学んだこと、伝えたいこと

小山 薫(ファンタジーの系譜)

皆さんおはようございます。ただいまご紹介いただきました、英語英文学科の小山と申します。今日は「140周年を語りつぐ」という継続礼拝の一環として、お話させていただくことになりました。大変光栄に存じます。ちなみに、私は本学の卒業生です。学部を卒業したのは丁度創立100周年の年でした。その10年後(110周年の年)に、京田辺キャンパス(当時の名称は「田辺キャンパス」)が開学し、その折に教員として迎えていただいて、今に至っております。同志社女子大学との繋がりの深さを、改めて実感せずにおれません。これまでの日々を振り返って、感謝や喜び、責任感など、様々な感慨を覚えます。卒業生として、また教員として、この大学で「学んだこと、伝えたいこと」は多々ありますが、本日は特に在学生の皆さんに向けて、お話したいと思います。つたない言葉ではございますが、どうぞお聞きください。

私が今日、在学生の皆さんに強調したいのは、「同志社女子大学の教育に誇りをもち、この大学ならではの学びを積極的に取り入れて、成長してもらいたい」ということです。「同志社女子大学ならではの学び」と言われても、「漠然として、よく分からない」という方がおられるかもしれません。もちろん「解釈は人それぞれ」ですが、シンプルに考えれば「キリスト教主義・国際主義・リベラルアーツに基づく、同志社の良心教育が、女子大学という形態で(つまり、女性の視点を活かして、女性の成長のために)実現されている大学」ということになるかと思います。  

ここで少し思い出話をいたします。同様の学生さんも多いかと思いますが、私はこの大学に入って初めて、キリスト教の礼拝を体験しました。小学校から高校まで京都の普通の公立学校で過ごしてきたため、パイプオルガンの演奏で始まり、讃美歌斉唱・聖書拝読・祈りと続く入学式は、私にとっては、ある種の異文化体験となりました―今まで知らなかった世界(価値観)との出会いです。そしてその入学式で、壇上の先生方のお話をうかがい、私の心にストレートに届いたことがふたつありました。ひとつは、「この大学では、学生ひとりひとりに向き合った教育がなされている」ことです。そしてもうひとつは、「この大学は、アカデミックな教育はもとより、心を豊かにしてくれる場所である」ということでした。入学直後で、将来の展望など全く見えていない時点でしたが、この大学の教育理念を素直に信じられたことで、まっさらな気持ちで大学生活に向かうことができました。

そして入学後は、日々のチャペルや授業を通して、聖書や讃美歌になじみ、本学の歴史(たとえば、新島先生のこと、デントン先生のことなど)についても断片的に知るようになって、ますます同志社女子大学での学びに意義を見出すようになりました。私の卒業当時は、2学部4学科の大学でした。学芸学部の英文学科と音楽学科、それに家政学部の家政学科と食物学科です。主な講義演習棟は楽真館(現在は建て直しのために更地)でした。地下図書館はまだなく、デントン館に書庫と閲覧室がありました。学生数は、たぶん今の1/3程度だと思います。大教室での授業もありましたが、総体的に規模の小さな、そして(これは今も変わりませんが)教職員と学生の距離が近い、アットホームな大学でした。空間が「こじんまりして居心地がいい」ことを示す、英語の形容詞に "cozy" がありますが、まさにそういった穏やかな雰囲気で大学生活を送りました。そして、現在もキャンパスのあちこちに聖句が額に入れて掲げられておりますが、私も学生時代に通路の聖句を見て、「なるほど……」と納得したものです。また、何かしら悩みがある時には、栄光館のチャペルトークを聞いて、気持ちを切り替えたことを覚えております。

さて、冒頭に申しました通り、私の教員生活は、創立110周年の京田辺キャンパス開学と共にスタートいたしました。京田辺キャンパスには新設の短期大学部(英米語科と日本語日本文学科)の他、学芸学部から音楽学科が移転し、学生と教職員を合わせても、800名程度の少人数でした。しかし、それだけに結束が強く、皆で一緒に「新しい伝統を作っていく」という熱気がみなぎっておりました。短期大学部は2000年に現代社会学部へと改組転換され、その後、次々と学部学科が新設されて、新たな時代に入りました。そして現在では6学部11学科の総合大学になったわけです。大学の規模はダイナミックに変貌しましたが、「学生ひとりひとりに向き合った教育」、「アカデミックな教育はもとより、心を豊かにする教育」という、同志社女子大学の伝統は今も変わらず、大切に守られていることを実感いたします。

多くの学生に出会い、その成長過程に立ち会えることが、教職員の醍醐味です。卒業生の頑張りや活躍ぶりを知るたびに、心から嬉しく、頼もしく思い、元気が湧いてきます。もちろん、人生は順風満帆で終わるはずがありません。実際、失敗を乗り越えてこそ自信が生まれ、その経験を活かして成長できるわけですが、時には「こんな経験はしたくなかった」という、「試練」と呼ぶにはあまりにも過酷な経験に見舞われることがあるかもしれません。そこで思い出すのは、以前、史料室の関連でお話をうかがった、ある同志社女学校卒業生の言葉です。その方は、第二次世界大戦中に満州から引き揚げてこられたご自身の体験談に触れて、大変印象的な言葉を伝えてくださいました。当時は、それまでの豊かな生活と一転して、「身なりもボロボロで、食べ物もなく、悲惨きわまりない状況だったけれど、子どもを無事に日本に連れて帰ることだけを念頭に置いて、頑張り抜いた」ということです。そして、「そんな過酷な毎日にあって、大きな支えになったのは、同志社女子部での学生時代に培われたキリスト教精神だった」としみじみ語っておられました。本日は聖句として、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(コリントの信徒への手紙二 第4章16-18節)を選ばせていただきました。苦難にあって、「見えるもの」(物質的なもの)は外的要因で奪われても、「見えないもの」(内面)に確たるものがあれば、自分自身を失わずにおれる、ということだと思います。

戦争という絶対悪に巻き込まれながらも、自分を見失わず、内なる輝きを保ち続けた人として、もうひとり、卒業生のエピソードに言及したいと思います。星名ヒサという方です。女学校・女専時代にデントン先生の教えを受け、結婚してアメリカのハワイやテキサスで過ごし、子どもたちの教育のために日本に戻った後に、母校の教員(最終的には、同志社女専教授)をつとめられました。皆さんはデントン先生が戦時中、アメリカに帰国せず、あえて日本に留まられたことをご存知でしょうか。「敵国人」という理由で特高警察の監視下に置かれ、高齢の身で大変なご苦労をされたわけですが、その時、献身的にデントン先生のお世話をされたのが、星名先生です。以前チャペルでもお話し、学内冊子(『Vine』57/『The Roots 志の章―人物編』)にも紹介文を書いたことがありますので、今日は簡単な話に留めますが、星名先生に関連して、ぜひ皆さんに記憶していただきたいのは、戦時中に行われた防空訓練でのエピソードです。その訓練は、町内会長の指揮のもとで「鬼畜米英!」と叫んで英米国旗を踏みつける、というものでした。しかし星名先生は、「私にはそれは出来ません」と言って、拒否されたというのです(江上幸子「『デントン先生』―生涯を私たちに捧げてくださった」)。全体主義の時代に、こういった行為がどれほど危険なことだったかは、容易に想像できます。よほどの信念と勇気がなければ、あり得ない対応です。

話が少しそれますが、先日のアメリカ大統領選挙で、ヒラリー・クリントンがまさかの敗北を喫しました。しかし、その後公表された彼女のスピーチは、本当に素晴らしかったと思います。その中で私がもっとも感動したのは、「特に、若い方々に聞いてほしい」と前置きし、彼女が述べた言葉です。引用しますと、「自分が正しいと思うことのために戦う価値を、どうか信じ続けてほしい」(Web「朝日新聞 Digital」http://www.asahi.com/articles/ASJCC4GYFJCCUHBI01H.html) というメッセージです。「自分が正しいと思うことのために戦う」-まさに、先ほどの星名先生に通じる姿勢だと言えるでしょう。同志社女子教育が長年にわたって継承してきた、「見えないもの」の教育の重要性を再認識いたしました。

140年を語りつぐ