦が今度入るわよね。その野球殿堂の正面近くに、安部磯雄先生の胸像があります。安部磯雄といわれてもピンとこないと思います。戦前の同志社大学の卒業生で、早稲田の先生になって、日本の6大学野球を作りあげた人です。学生野球を盛んにして、最初の日米訪米野球をした。その人が新島先生の第一の体育、スポーツ面の教育を代表するお弟子さんです。

それからレクリエーション教育。今まで遊びといったら、遊び人だとか、遊郭だとかね、ろくなイメージがなかった遊びを、日本の家庭や社会に根付かせるために活躍した松浦政泰先生という、同志社女学校の教頭先生も、新島先生のレクリエーション教育面の愛弟子です。で、あんまり新島精神、というけれども、新島先生は、spiritualな意味だけじゃなくって、physicalな面でも、おおいに日本の若い人たちに影響を与えているのです。

私は今まで日本のキリスト教や同志社の体育について研究しましたので、いくらでも話しができます。戦後、ボール2つ、コート2面半しか与えられなかったこの母校に、そんな素晴らしい新島先生という、最初に大学体育をやられた先生がおられたなんてね。私見つけました。私の好奇心満足しました。それから一生懸命になってね、今出川の体育館と女子大学の体育館としては東洋一の京田辺の体育館が与えられました。同志社には体育にも大きな伝統があるということを皆さん方も私と一緒に喜んでくださいね。

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