デントン先生のプレゼント

水野 いずみ(嘱託講師・フランス語)

太平洋戦争から70年もの年月が過ぎ、戦争体験を若い世代に語り継ぐ機会を持つことがより大切になってきているのではないでしょうか。今日は終戦直後の同志社女子専門学校の学生生活の様子について夫の母から聞いたことを紹介させていただきたいと思います。

今日、今出川と京田辺に立派なキャンパスを有する同志社女子大学は、戦前から戦後すぐまでは同志社女子専門学校としてキリスト教に基づく女子教育を担っていました。今日の礼拝では「140年を語りつぐ」というテー マで、デントン先生の思い出についてお話しさせていただきたいと思います。

熊本での少女時代

戦前に義母は熊本県で子供時代を過ごしました。昭和13年にナチスドイツの青少年組織ヒットラーユーゲントが熊本にやってきました。熊本城の近くの大通りを行進するヒットラーユーゲントの青年達がまっすぐにした足を整然と動かして行進する姿を見て子供ながらに 感心したということでした。その頃からすでに戦争の足音が近づいてきていたのです。

九州女学院のエカード院長の帰国

1926年に米国のルーテル教会の宣教師であるマーサ・B・エカードによって九州女学院は設立されました。太平洋戦争が始まる直前の1941年9月、エカード院長が船に乗って上海経由でアメリカに帰国されたということが、義母の女学校時代の思い出として記憶に残っているそうです。同志社女子大学の第十代の学長を務められた大橋寿美子先生もこの女学院で学ばれました。

戦時中の暮らし

戦争が激しくなると、学徒動員や女子挺身隊として若者も戦力や労働力として駆り出されることになりました。工場で労働奉仕していた義母は赤痢にかかり、薬や食べ物も十分ない中で何とか一命をとりとめたということです。熊本大空襲で熊本城を残して街は焼き尽くれました。戦争が終わって最初の春に、熊本から一昼夜の汽車の旅をして、義母は京都に到着しました。列車は満員で、到着した時には石炭のすすがついて、顔が黒っぽくなっていたということです。

戦後の同志社女子専門学校

ようやく戦争が終わって、学校に入学することができた学生達は、平和のありがたさと命の尊さをかみしめたことでしょう。幸いにも、京都は日本全土を破壊しつくした空襲をまぬがれることができたため、校祖新島襄が育まれた同志社の学園に、日本各地から生徒達が学びの場をもとめてやってきました。

同志社女子専門学校の家政科に義母が入学した頃の授業の様子ですが、戦後も続く食料難と物不足のために、家政科といえども調理実習や被服実習をするための材料などまったく手に入らず、授業はすべて座学のみであったということです。

大沢寮という寮で20名ほどの学生が一緒に生活していて、お部屋は三人部屋でした。朝夕の食事としてご飯とお味噌汁とお漬物などが出されていましたが、当時の食料難の状況から考えると、食材を調達するのにいろいろと苦労なさっていたのではないかと思われます。お風呂は銭湯を利用していたのですが、当時は、燃料不足でたまにしか入れなかったということです。

学内では生徒会が組織されていて、義母はその会長もつとめていたようですが、当時も自主自立の精神が学園の中に継承されていたことがうかがわれます。

デントンハウスへのお招き

大沢寮の寮生は五人くらいずつの少人数で順番にデントン先生のお住まい、デントンハウスにお招きいただく機会がありました。メリー・フロレンス・デントン先生は、明治21年にアメリカン・ボードの宣教師として来日されました。以後、約六十年間にわたって女子部構内のデントン・ハウスに住まわれ、太平洋戦争中も帰国されませんでした。前述したエカード院長をはじめとする外国人の多くは、大戦前に帰国せざるを得ない状況におかれていました。大切な家族とわかれて遠い国から船に乗ってやってきて、戦争のあいだもその国で暮らし続けるということは、並大抵のことではなかったと思います。戦時中は特高警察の監視を受けながら暮らす毎日を過ごされました。母国であるアメリカと日本が戦火を交えた大戦中、いったいどのような思いで過ごされていたのだろうかということに、思いを馳せずにはいられません。大戦中も帰国されなかった彼女の信条をあらわす言葉として「世界で一番よい国は日本、日本で一番よいところは京都、京都で一番よい学校は同志社、同志社の中で一番よいところは女子部」という表現が知られています。

デントン先生は、ご自身のためにはこれ以上に質素な生活はないというほどに切り詰めた生活を送りながら、同志社に必要なものをつくる資金集めのために国の内外の方を自宅に招き、手料理でもてなされました。デントン先生が集められた寄付金で建築された建物は、「静和館」「ジェームズ館」「栄光館」など数多くあります。

デントン先生の靴下

デントン先生の生活ぶりを後世に伝えるエピソードとして、つぎはぎの靴下の逸話があります。デントン先生は、生地が見えなくなるくらいまで靴下を糸で繕って履いていらっしゃったということです。靴下ばかりか、 お洋服も繕って大切にお召しになっていました。目に見えるところだけではなく、見えないところでご自身のためにどれだけ節約して生活されていたかということがうかがわれます。

デントン先生のプレゼント

当時の寮生達がデントン・ハウスに招かれた頃、ミス・デントンは人生の最晩年を迎えておられました。長かった戦争もようやく終わりを告げ、日本各地から京都の地にやってきて学ぶ学生達の姿を、ミス・デントンはどのようにご覧になったでしょうか。かなりのご高齢であられましたので、お茶の準備などはお世話をされている方がなさったということでしたが、美味しいお茶とお菓子をいただいたあとで、寮生一人一人に小さなプレゼントが渡されました。その贈り物はハンカチや靴下だったということです。それは、先生の故郷のアメリカから送られてきたプレゼントだったのかもしれませんね。はき古したミス・デントンご自身の靴下と、寮生へのプレゼントの新しい靴下。ミス・デントンは、若い学生達が貴重なプレゼントを大切に持ち帰るのを、きっとうれしくご覧になったことでしょう。

「同志社の宝」

「同志社の宝」「同志社女子部の母」と称されるデントン先生の存在は、今も私達が日々過ごすキャンパスの中に息づいています。今日、私達がこの京都の地で過ごす学校生活をつくってくれたのは、明治から昭和の時代に戦火を越えてこの学校のために人生を捧げ、教育の灯をともし続けてくださった方々のおかげです。そのことを心にとめることで、みなさんにとって日々の学生生活が一層大切なものとして感じられるのではないでしょうか。

私達の命も神様からのプレゼントです。私達の人生をつくってくれたのは私達の両親だけではなく、過去の時代から綿々と命をつないでくれた、私達の祖先の方々のおかげです。そのどこかで切れ目があったならば、自分の人生はここにはないと思うと、命の大切さを実感します。

友達との出会い、先生との出会い、京都の街との出会いを大切にして、あなたの学生生活と人生をより豊かなものにしてくださることを心より祈ります。

140年を語りつぐ