女子大学の拡充期

清水久美子(生活科学部教授・服飾文化史)

皆様おはようございます。

ただ今、読んで頂きました聖書にありましたように、私は幼い頃より同志社に憧れ、今から34年前の1966年に女子大学の門を叩き、その扉を開いて頂いて、入学させて頂きました。そして大学時代には、受け身ではなく、自ら求め、自ら学ぶことによって、学問・研究の楽しさや奥深さを知ることができました。それが後の私の仕事につながり、母校に今日まで28年間勤めさせて頂くことになりまして、本当に幸せなことと心より感謝致しております。

このように長年勤めさせて頂きながら、私はクリスチャンではありませんので、これ迄ずっと礼拝の奨励はお許し頂いておりました。今回初めてこの場に立たせて頂くことになりましたのは、今日か明日にも発行されます同志社女子大学の125年の歴史を写真と共に綴った記念誌の編集委員をつとめさせて頂いたことからで、私の担当致しました1960年代から1980年代初め頃迄の約20年間について、その一端をご紹介させて頂きたいと思います。

1949年に同志社女子大学が発足してから15年位を育成期とするならば、次の1960年代半ばから田辺に展開して行く1980年代半ば頃迄が、今出川校地を中心とする女子大学の拡充期といえるのではないかと思います。 拡充期を象徴する出来事の一つには、教育研究設備の充実があげられます。現在の今出川キャンパス建物は、ジェームズ館、栄光館、デントン館の他は、全て1960年以降に相次いで建てられたものでした。純正館、楽真館、頌美館、心和館、図書館、そして立命館大学の広小路学舎を購入して改築した梨木学舎など、休む間もなくキャンパスのどこかで建築工事が行われるようになりました。

それまでの小じんまりした、静かで落ち着いた雰囲気のキャンパスに工事の音が響き、その音はまさに女子大学に急速に押し寄せる変革の波音のようでもありました。このような建築ラッシュの背景には、折からの第一次ベビーブーム世代(それは昭和22年生まれの私の世代でもありますが)、その世代が18才になり大学受験期を迎えたこと、また女子の大学進学率の増加という社会的状況もありました。

1960年代以降、楽真館のLL教室すなわち視聴覚教室に代表されますように、女子大学には他の大学に誇る最新の素晴らしい設備が備えられて、英文学科のLL教育も大いに発展するなど、教育研究設備の充実がはかられました。また、学部の改組転換、大学院の修士・博士課程の設置など、大学の組織も発展し、同時に学生数も増加して行きました。

学芸学部という一つの学部に英文学、音楽、食物学の三つの専攻をもってスタートした女子大学発足当時には、全学定員の総数は1040名でしたが、1965年以降、学生数の増加傾向があらわれ、81年には実質的な在籍者数は2553名になっていました。本学への志願者数も69年頃から開学以来の記録を次々と塗りかえて行きました。さらに、研究所をはじめ英文学会、家政学会、頌啓会なども発足し、研究機関の一層の充実もはかられるようになりました。

しかし、一方で、このような小さなキャンパス内での学生数の増加は、女子大学にさまざまな変化をもたらしました。ハード面での拡大に反比例するように、女子大学発足当初から行われてきた教育や行事といったソフト面で、大きな転換を余儀なくされ、それらの縮小傾向が現れてきたのです。

その一つに寮の減少があげられます。明治期に同志社女学校が創設された時には、寄宿学校であったことからもわかりますように、本学にとっての寮は、単なる宿泊施設ではなく、教室のみならず、毎日の生活を通して、キリスト教的感化を与えるという重要な意味と役割があり、当初から寮は教育機関として位置付けられてきました。そのため、女子大学発足時から1960年頃までに、学内や学外に次々と設けられてきた寮は、その数14にもおよびました。収容人数は500名を越え、当時の学生の半数近くを収容できるほどでした。

ところが60年代以降の20年間に、学内寮の場所に次々と新しい建物が建てられることとなり、寮は廃寮もしくは移転を余儀なくされました。1957年には、学内に9つの寮がありましたが、10年後の67年には6つになり、80年には学内から寮は全てなくなり、学外に鶴山寮、みぎわ寮の2つの寮を残すのみとなりました。また、この年、学寮規制も全面改正されることになり、教育寮として長い伝統をもつ本学の寮も大きく変化して行きました。

二つには教育内容の変化があげられます。女子大学発足当初から続けられていたユニークな必修科目「人間関係」が1972年に廃止されました。最近いろいろな大学で、「人間関係学部」とか「人間関係学科」が新設され、注目されていますが、女子大学では50年も前から科目の一つとして実施されていたのです。この科目は1年次と4年次に講義と小クラスの討論を組み入れて行われていました。これは特定の教科の枠を越えて、総合的な視点から、学生と教師、また学生同士の交わりの内に'人間関係'という根源的な人生の問題を考えようとするものでした。私自身、それ迄、人前で討論や議論をすることは大の苦手で、当初は大変苦痛に感じていましたし、「担当の先生が同席されない方が、もっと気楽に本音を語り合えたのに」などと思っておりました。しかし、結婚や就職、生きがいについてなど、身近な事がらについて話し合う内に、次第に学生同士の内面的な理解が深められ、人それぞれに多様な見方や考え方があることを知り、物事を客観的に、多角的に考える力がついたような気がします。

また「生活実習ハウス」というユニークな科目が1960年から18年間、家政学系の学生に必修でおかれていました。これは寮を転用した一戸建ての建物に、4年生がクラスを越えて10名ずつ10日間泊まり込んで共同生活をするものでした。そこから授業に通ったり、限られた家計費の中で、交代で食事を作り、家事一般をこなし、家庭管理学を実習を通して学ぶものでした。

クラスも違って、あまり良く知らないメンバーと、いきなり10日間も生活を共にすることはとても不安でしたが、そこでも人間関係というものを学びましたし、終了近くには皆と仲良くなり、就寝時間を守らず合宿気分で夜遅くまで話し込んだり、お別れパーティーをしたり、楽しい思い出の一つになっています。

この他、女子大学の前身の女専時代から続けられてきた北海道の修学旅行をはじめ、オリエンテーションの期間中に、入学したての新入生を上級生の世話で、バスツアーや遠足に連れていってもらって、一日、先生や同級生、上級生と楽しく過ごすプレイデーという行事がありましたが、この時期に次々と姿を消して行きました。

その理由や要因については、時代の流れ、社会の変化、学生気質の変化などいろいろと考えられます。ただ、女子大学にとって、この時期の拡大・拡充路線が、小規模であった経済基盤を安定させ、教学面での発展を導いたといえますが、一方で、小規模な女子大学ならではの独自性、つまり少人数教育であったからこそなし得たユニークさというものが少しずつ薄められたことでもありました。

この拡充期の20年を振り返ってみますと、この時代は、女子大学の発展を追求して行く中で、女子大学の創立時、ひいては125年前の同志社女学校創立以来の伝統を守り、受け継ぎながら、いかに新たな独自性を見いだし、女子大学の方向性を模索してゆくかが問われた時代であったといえます。それはまた同時に、125周年を迎える現在の女子大学にとっても、今日的な課題であり、根源的な問題でもあるのではないかと思われました。

125年を語りつぐ