同志社女子部の創立の日(1876年10月24日)を憶えて

坂本 清音(本学名誉教授)

まず、140年に及ぶ同志社女子部の歴史の検証に、宗教部と史料室(現史料センター)が果たしてきた役割に感謝の言葉を申し述べたいと思います。

女子部創立記念礼拝

今年は皆様もご存知のように、同志社女子大学140周年記念の年に当たります。大学としても、そのことを覚えて、講演会やシンポジウムを計画されていますが、宗教部では、本学の宗教教育の中心をなす、毎朝の礼拝の時間を使って、すでに何人かの講師の方々から、様々なお立場で、140年の歴史を語りつぐ、という企画を実行されています。中でも、特に宗教部に感謝したいのは、140年の記念の年だけでなく、もう20年以上前から、女子部の創立記念の日10月24日を覚えて、記念する礼拝を守っていてくださることです。

女子部の創立は1876年10月24日

思い起こしてみますと、女子大学で10月24日が創立の日だと意識されるようになったのは、いつ頃からでしょうか。それは、同志社の、140年に及ぶ、誇るべき女子教育の歴史の中で、比較的最近のことと言わざるをえません。英学校の歴史と女学校の歴史とは異なる、という歴然たる事実に、注目してこなかったせい、ではないでしょうか。また、この大切な事実に目を向ける動機になったのが、史料室の存在であることを、皆様はご存知でしょうか。

本学の名誉教授、宮澤先生は、古くから女子部の歴史を研究テーマとして、関連する論考をまとめておられますが、論文という形でなくても、女子部の歴史の一齣一齣を、エッセー風に、ドキュメントとしてまとめておられる書物も出しておられます。それが『同志社女子部点景』というご本です。

史料室の存在

その 1項目に「同志社女子大学史料室の開設」があります。その中に今から22年前の1994年に、女子大学に初めて史料室が開設された経緯が記されています。興味のある方はぜひ共ご一読ください。

さて、史料室開設の記念すべき年に第1回の記念展示が行われました。その時のテーマが「創設期の同志社女学校と M. F. デントン遺品」だったのですが、展示を準備する中で、女子部創立の日が1876年10月24日であることを周知するために、その日をオープンの日にしようと定めました。そして、展示に先立つ記念礼拝を持つことになり、宗教部のご賛同を得て、このチャペルの時間に持たせていただきました。

英学校と女学校の異なる始まり

それを契機に、徐々にではありますが、女子部の創立は10月24日と意識されるようになりました。そして、2000年出版の女子大学単独の年史『同志社女子大学125年』においても、また2000年から2001年にかけて企画された、創立125年・新制大学設置50周年記念のパネル展「新島襄と同志社女子大学」においても、同志社の女子教育の始まりは、大学の創立記念日1875年11月29日ではなくて、その翌年の10月24日であると大々的に広報されるようになりました。この頃初めて、女子部の正確なルーツを意識するようになったと言えます。

生まれた日

俗な比喩で、申し訳ないのですが、11月29日は、同志社家の長男「英学校くん」が生まれた日であって、長女の「女学校ちゃん」はまだ生まれていません。それなのに、お兄ちゃんの誕生日に一緒にお祝いをしたら、それでいいと、私の誕生日が無視されるとしたら、妹は憤慨するのは当然ではないでしょうか。私のバースデーケーキは、私の誕生日に食べたいの、というのは、ごく普通の妹の言い分です。ただそれが、生まれて120年近く経って、初めて自分のルーツを知り、やっと自己主張を始めたという、かなり遅すぎる「女学校ちゃん」の言い分であることは気になります。

生まれた場所

2番目に、誕生の地も異なっておりました。「英学校くん」の誕生した家は、新島家の自宅でしたが、「女学校ちゃん」が生まれたのは、御苑内の公家柳原前光さんのお屋敷でした。なぜかというと、新島を助けて同志社英学校をスタートさせた、アメリカン・ボードの宣教師 J. D. デイヴィス一家が、神戸から移り住んでいたのが柳原邸だったからです。当時は、内陸部と言われていた京都の地に外国人が居住することは極端に難しかった時代でした。ですから、新島襄にとって、借家探しは大変でした。そういう意味で、天皇について江戸に移っていき、空き家になっていた公家屋敷は同志社のキャンパスにも近く、格好な住宅でした。

そこに、女子のキリスト教教育に携わるために来日した女性宣教師 A. J. スタークウェザーが同居することになります。これが一番目立たない形での住み方だったからです。従って、彼女の身分は、デイヴィス家の「居候」として、届け出がされています。

創立時の学校の特色

① 英学校の場合
3番目の相違点として、英学校と女学校の始まった日の様子も違っていました。英学校の方は、新島の死の10か月後に出版されたデイヴィスの『新島襄の生涯』の中に、大変印象深く記述されています。

11月29日の朝「8時、新島の家での祈祷会をもってわれわれの学校を始めた。この祈祷会には全生徒が参加した。それから校舎へ行き、新たに生徒2人を受け入れることにした。全部で7名の寄宿生と1名の通学生であった。(中略)あの朝開校に先立って新島が捧げたあのやさしい、涙に満ちた、まじめな祈りを私は決して忘れることはできない。すべての者が心から祈った。

と書き残したデイヴィスの感懐(言葉)は、何度読んでも胸が熱くなります。

② 女学校の場合
一方、女子塾の始まりは、ウーマンズ・ボード宛のスタークウエザー書簡にある文言です。

[1876年]10月24日に女学校の正規の授業を開始しました。それは、デイヴィス先生に京都在住許可が出て、昨年初めて入洛することのできた、記念すべき日からちょうど1年と、5日後のことでした。寄宿生4名と通学生8名で、合計12名です。

これによりますと、英学校は8名、女学校は12名ということになりますが、一体、どんな生徒だったのでしょうか。

英学校の方は、神戸時代からデイヴィス先生の生徒だったクリスチャンが主だったので、少人数とはいえ入学には確たる目的を持ち、すべての教員学生が祈りを合わせて始めることのできた神学校でした。

しかし、女学校の場合は違いました。開校日は決めたものの、果たして生徒が来るだろうかとの不安と共に始まりました。「あちらこちらにハツラツとした女の子の姿はたくさん見かけるけれど、私たちの学校に来る生徒はどこにいるの」という状態でした。キリスト教の女学校であるがゆえに、周りからは敬遠された女学校でした。

女学校の入学生たち

まず、最初の一人は 、母親が連れてきました。娘が是非ともイエス様のことと、英語も少し学びたいと言っているから、とのことでした。デイヴィスが来てから始めていた、日曜学校の生徒だったかもしれません。2番目は、クリスチャンであった父親が死の床で「心配しなくてもいいよ。神様が必ず面倒を見てくださるから」と言って亡くなり、最初は宣教師の家で面倒を見てくれないかと連れてきていた女の子だったのですが、学校が始まったので、生徒として受け入れることができました。

次は遠方、九州の熊本からです。女学校開校の1ヶ月くらい前のことなのですが、熊本バンドの最年少の生徒として、英学校に来ていた14歳の下村孝太郎少年から、父親の放蕩のために一家が路頭に迷っている、と聞きました。そこで、宣教師たちが、姉妹3人分の旅費を出し合って、九州から呼び寄せることにしました。実際は、下村少年の往復の旅費も要ったので、2人しか連れてくることはできませんでした。最後にもう一人、背景がわかっているのは、伏見の17歳の少女です。10日以内に11ドルのお金が工面できないと身売りされると聞き、大急ぎで、スタークウェザーがお金を出して、引き取ることにしたのです。

12名全員の詳細は不明ですが、概して恵まれない家の女の子だったことがわかります。彼女たちはアメリカのクリスチャン女性から送られてくる献金で、生活費や学費を補い、先生も生徒も柳原邸で寝食を共にしながら、学校生活を送っていました。その様子を、スタークウェザーは、「生徒たちがみんな可愛らしく、教えやすく、学ぶことにも、祈祷会や礼拝にも熱心に出席している」と、誇らしげに報告しています。

140年前半と後半の女子教育

その日から140年、現在の同志社女子大学は確固たる基盤の上に立ち6,500名の学生が生き生きと学ぶ、日本を代表する 女子大学の一つと言えます。その歴史を大きく2時期に分けるとすれば、前半の70年は明治・大正・昭和にまたがって、日本の政府が女子の中等教育を男子とは差別して疎かにしていた中で、それを補完する役目を果たし、やがては、女子の高等教育機関として女性たちに学ぶ場を提供して来た時代でありました。そして後半の70年は、戦後の改革により、男女共学制が施行されたのちも、現在に至るまで女子大学であることを選び、1人前の、教養ある、自立した女性を育てることに寄与しています。

同志社の女性教育は、明治の初めに海を渡って来日したアメリカの女性宣教師たちの信仰を受け継いで、以来ずっとキリスト教を基盤とする女性の生き方、新島襄が願った「世の改良者となって」他者のために働く女性を育てることを目指して存続してきました。 今後、大学の規模がどんなに大きくなっても、この精神が女子大学の教育の中心として大切にされることを、心より願っております。

140年を語りつぐ