クラッパードインを知っていますか?-大志を抱いた女性たち

才藤 千津子(聖書 A)

1 .クラッパードインの由来

みなさんは、同志社大学の脇の烏丸通から西側にちょっと入ったところにある「バザールカフェ」という喫茶店を知っていますか?エスニックフードを出す庭付きの気さくなカフェとして人気があり、同志社の学生を始めとしていろんな人が出入りしています。実はこのカフェは、同志社女子部・同志社女子大学の歴史と深い関係 があり、もともとは「クラッパードイン」と呼ばれていました。

「クラッパードイン」ということばを聞いたことがありますか? 実は、ここにクラッパードインの由来について書いた文章がありますのでご紹介しましょう。

 

「私(ヒバード先生)は二人の独身女性宣教師と一緒に住むことになった。ピアノの教師フランシス・クラップと、同志社中学の会話の教師アリス・グインと共に室町通りにある19世紀風の宣教師館に住んだ。花をつける木々や、しげみもある、美しい庭つきの住いであった。家族に宛てた手紙に私は仲間の先生方のことを書いた。ミス・クラップは背が高く、髪はブロンドで、動作の活発な方です。人々や物事についての驚くばかり豊かな情報を、早口で迫力をこめて話されます。ミス・グインは全く異なったタイプの方ですが、地上の天使ともいえましょう。彼女のブロンドの髪は男の子の髪のように上の方まで短く刈り込まれています。とてももの静かで、おだやかな方で、こんなに優しい声で話す人に今まで出会ったことがありません。お人柄にはある種の純粋な透明性がありますが、それによって彼女の強さが損なわれることはありません。
(略)
性格は根本的に異なっていたにもかかわらず、私たちは大変仲良く暮らした。
……(略)
私たちの共同住宅に深刻な問題が一つもちあがった。すなわち、ここをどう呼ぶべきか。これはある友人の宣教師の名案で独創的な解決をみた。それぞれの姓を結び合わせて「クラバドイン」と早速表札に彫ってもらって入口に掲げた。」
エスタ・L・ヒバド『自伝-ある宣教師っ子の思い出』より。(pp. 57-58)

 

この手紙を書いたエスター・ヒバード先生は、アメリカンボードの女性宣教師として、1929(昭和4)年に26歳でアメリカから来日して同志社女学校で教え、戦争中(昭和16年)にいったん帰国した後、戦後(昭和21年)再度来日しました。そして、1949(昭和24)年に同志社女子大学ができたときに初代学長になった女性です。宣教師の娘として、東京で生まれて幼い日を日本で過ごした人でした。この手紙の文面からは、ヒバード先生の知的であたたかいお人柄と宣教師としての純粋な情熱がにじみ出ているような気がするのは私だけでしょうか。

明治から昭和期の日本には、彼女のように海外でキリスト教女子教育に従事した女性宣教師たちが大勢おりました。同志社女子部もアメリカから来た女性宣教師たちのすぐれた働きによって助けられた学校のひとつだと言うことは、皆さんもご存知でしょう。彼女たちは若い独身女性で、異郷の地の人々に神の愛、イエス・キリストの教えを伝えることに大いなる使命を感じ、勇気をもって海外へと踏み出した人々でした。

2 .女性宣教師来日の背景

では、このような女性宣教師たちが生まれた歴史的な背景はどのようなものだったのでしょうか。今朝は、海外への女性宣教師を輩出したアメリカのキリスト教会における女性の歴史をたどってみたいと思います。

植民地時代の女性たち
17世紀、アメリカがまだイギリスの植民地であった時代、のちに宣教師団体アメリカンボードの母体となったマサチューセッツのピューリタンの間では、女性に対しての保守的な考え方が支配的でした。結婚は神から与えられた祝福の賜物であり、「神の前にあって」男女の区別はないとしたピューリタン思想は、女性解放への可能性を示唆していました。しかし、現実の「この世の」結婚においては、妻は夫に服従すべきで、夫は妻を庇護し妻は夫に従うものだと考えられていたのです。

また、女性は教会など公的な場で発言をすることが認められませんでした。たとえば、1638年、牧師の説教を解説する集会を自宅で開いていたアン・ハチンソン(Anne Huchinson, 1591-1643)という女性は、牧師の説教を批判し植民地の秩序を乱したという罪で起訴され、マサチューセッツ植民地から追放されてしまいました。

近代的聖書解釈と女性
ところで、聖書のなかには、女性の男性への従属を認めているようにも読める記述が散見されます。たとえば、使徒パウロによって書かれた新約聖書コリントの信徒への第1の手紙には、「すべて男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり…」(Ⅰコリント 11:3)、「婦人たちは教会では黙っていなければならない…」(同14:34-35)という文言があるのです。女性の立場に立った時、このような文言をどう理解すれば良いのでしょう。教会で伝統的に教えられてきたように、聖書には誤りはないとして、これらの文言をそのまま「信じれば」よいのでしょうか。

南北戦争後には、聖書のなかのこのような女性差別的表現に疑問を感じた女性たちのなかから、聖書の教えをどのように理解するかについての論争が起こりました。たとえば、女性参政権運動のパイオニア、エリザベス・C・スタントン(Elizabeth C. Stanton, 1815-1902)という女性は、1895年、女性差別的な聖書解釈に挑戦して「女の聖書(ウーマンズ・バイブル)」という聖書注解を出版しました。彼女は、聖書の中の女性差別的箇所を「これは神の言葉を聞きまちがえた男たちの言葉である」という厳しい言葉で批判したのです。彼女は、聖書の文言をその歴史的文化的文脈において批判的に解釈し、女性の社会的抑圧には宗教的な背景があることを明らかにしましたが、この試みは、20世紀のフェミニスト神学の先駆けだとも言えます。またキリスト教会を基盤として、売春婦の救済や禁酒運動などの慈善運動や社会改良運動に携わった女性たちも多く、たとえば女性牧師の先駆けのひとりフレンド派のルクレシア・モット(Lucrecia Mott, 1821-1913)は、女性の権利運動や奴隷制廃止運動の指導者として有名です。

奴隷解放運動における女性の働き
19世紀後半、アメリカで奴隷制に代表される南部と北部の政治経済上の対立から南北戦争(American Civil War, 1861-1865)が勃発すると、女性たちもさまざまな形で戦争に参加しました。たとえば北部では、志願兵になった男性の代わりに約30万人もの女性が職場に進出して事務職や郵便業務などさまざまな業務に従事したと言われます。新島襄がアメリカに行ったのは、この南北戦争の直後です。

南部から北部に逃げてきた逃亡奴隷の支援に携わった女性たちも大勢いました。たとえば、カルビン派牧師の娘・教師であったハリエット・ビーチャー・ストウ(Harriet Beecher Stowe, 1811-96)は、『アンクルトムの小屋』(1852)において奴隷所有者たちの罪の大きさを描き出し、奴隷廃止運動の気運を盛り上げました。

また、この時期に活躍した奴隷解放活動家たちのなかには、黒人女性の姿もありました。たとえば、ハリエット・タブマン(Harriet Tubman, 1821-1913)は、南部奴隷州から奴隷制度のない北部自由州へと黒人奴隷を逃亡させるための非合法組織「地下鉄道」を力強く指揮して、「黒人の女モーセ」(モーセは、イスラエル民族をエジプトでの圧制から救い出した旧約聖書のなかの指導者)と呼ばれました。

女性と教育
19世紀になると、アメリカ各地には「セミナリー」と呼ばれる女性のための高等教育機関が設立されました。そのなかには女性の手による学校もあり、たとえばメアリー・ライオン(Mary Lyon, 1797-1849) は1837年に「マウント・ホリヨーク・セミナリ―」を創設し、同校は1895年アメリカで最初の女子大学になったのです。最初に紹介したヒバード先生はこの女子大学を卒業されています。

この時期に高等教育を受けた女性たちの多くは、当時女性に開かれていた限られた職業のなかから「女性教師」になることを選びました。こうして女性教員の数が大幅に増加しましたが、そのような女性の中には、国内での活動には飽き足らず、海外でのキリスト教宣教活動に身を投ずる女性たちもいました。そのなかに、ボストンに本部を置くアメリカンボードと呼ばれる宣教団体から日本に送られてきて、現在の神戸女学院や同志社女子部など、キリスト教女子教育を行う学校を創設するのを助けた女性たちがいました。これら女性宣教師は、キリスト教信仰だけではなく「キリスト教の生活と文化」をアジアの女性たちに教えることに使命を感じ、異国の地で積極的に宣教と教育活動に従事したのです。

3 .私たちが受け継ぐべき遺産と課題~人々がありのままの姿で生きられる場、人と人とが出会える場を創出してゆく責任

このように19世紀のアメリカでは、奴隷解放運動や海外宣教活動など、キリスト教徒の女性が中心になって活躍した社会活動が大きな社会的影響力を持ちました。この時期、中流階級のアメリカ女性たちは、キリスト教道徳に基づいた社会奉仕(ボランティア活動)という名目のもとに、家庭という私的空間を出て、公的空間で活躍する場を広げて行ったとも言えるでしょう。その際、万人の自由と平等を説く聖書の教えは、女性たちの活動の思想的支えとなりましたが、同時に伝統的なキリスト教道徳による女性の「理想像」は、女性たちを伝統的で男女差別的な枠組みの中に押しとどめようとしました。この時代のアメリカ女性たちは、この2つの分裂する考え方の間で苦しみながら、自らの活動領域を広げようと苦闘したといえるでしょう。

先ほどお読みいただいた聖書(マタイによる福音書 5:14~16a)には、「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そ うすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」とあります。クラッパードインに住んだアメリカ女性宣教師たちの貴重な働きの背後には、神様から女性に与えられた「光」を輝かせようとして努力してきた、たくさんの女性たちの闘いの歴史があったのです。

現在、クラッパードインは、「バザールカフェ」と呼ばれています。「性別・年齢・国籍など多様な背景をもって生きる人々がありのままで受け入れられる居場所」を理想とし、HIV や薬物依存、LGBT などの問題で、社会の偏見や差別と闘っている人たちの活動を支えています。私たちは、こうして女性宣教師たちの熱い思いが今も脈々と受け継がれていることに心から感謝し、祈りをもってその歴史を継承して行きたいものです。

 

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