与える幸い

生田 香緒里(卒業生・ 同志社女子中学校高等学校 聖書科教諭)

同志社女子部のリーダーシップ

この同志社女子部の140年の歩みの中には、様々な場所で活躍した多くの先生方・先輩方がおられます。今も、その伝統は受け継がれ、活躍している卒業生も多くいます。私が現役の学生の頃は、共学の学校だと、女性がリーダーシップをとって活躍する機会はなかなかありませんでした。今は共学でも女性もリーダーシップをとって活躍しているかもしれませんが、女子だけの学校ならではの良い面というのは多くあると思います。英語英文学科のシェイクスピアプロダクションなどが良い例だと思いますが、それぞれの役割すべて女子学生が担っています。表に立つ者、裏で支える者がお互い補い合いながら、プロジェクトを作り上げ、進めていくという働きが出来ます。私はこの同志社女子大学の日本語日本文学科出身ですが、フレッシュマンキャンプのリーダーにあこがれ、私自身もキャンプリーダーとしてお手伝いする機会を与えていていただき、多くの出会いと学びを得ることが出来ました。そういう意味では、いろんな活躍の機会があり、生きていくうえでの可能性が広がっていくのではないかと思います。

およそ100年前に活躍した卒業生とその事業

今日は、同志社女子部を卒業し、社会福祉の分野で活躍された園部マキさんと言う方を紹介したいと思います。園部さんは宮崎出身で、同郷の石井十次に触発され、はるばる京都にやってきて同志社女学校で学びます。在学中に宣教師デイヴィスから洗礼を受けクリスチャンとして過ごし、1905年に優秀な成績で卒業しました。その後、学校からの推薦を受け、アメリカに留学して看護師と助産師資格を取得します。さらにアメリカ各地の社会事業も見学し1909年に帰国しました。それから、同志社病院に勤務していましたが、西陣の自宅で看護師養成のための看護塾を開きます。不景気だったおりに、困窮した5人の幼い子どもと病気の母親をお世話したことをきっかけに、1914年に保育園事業を始めました。その信愛保育園は、京都市で初めての保育園です。園部さんは、宣教師の協力を得ながらテーブルクロスなどを製作してその製作品を販売したり、英語教師で得た収入をつぎ込んだりして苦労して経営のやりくりをします。再びアメリカに渡り、社会事業施設の視察をしたり、募金活動も行ったそうです。当時は、福祉法の整備や財政面の制度などは何もありませんでした。でも、キリスト教の精神を基盤とした、あたたかい家庭のような保育を目指して始めた保育園は多くの協力者の支援を得て、新しい木造園舎を建設し、当時では珍しいサンルームなど乳児室が増築されました。第一次世界大戦後の経済恐慌によって物価は高騰します。三度の食事も出来ない家庭が多くありましたが、保育園では、創立当初から完全給食を実施していました。1934年には、母子心中が新聞の紙面を賑わした事をきっかけに、希望寮と言う名の母子寮を創設し、乳児を持つ母親を保護しました。生活苦のために赤ちゃんをおんぶして疎水に飛び込んだ母子が、初めての入寮者だったそうです。

太平洋戦争が激しくなると、近隣の保育園や幼稚園、学校は疎開を始めました。母子寮は強制疎開に遭って寮の建物のほとんどを失ったのですが、保育園はこの地に残って、疎開のできない子ども達、母子家庭や戦争犠牲者の子ども達とともに1日も休園せずに保育を続けました。その園部さんの働きが認められ、厚生大臣から社会事業功労賞と藍綬褒章を受けました。園部さんが亡くなった後も、その志は受け継がれています。戦後の復興とともに働く母親が増えたことにより、乳児保育と学童保育の要望が強まったことを受け、新しい乳児室を増築し(1967年)、母子寮を閉鎖した跡(1971年)に、学童保育所「信愛こどもの家」が開設され、今に至っています。

思いがけないところでつながり、助けられている

6年ほど前まで、園部マキさんと彼女が成し遂げた働きについて全く知りませんでした。実は、私の息子がこの信愛保育園でのびのびと、生活していくうえで大切なことを学び成長させていただきました。保育園で子どもはいろんなことが出来るようになりました。いつのまにかオムツがはずれ、トイレも自分で出来るようになり、と保育園任せでしたが、安心して子どもを預けて働くことが出来ました。今は学童保育所のほうでお世話になっています。働く女性・母親にとって、保育園や学童保育所はなくてはならないものです。もし、保育園や学童保育所がなければ、特に核家族化である現代、子どもを持つ母親が仕事をするという事はかなり困難なことだと思います。100年ほど前の時代から保育園があったということは、当時の母親たちにとっても、大きな助けになったことでしょう。

このように、園部マキさんは子どもと母親にとって、何が必要かを知って、行動に移し多くの母子を助けてこられました。聖書の中にある、善いサマリア人のように、イエスのように愛をもって多くの人に接しておられたのだろうと思います。これらのことは、園部さん 1人の力では無理だったことでしょう。でも、その思いや働きを知って、支援した人はきっと多くいたはずです。そのような多くの人の手によって、母子が安心していられる場所が提供されていったのです。

同女パワーをもらって、それを他の人につなげる(与える)

この同志社女子部につながる者は、必要なこと・大切なことを知り、それを実行する力を持っています。卒業生で活躍されている人に会うと、そのパワーに圧倒されてしまうのですが、それと同時にそのパワーをもらっているように思うのです。そして、そのパワーをまた、別の人に与えていける、 そんな人生を歩んでいけたらきっと神様も喜んでくれるだろうなあと思うのです。どうぞみなさんも、同女パワーをもらって、豊かな人生を送っていってください。

140年を語りつぐ