140年のマインドフルネス

中村 信博(聖書)

31/140年という時間

私は1986年、同志社女子大学が京田辺キャンパスを開設した年にこの大学の一員に加えていただきました。140年におよぶ本学の歴史のなかで、今年31年目を迎えていることになります。こ31年間に限ってみても、いろいろなことがありました。私が赴任いたしましたときには、ふたつの学部と開学したばかりの短期大学部が併設された比較的小さな規模の大学でした。いまはもう短期大学部はありませんが、6学部に増えています。

31年間には何度か忘れられないというよりも、けっして忘れてはならないと感じてきた辛い経験もありました。私たちのキャンパスは建物だけでなく植栽にも随分と気を遣っています。そのなかには在学中の不慮の事故で亡くなられた学生のみなさんを記念して植えていただいた樹木もあります。季節が巡るたびに美しい花を咲かせる木々の前を歩くとき、その学生さんのことをおもいだします。

愛という名の哀しみ

個人的なことではありますが、そしてたった一度だけのことでしたが、こんな経験もいたしました。もう27/8年も以前のことです。あることでこの大学を辞める決意をしたことがありました。

その日、私はたまたま今出川キャンパスでの礼拝担当に当たっていました。奨励題はたしか「愛という名の哀しみ」というようなタイトルであったかとおもいます。チャペルアワーでの奨励のタイトルは数日前には予告を宗教部事務室に提出することになっていますので、おそらく偶然であったとおもいますが、その朝の私自身の気持ちを素直に表現したものであったような気がします。この大学の一員に加えていただいて、大好きな大学にはなったけれども、悩んだ末に辞めさせていただくことがこの大学にとっても、そして私自身にとっても最善の判断だと思い込んでおりました。

壇上に立って、讃美歌を歌いながら栄光館の高い天井を見あげているうちに、ひょっとするとこれが私にとっては、同志社女子大学での最後の礼拝になるかもしれない、と考えると目頭が自然と熱くなり、心臓がバクバクしてきて、手も足も震えが止まらなかったことを憶えています。

以来、私にとってこのチャペルアワー・学内礼拝の時間は大学での一日にとって掛け替えのない時間になりました。私は本学で必修科目の聖書を担当している教員のひとりですから、チャペルアワーの時間が大切であると考えるのは、当たり前のことかもしれません。けれども、この時間は私ひとりにとってではなく、本学が創立以来、140年にわたって毎日大切にしてきた時間でもあるのです。

「140年を語りつぐ」というシリーズの礼拝のなかで今朝、私は改めて本学におけるチャペルアワーの意味を考えてみたいとおもいます。

神にささげられた学校

そもそも、同志社という学校は141年前の11月29日、創立者新島襄の祈りとともに始まった学校でした。以来、同志社はこの日を創立記念日と定めてきました。今年もまた間もなくその日がやってきます。

新島とともに同志社最初の教師となったジェローム・ディビス宣教師は「あの朝、開校に先立って新島が自宅でささげたあのやさしい、涙に満ちた、真剣な祈りを私はけっして忘れることはできない。すべての者がこころから祈った」(『新島襄の生涯』)と書き残しています。それは、同志社という生まれたばかりの小さな学校が、日本、そして京都という異教社会のなかで神にささげられた瞬間でもありました。以来、同志社は今日に至る長い歴史を、キリスト教を建学の精神、その礎として歩んできたのです。

マインドフルネス

ところでみなさんは、「マインドフルネス(mindfulness)」という言葉をご存知でしょうか。辞書をひけば、「注意深さ」とか「気づき」などと説明されています。本来は、東洋の初期仏教に起源をもつといわれる一種の瞑想法を指します。しかし近年は、西欧社会においても精神医学や臨床心理などの面で注目されるようになりました。専門的には「第3世代認知行動療法」のなかに組み込まれてその治療的効果が注目されているそうです。最近は、NHK の「サイエンス ZERO」(2016年8月21日)や「ガッテン」(2016年9月28日)という番組などでも紹介されていましたから、関心をもっておられる方もあるかとおもいます。「マインドフルネス」の最大の目的は脳(頭)を疲れさせない、休息させることにあるといわれています。人間の脳は体重の2%ほどの重さですが、エネルギー消費量は全体の20%にもなるそうです。しかも、そのうちの多くがデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という回路のために使われているといいます。これはふだん何もしていないとき、あるいは脳が自然に活動しているときに使われる回路のことですが、いわゆる雑念やこころに感じるストレスに深く関連する回路です。専門家たちは脳内のこの回路を休める方法として「マインドフルネス」という瞑想法に注目しているのです。

「マインドフルネス」では、眼を閉じて自分自身の呼吸(息づかい)に意識を集中します。過去や未来のことを悩みすぎないように、意識を「いま」という時間のなかで、そして「ここ」という場所で呼吸をしている自分自身を客観的に観察するようにすることがコツだそうです。

専門家でもない私が、「マインドフルネス」の科学的効果について解説したいわけでも、キリスト教を建学の精神とする大学で仏教の瞑想法を広めようとしているのでもありません。ただ、私たちの時代はこのような仕方で「こころの健康」に関心が注がれていることにこころを留めておきたいのです。

同志社女子大学のマインドフルネス

ただ、そう考えてみますと、この140年大切にされて一日も欠かさずに守られてきたこのようなチャペルアワー・学内礼拝は、同志社女子大学の「マインドフルネス」とも呼ぶべき時間であったのかもしれないと考えてみたくなるのです。本学のチャペルアワー・学内礼拝は、大切な時間として参加を奨められることはあっても、だれにも強制されることはありません。学生のみなさんも教職員のみなさんも、それぞれ一日に自分に与えられた時間のなかで、自由にこの場に集って、こころをゆっくりと休めることができます。そして、困難のなかにある自分の判断が間違っていなかったかどうか、自分自身を点検する貴重な時間になっています。私が、一度は辞めようと決意したこの大学に27/8年もたったいまもなお、お世話になっていられるのは、その日の朝にもこうして、自由でこころを休ませてくれるこの空間と時間とが存在していたからに他なりません。

祈りのかたち

ただ少しだけ「マインドフルネス」の方法とこの時間が違うところがあります。それは、チャペルアワー・学内礼拝には「祈り」という要素があることです。「マインドフルネス」でも一部に祈りが大切だとする考え方もありますが、チャペルアワー・学内礼拝では、むしろ祈ることこそが決定的に大切にされてきたのです。そもそも、同志社は創立者による「涙に満ちた、真剣な祈り」によって始まった学校でした。

哲学者で現在京都市立芸術大学の学長をしておられる鷲田清一(きよかず)先生は「祈ること」を次のように説明されたことがありました。祈りとは

どうにも意のままにならないもの、受け身でいるしかないもの、そういうものを受け容れるまでの、哀しくも執拗な抗いのかたちである。(鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年)

というのです。

その思想の背景には「理解するとは、(他者や相手、隣人を)所有することではなく、貪欲で自己愛的な自我の放棄(つまり自分自身を捨て去ること)をともなう」ものだとしたフランスの哲学者ポール・リクールの考え方があります。しかし、祈りを「どうにもならない(それは、捨て去ることのできない自分という意味かとおもいますが)自分をまるごと受け容れるしかない抗いのかたち」とする定義には、「理解すること」よりもさらにその先にある課題として「祈ること」を見つめておられる誠実な哲学者の姿勢をうかがうことができます。

私が知る限り、本学の学内礼拝において、「祈り」が割愛されたことは一度もありません。ときに司会者によって、ときに奨励者によって、ときに演奏者によって、ときに出席者全員による黙祷というかたちで、「祈り」はいつも現実の世界と私たちの内面(こころ)世界の抗いがたい魂の葛藤の跡を示しつづけてきたのです。

創立以来140年にわたって大切にされてきたこの時間は、これからも新しい時代のなかで、変わらずに自分自身を見つめ、隣人を見つめ、神を見つめて歩むためのこころを整える時間でありつづけることを願ってやみません。

140年を語りつぐ