稔りの風景

甲元 洋子(イギリス文学史)

はじめに

昨年、「史料室運営委員」というお役が回って来まして、及ばずながら史料室のお手伝いをさせて頂きました。終戦後70年にあたる年でしたので、史料室運営委員会(委員長は日本語日本文学科の大島中正先生)での話し合いの結果、「戦時下の同志社高等女学部・同志社女子専門学校」というテーマで企画展を開催することになりました。私は国際教養学科の史料室運営委員エリオット先生とペアを組ませて頂いて、「戦時下の同志社社員たち」特に同志社女子部と関わりの深かった外国人宣教師についての展示部分を担当しました。展示する為の史料の収集から始めたのですが、その時とてもお世話になりましたのが本学の元教授であり、私たちの先輩でもある枝澤康代先生でした。

枝澤先生はご専門の英語学の他に、本学の初代学長であったヒバード先生のご研究もされており、その関係でアメリカのハーバード大学、ホートン図書館に何度も行かれ、そこに保管されている史料をたくさん収集して持ち帰って下さったのです。それらを参考にさせて頂けたのは本当に有り難いことでした。とは言え、膨大な量の史料ですのでどこから手をつけて良いのやら茫然となってしまいましたが、エリオット先生が片っ端から目を通し、特に興味深いものをピックアップして下さいました。私も必死でそれらに目を通しましたが、今まで知らなかった事が色々あって、びっくりさせられ通しでした。限られたスペースにどれを展示するか…エリオット先生と何度も話し合いながら厳選致しました。史料室の職員の方々にも、細かい事項の確認など色々なことでお世話になりながら準備を進めました。その結果が今、ジェームズ館1階の史料室に展示されています。ぜひご覧ください。

真珠湾攻撃を目撃したクラップ先生

その中から今朝は、フランセス・B・クラップ先生(1887~1977)のことについてお話ししたいと思います。クラップ先生は、アメリカン・ボード派遣の音楽専門の宣教師として1918年に同志社女子部に着任し、1949年の女子大学発足とともに女子大教授となられた方です。このクラップ先生が、非常に興味深い史料を残して下さっています。

1939年から始まった第二次世界大戦の戦況が深刻化して行く中、1941年、クラップ先生はアメリカン・ボードの賜暇により休暇を与えられ、日本を離れ、ハワイのホノルルに住んでおられました。そして12月7日の朝、奇しくも真珠湾攻撃を目撃したのです。これは太平洋戦争の始まりとなる大事件でした。クラップ先生は、一部始終をアメリカン・ボードに報告しました。彼女の手紙を、ニュース編集者がまとめたものが今、史料室に展示されています。その記録によれば、クラップ先生は、最初は実戦さながらの迫力ある演習だと思っておられたようです。12月7日は日曜日でしたので、先生は通常通り仲間と一緒にバイブル・クラスを開いていました。しかし町の騒ぎが尋常ではないことに気付き、外に出て真珠湾の惨状を目にし、驚愕したのでした。灯火管制が敷かれ、十分に眠ることもできぬ恐怖の夜を過ごしながらも、クラップ先生やその仲間は、昼間は負傷者の救援に奔走し、事件が一段落した後は、苦境に立たされたハワイ在住の日本人たちを援助する仕事に携わりました。クラップ先生の心にあったのは、アメリカと日本の両国に対する深い愛情であり、その板挟みで随分苦悩されたようです。しかし、戦争が終わって世界が平和になり、再び自分が日本に戻って働ける日が来る…という希望を捨てることはありませんでした。

稔りの風景

1945年、9月2日、太平洋戦争は終わりました。翌1946年、クラップ先生は、バンクーバーから軍用の輸送船に乗り、ハードな船旅をものともせず日本に向かいました。アメリカン・ボードへの報告の手紙によると、クラップ先生が横浜に到着したのは10月15日。そこからすぐ東京に入って3日間滞在した後、夜行列車で京都へ向かった、とあります。戦争で破壊された東京の有り様を目にしたことは、クラップ先生にとって大変なショックでした。長旅の疲れもあって心身ともに消耗し、気力が全く湧かないまま夜汽車に揺られていたのですが、明け方に列車が米原付近を通過する際、窓から見た稔りの風景の美しさに感動し、気持ちを立て直すことができたことを詳細に綴っています。彼女の文章(和訳)を引用してみましょう。

東京に3日滞在したのち…夜汽車で…京都に向かいました。長旅の疲れで気力が衰えていたのですが、夜が明ける頃米原の近くで目覚めたとき、京都に戻れるのだと言う感激がこみ上げ力が湧いてきました。ありがたいことに今年は豊作で、青い山々に囲まれ、美しい松の木々に縁取られた田圃には、稔った黄金の稲穂が一面に首を垂れて朝日に照らされていました。それはまるで「約束の地」のように思えました。東京で破壊の跡を見て哀しい思いをしてきただけにこの光景には本当に大きな喜びを感じました。

去年は主に夏休み中にエリオット先生と二人で展示史料の選別をしていたのですが、クラップ先生のこの記述を読んだのは 9月に入ってからのことでした。実はその少し前の8月末に、私は偶然ですが、滋賀県の湖東の美しい田園風景を見る機会に恵まれました。これもまた、学校の仕事がらみのご縁です。

「近江ガチャコン」に乗って

私はキャリアサポート委員でもあり、夏休みの間に、インターンシップでお世話になっている東近江市の市役所を訪問したのです。東近江市に行くにはまず京都駅からJRに乗って近江八幡で下車し、そこから近江鉄道に乗り換えます。「近江ガチャコン」というニックネームをもつこの可愛い電車に15分ほど揺られて5つ目の終点の駅で降りるのです。猛暑が一段落した後の、良く晴れてカラッとしたお天気の日でした。近江ガチャコンの車窓から眺める長閑な夏の田園風景は最高に綺麗でした。また市役所では係の方に本当に親切にして頂き、心温まる一時を過ごさせて頂いて、東近江市への出張は、ほのぼのとした良い思い出になりました。ですので、クラップ先生の文章を読んだ瞬間、 8月末の東近江市への楽しい小旅行と、その際に近江ガチャコンの車窓から見た美しい風景が頭に浮かんだのです。時期的にまだ稲が稔る時期ではありませんでしたし、場所も米原ではありませんでした。でもあの八日市付近の美しい田園風景から、70年前の10月半ばにクラップ先生が目にされた米原付近の農村風景が容易に想像できる気がしました。今見ても感動する眺めです。東京の荒廃ぶりを見て悲しみに打ちのめされていたクラップ先生にとって、長閑な田園風景はどれほど美しく、心を癒すものであったかと思います。

夜が明けて行くときの空の青さ、大気の清々しさ、静けさは本当に魅力的です。朝早く起きて窓の外を見やる時は誰もが、新たな一日が始まる喜びや、仄かな期待に胸が弾むのではないでしょうか。クラップ先生の場合は、それにプラスして秋の稔りの風景が目の前に広がっていたのです。大地を耕し、その恵みを感謝して収穫し、日々の糧として暮らす…というのは人間の根源的なライフ・スタイルです。稔った稲穂が朝日に照って金色に耀いている風景は、正に平和と豊かさの象徴でもあると思います。車窓から米原近郊の景色を見ながらクラップ先生は、救われた気がしたに違いありません。悲惨な戦争が終わって平和な日々が戻って来たのだということが実感でき、その喜びや安堵がクラップ先生を力づけたのだと思います。そして京都に戻ったら、デントン先生やヒバード先生と一緒に働こうという意欲が湧いてきたのだと思います。

さいごに

クラップ先生は有名な方ですので、お名前は存じ上げておりました。しかし私が女子大の学生だった時、既に先生は帰米されており、お姿を拝見することもありませんでしたし、学科も違いますので正直、そんなに親しみを覚える存在ではなかったのです。しかしこの度、不思議なご縁で、多くの方々に助けて頂き、クラップ先生のことを少し詳しく知る機会を与えられ、そのおかげで女子大の過去の歴史の一コマもくっきりと私の心の中に刻まれましたのは本当に嬉しいことでした。また米原という土地に関しても同じことが言えるのです。今までは、米原と言うのは、名古屋や東京へゆく際に新幹線でさーっと通り過ぎて行くだけの場所でした。でもクラップ先生の残された手紙の御蔭で、今は特別な地名となりました。いつか、稲の稔る頃に、新幹線ではなくもう少しのんびりと走る在来線の電車に乗って米原に行ってみたい、そしてクラップ先生を大いに元気づけた美しい田園風景を、この目で眺めてみたいと思っております。

140年を語りつぐ