「こころの交流」の場

小坂賢一郎(総務部長)

おはようございます。
今日は、『125年を語りつぐ』というシリーズに、私のような者が、お話をする機会を与えていただき、感謝申し上げます。

では、事務職員として採用していただいた当初の、1970年代の同志社女子大学について、職員の立場から、お話をさせていただきます。

学生運動やベトナム戦争が激しかった、1970年代前半の同志社女子大学は、戦後、新制大学として再スタートしてから20年以上経過しており、学芸学部に英文学科、音楽学科、家政学部に家政学科、食物学科、そして大学院として文学研究科と家政学研究科を持ち、すでに社会的にも一定の評価をされている大学でありました。もちろんキャンパスは今出川キャンパスだけであります。1970年5月現在の学生数は2,495名、専任教員数は約70名、専任職員数は事務系始め学寮スタッフや作業員の方などを入れて50名足らずの女子大学でありました。

現在の今出川キャンパスの学生数が約1,000名であることからすると、当時の今出川キャンパスは学生教職員であふれかえっている、よく言えば、大変活気のあるキャンパスであったかと思います。

一方、世の中はと言いますと、高度経済成長の真っ只中であり、現在の田中真紀子外務大臣の父親である田中角栄総理大臣が、「日本列島改造論」を日刊工業新聞から刊行するなど、日本がまさに経済大国にむけて右肩上がりの急成長を続けている時代でありました。全国の4年生国公私立大学の数も、1970年は382校であり、2000年度が650校になっていることからすると、大学の数も急ピッチで増加していった時代でありました。

そのような時代に、私が、同志社女子大学に採用されて、最初に配属になりましたのは「経理課」でございました。そして、3年間がすぎて、ようやく経理課の仕事になれた頃、今度は、学生部厚生課に配置転換となりました。その頃の厚生課の事務室はジェームズ館の一階にあり、専任の事務系職員は3名で、下宿、奨学金、アルバイト、就職などのお世話をしておりました。

どちらかというと数字よりも人間が好きな私は、もっぱら数字を追いかける経理課と違い、直接学生さんと接し、サービスができる学生部の仕事が大変新鮮で、やり甲斐のあることでございました。

経済的に苦しい方のために、一生懸命奨学金やアルバイトのお世話をし、学生さんからお礼の言葉をいただいたときは、大変うれしかったものです。当時は日本育英会の奨学金も今のように銀行振込みではなく、厚生課の事務室の中で一人一人の奨学生に直接、現金を手渡す時代でした。したがって、毎月、奨学生と顔を合わし、その都度、「元気ですか?」と声をかけ、また奨学生からも色々話しかけていただいたものでした。

すべての仕事が、今と違って、コンピューターもない手作業の時代であり、人間同士の直接対話による対応でございました。したがって、学生の皆さんとは仕事を通じて窓口で話す機会が多く、おかげで、私はかなりの数、学生さんの名前を覚えていたように記憶しています。またその結果、勉学に、クラブ活動に、ボランティア活動に色々がんばっている方たちから、教えられることがたくさんございました。また、悩みを抱えた方の相談に乗ることも少なからずあり、先生方と共に問題解決にも積極的にあたり、それが大きなやりがいでもあり、自分自身にとっての勉強でもありました。

時代は、機械化の進んでいない時代であり、その上、学生数が少なく、おまけに、今出川キャンパスだけでしたから、学生の皆さんとの関わりは、私だけでなくすべての職員が今より深かったように思います。

中でも、専任の作業員であった先輩のSさん、Kさんなどは私よりもはるかに一人一人のことをご存知であり、学生さん思いであったと思います。朝は毎日7時ごろから出勤し、暖房初め色々準備をしていただきました。早朝、雪が積もっていれば、歩きやすいように清掃していただきました。シェクスピア劇上演ではプロダクションのメンバーたちと、準備や後片付けに汗を流しておられました。キャンプやクラブ活動に必要な小道具は、頼めば何でもすぐに作っていただきました。また、EVE祭では、準備からあとかたづけまで、先頭きって働いていただきました。当時のEVE前夜祭は、女子中高のグランドを借り切って、赤々と燃え盛るファイアーを囲んで、フォークダンスを盛大に行っていましたので、あとかたづけも大変でした。明くる朝、女子中高にお叱りを受けないよう、EVE実行委員のメンバーと共に夜遅くまで、暗闇の中、一本一本の煙草の吸殻まで拾っていただきました。このように学生の皆さんが活動されているときには必ずSさんやKさんがご一緒でした。したがって、当然のことながら、お二人に対して学生さんたちは心から信頼し、感謝をし、卒業式のときにはこぞって作業員室に訪れていた姿を思い出します。

お二人の中で、Sさんは、私にとって特に怖い存在でありました。学生部の仕事を通じて、どんなこまかいことでも、すばやく、丁寧にサービスすることを教えられました。不充分であれば大きな声で厳しくおこられました。そんな時は、どうしてこんなに厳しくおこられるのかと、腹も立ちましたが、今から思えば、それは学生さんへの熱い思いであり、私に対するあたたかい指導であったと思います。

ただ、残念なことは、あれほど、強く、怖かったSさんが、好きなお酒がもとで体を壊したことであります。ひとに決して弱みを見せない人でしたので、色々ストレスがたまっても、誰にも言わず一人で悩み、結果として、お酒の量が増えたのかも知れません。国立京都病院へお見舞いに行きますと、ベッドに寝たまま「小坂君迷惑かけてすまんなー」と、か細い声でお話されました。私は、元気なときの姿からは想像もつかないやつれた姿を拝見し、何とも言いようのない気持ちで、病院を後にしたことが思い出されます。その後一時仕事に復帰するまでになりましたが、やはり病気には勝てず、まもなくおなくなりになりました。

現在同志社女子大学は、二つのキャンパスを持つ、三学部5000名規模の大学に成長しました。カリキュラム内容も充実し、情報化も進み、施設設備も立派になりつつあります。しかし、一方で、人と人との関わり方が希薄になりつつあるようです。

これから、大学はますます難しい時代を迎えると思いますが、私は、いくら大学が大きくなろうとも、いくら情報化が進もうとも、いくら便利になろうとも、Sさんの声を忘れることなく、仕事をしなければと思っています。Sさんはきっと草葉の陰で、『一人一人の学生さんに対し、感謝し、真剣に、心をこめてつくしなさい。けっして、合理化という名のもとに手を抜いては行けない』と、叱咤激励されていると思います。

新島襄先生がなくなる二日前の1890年(明治23)年1月21日、午前5時。大磯にて残された遺言の中に『・・いやしくも教職員は学生を丁重に扱うこと…・』と言う言葉があり、また、『同志社は発展するにしたがって機械的に事を処理する懸念がある。心からこれを戒めること。』とあります。

先輩のSさんやKさんが自らの行動をもって我々後輩にご指導いただきましたことは、時代が変わろうとも、大切なことであります。

同志社女子大学が、学生・教職員、卒業生たちにとって、お互い、心のつながりを持って研鑚する、『心の交流の場』として発展することを願っています。

125年を語りつぐ