初代学長 エスター・ヒバード先生:報いを望まないで

枝澤 康代(元本学教授)

はじめに

おはようございます。ご紹介いただきました枝澤康代でございます。今朝は、140年を語りつぐというテーマを与えられましたので、私が学生時代に教えていただき、卒業後も折に触れて親しくお交わりをさせていただきました、同志社女子大学初代学長のヒバード先生についてお話させていただこうと思います。

子ども時代

ヒバード先生は、1903年9月23日に東京でお生まれになりました。お父様が YMCA の主事をしておられ、東京YMCA にアメリカから派遣されておられたからであります。ヒバード先生は11歳まで日本で育たれました。東京と当時日本領であった旧満州の大連に住まれ、夏はいつも軽井沢で過ごされました。言葉は家では英語ですが、外では日本語を流暢に話され、時にはお母様の通訳をするほどであったそうです。教育は学校には行かず、ご両親がアメリカの小学校と同じ教材を使って教えられました。

11歳の時にお父様の健康問題でアメリカに帰国されました。帰国後は、ウィスコンシン州の母方の実家にしばらく住み、地元の小学校に通われましたが、ヒバード先生は新しい環境になかなかなじむことが出来なかったそうです。日本文化からアメリカ文化への適応が難しかったわけですが、この影響は大きく、ヒバード先生のシャイな性格をより強くしたのではないかと思われます。

学生時代

大学は、アメリカの東部の有名女子大学の一つであるマウント・ホリヨーク大学に進学され、英文学を専攻されました。ヒバード先生は父方の祖父様が高等学校の校長先生であった影響で、将来は学校の先生になりたいと小さい頃から思っ ておられました。熱心に勉強され、英語だけでなく、音楽、理科の教員にもなることの出来る資格を得て、優等で卒業されました。勉強以外では、聖歌隊で活躍され、また、子どものころから本が大好きで、文学少女でありましたので、学生が発行する『Monthly』という雑誌の編集もされました。友人にも恵まれ、充実した大学生活を送られました。

挫折と出会い

ところが、大学を卒業しても就職先が見つかりませんでした。いろいろなところの教員採用試験にことごとく失敗されたのです。大学卒業と同時に、お父様がウィスコンシン州マディソンにある州立大学の YMCA 総主事になられましたので、ヒバード先生もご両親と一緒に住むことになりました。ウィスコンシン大学大学院を修了し、州の教員免許も取って、万全の態勢で教員になろうとされたのですが、ダメでした。ある時など、ウィスコンシンの片田舎の学校の、小使いさんも兼ねる体育の先生なら採用すると言われたときには、あまりの情けなさに、生きているのも嫌になったそうです。今まで何のために勉強してきたの かと絶望しているときに、たまたまマディソンの一番大きな高等学校であるセントラル・ハイスクールに急に空きが出来て、ヒバード先生は英語教員として採用されました。

ヒバード先生は大喜びで、一生懸命に教えられました。しかし、残念なことに、生徒たちはヒバード先生の教え方についていきませんでした。多くの生徒にとって、英語の授業というのは、あまり面白いものではありません。高校生たちは予習・復習をせず、まったくやる気を見せなかったようです。ヒバード先生はとうとう1年半後に教員をやめ、大きな挫折感を味わわれました。

新しい道を探しておられるときに、ヒバード先生はいつも出席している教会で、トルコと中国の学校で宣教師をしている母校の卒業生の話を聞かれました。その人達は、教育宣教師は生徒たちに科目を教えるだけでなく、その生き方や人生にもかかわる教育ができること、生徒たちはとても熱心に勉強することを報告しました。ヒバード先生は、それこそ自分の求めている教育だと思って、自分の生まれた国である日本の学校での宣教師の道を考え始められたのです。

クリスマス劇との出会い

そして、その年のクリスマスに見た劇がヒバード先生の背中を押しました。その劇というのは、フランスのノーベル賞作家のアナトール・フランスの書いた『聖母と軽業師』という劇で、ある修道院の貧しい修道士の物語です。その修道士は元軽業師で、学問もなく、修道院では馬鹿者扱いをされていました。修道院には立派な聖母の像があり、その年の一番よい捧げものをした者には、クリスマスの夜に聖母の祝福があるという伝説がありました。ですから、修道士たちは聖母の祝福を得ようと、必死に捧げものを作ったのです。しかし、その年まで誰も聖母の祝福を受けた者はいませんでした。今年こそ、と皆は最上の捧げものをしようとしました。貧しい修道士も、聖母の祝福を受けたいと願いましたが、どのように考えても、自分にできることは軽業の業だけなので、聖母像の前で、人間業とは思えないほどの軽業を踊ったのです。それを見た仲間の修道士は、あまりの激しい動きに危険を感じて、やめさせようと修道院長を呼びに行きました。修道院長が聖堂に入ろうとした瞬間、聖母の像が動き、その手が元軽業師の頭の上に止まったのです。修道院長を始め、他の修道士たちはそれを見て慄き、皆その場に跪きました。しかし、その貧しい修道士の命はすでにこと切れていました。

この劇を見てヒバード先生は非常に感動されました。ヒバード先生は、その時の気持ちを次のように語っておられます。「たとえ自分に才能が無くても、たとえ貧しくても、人間が謙虚な態度で、一生懸命に神様に仕えようと思えば、認められる」と。

教員になりたくて、苦労に苦労をして教員になったのに、生徒たちに受け入れられなかったヒバード先生に、この劇は何よりの慰めと希望となりました。この劇を見た翌月、つまり、1929年1月に、ヒバード先生は宣教師になる決心を固め、アメリカン・ボードに申込書を送られました。異例の速さで教育宣教師になることを認められたヒバード先生は、その年の9月に同志社に赴任されたのです。同志社女学校・女子専門学校で教え初められたヒバード先生は、何が無くても、心を込めて神と人に仕えるならそれで十分であることを固く信じ、生き生きと教えられ、 3年後には終身宣教師になられました。

第二次世界大戦と再来日

日米が戦争となり、アメリカ人は帰国するように要請されました。ようやく戦争が終わって、同志社に戻って来られたとき、日本では大きな学制改革がありました。ヒバード先生は新制大学設立準備委員長として、カリキュラムを立案するという立場になりました。女子専門学校を 4年制の大学にするには、大変な困難があったのですが、隣の同志社大学とは違う、リベラルアーツの、女子のための、特徴ある教育を打ち出すことによって、ようやく新制同志社女子大学が誕生しました。ヒバード先生は初代学長になられました。今、本学はリベラルアーツ教育を誇りにしていますが、それには、ヒバード先生がおられたからだこそと言っても過言ではありません。

ヒバード先生の素顔

ヒバード先生は、怖い先生、真面目で、融通の利かない先生として有名でありますが、実は、とってもユーモラスでお茶目な先生でもありました。キャンプなどにご一緒すると、そのことはよくわかりました。また、人に知られないで、学生の面倒をよく見られた先生でもあります。見えても、見えなくても、神と人に仕えることを何よりも優先された先生でありました。先生のお好きな聖句は、マタイによる福音書6章33節の「神の国と神の義をまず求めよ」です。

先生は自分には2,000人のこども、つまり卒業生がいるとよく言っておられましたが、その遺産を寄付されたヒバード奨学金によって、今も本学の学生を育ててくださっています。ヒバード先生の愛唱讃美歌は、先ほど歌いました「報いを望まで」ですが、そのとおりの生涯を歩まれた先生でありました。

最後のクリスマス説教

最後に、これからヒバード先生の最後のクリスマス説教の一部を聞いていただきたいと思います。これは、1972年12月に東北学院大学のクリスマス礼拝で録音されたものです。録音状態が悪く、聞き取れないところもありますが、ヒバード先生の生の声を聞いていただきたいと思います。

今定年で引退し、祖国へ帰らなければならないということは、私にとって実に寂しい気持ちでいっぱいでございます。しかし、私の一生を神様に捧げた以上、こんどこそきっと何かのお役に立つのではないかと思っておるのでございます。たとえ鈍くても、たとえ体が弱ってきても、神に仕える気持ちが一杯であればこそ、きっとあの無学な手品師と同様に認められるに違いありません。そこでクリスマスの季節が来るたびごとに、私は御子イエスの前にまかり出て、私の持っている貧しい捧げものを携えて、御前にひれ伏すのでございます。

若い皆様も、将来を選ぶときに、ぜひ自分を心身ともに神に捧げるように私は切にお願いしたいと存じます。そうすればこそ、神様に認められて祝福されるに違いありません。そして喜びもどんなにか心のうちに満ち満ちると私が経験している以上、あなた方にもそれを保証することができます。

最後に、クリスティーナ・ロセッティという英国の女流詩人の書いた詩をご紹介して私の話を閉じたいと思います。

真冬のさなかに、
木枯らしの冷たくなる
地上は鉄のように固く
水は石のごとく
雪は雪に降り、積もりに積もって
昔の真冬に
・・・
まぶねに
御子イエスは生まれられた

貧しい吾は何を御子イエスに捧げようか
もし吾は羊飼いであれば、子羊を捧げよう
もし吾は博士であれば、力の限り捧げるでしょう
しかし、吾は何を捧げようか
吾はわが心を捧げよう

以上です。

140年を語りつぐ