新島襄・八重夫妻-先駆的だった二人-
森田 潤司(学長・生活科学部教授)
京都で日本人最初のキリスト教式結婚式
今日は「130年を語り継ぐ」ということで、新島襄・八重夫妻のことをお話します。
「日本最初の新婚旅行」をしたカップルは坂本龍馬とおりょうであるとされています。
1866(慶応2)年、龍馬がおりょうを伴って京都を発ち鹿児島の霧島を訪れたことは有名です。それでは近代日本人で最初のキリスト教式結婚式を挙げたカップルは誰と誰なのでしょうか。少なくとも、京都で、日本人最初のキリスト教式結婚式を挙げたカップルは、新島襄・八重夫妻だそうです。二人は1876(明治9)年正月3日に宣教師デイヴィスの司式で結婚式を挙げています。龍馬・おりょうカップルの新婚旅行から10年後のことです。新島襄・八重夫妻はいろいろな面で先駆的だった二人です。
新島の進歩的女性観
新島はアメリカ留学のなかで進歩的女性観をいち早く身につけた日本人でした。アメリカから帰国後、父あての手紙でも、どんな妻がよいかについて、「私は決して顔の美しさにこだわりません。ただ心が良くて学問のある者を望んでいます。日本の〔旧式の〕女性のような人とは生涯を共にする気が全く起こりません。」(『現代語で読む新島襄』)と述べています。また、京都府知事の槇村正直から「あなたは妻君を日本人から迎えるのか、外国人から迎えるのか」と聞かれて、「外国人は生活の程度が違うから、やはり日本夫人をめとりたいと思います。しかし亭主が、東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」と答えています(『新島八重子回想録』)。当時としては先駆的でユニークな考えですね。その答えを聞いた槇村は「それならちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬氏の妹で、今女紅場に奉職している女は、度々私のところへ来るが、その都度、学校の事について、いろいろむつかしい問題を出して、私を困らせている。どうだ、この娘と結婚しないか、仲人は私がしてあげよう」と言ったそうです。この女性が後に新島と結婚する八重です。
会津戊辰戦争と八重
八重は会津出身で新島とともに同志社をつくった山本覚馬の妹で、会津鶴ヶ丘城を拠点に戊辰戦争にも従軍した人です。1868(慶応4)年の戊辰戦争では、西軍の会津への攻撃はすさまじいものでした。会津藩もはげしく抵抗。有名な白虎隊の奮戦もこの時のことです。先日にテレビで「白虎隊」のドラマをやっていましたが、あの戦争です。山本覚馬も八重も登場していましたね。このとき、八重は、鳥羽伏見の戦いで戦死した弟の遺品を身に纏(まと)い、黒髪を断って男装し、西洋式元込連発銃を肩に、大小を腰に帯びて、入城し、銃撃戦に参加したといいます。八重の幼い日に父をして「この娘が男であったなら」といわしめた人らしい行動でした。「この娘が男であったなら」とは、女性に失礼な話ですね。会津での戦いでは武器を取って戦った婦女も多く、八重だけが特殊な例ではありませんが、結局、八重はこの戦いで父を失い、夫とも別れて、操銃を教えた白虎隊の少年たちさえも失ってしまいます。生き残った八重は、母と姪を伴って、祖父の奉公人の家に世話になりながら、農作業を手伝い、村の子供たちに読み書きを教えるなどして、まさに臥薪嘗胆の日々を3年間過ごしたとのことです。
新島と八重の出会い
1871(明治4)年になり、八重たちは京都府顧問となっていた兄山本覚馬を頼って京都にやってきます。翌年には、八重は京都女紅場新英学校(後の府立第一女子高、現在の鴨沂高校)の舎監兼教導試補になり、女子教育に携わります。
新島と八重との出会いは、それから3年ほど経った1875(明治8)年4月のことです。新島が万国博覧会見物のために京都にやって来て、後に知事となった槇村正直京都府大参事や八重のお兄さんの山本覚馬らと学校設立について話し合っています。この時、新島は八重が働いていた女紅場の女子教育にも関心を持ったようで、女紅場を参観しています(『新島八重子回想録』)。
新島は、京都に学校をつくることになり、8月、山本覚馬と連名で「私塾開業願」を京都府に出願、9月4日認可されます。いよいよ同志社創立の準備が整ったのです。
新島と八重の結婚
この間新島と八重の結婚話も進み、二人は1875(明治8)年10月15日に、槇村の仲人で婚約します。ところが八重は1ヶ月後の11月18日に京都女紅場を解雇されてしまいます。新島の手紙から、どうも八重が学校でキリスト教の話をしたことを槇村が警戒した様子が伺えます(『現代語で読む新島襄』)。それでも、八重は、少しも残念がらず、「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がとれるわ」といっていたそうで(『新島襄の手紙』)、年が明けた1876(明治9)年正月2日に、J.D.デイヴィス宣教師から、京都で最初のプロテスタントとしての洗礼を受けています。キリスト教が解禁になってまだ数年、キリシタン迫害の気風が全国に残っていた頃ですから、洗礼をうけるには相当の覚悟があったことでしょう。翌3日に新島襄と八重はデイヴィス宣教師の司式で結婚式を挙げます。これも京都で日本人最初のキリスト教式結婚式でした。襄は数えで33歳、八重30歳でした。
女子教育の開始
八重は結婚した翌月から自宅でドーン宣教師の夫人とともに女子教育を始めますが、残念ながらこれは長く続かなかったようです。4月になって新島やデイヴィスの要請を受けて女性宣教師スタークウェザーが来日し、京都御苑内にあった旧柳原邸のデイヴィス宅で女子塾を開始、10月には正式に授業を始めました。われわれの同志社女子大学のルーツです。集まった生徒は12名で貧しい生徒も多かったようです。八重もこの女子塾での教育に加わっていますが、アメリカ人宣教師達とのトラブルがいろいろあったようです。八重は自立したクリスチャンとはいえ、もと武士の娘ですから、それなりの考えはあったでしょう。一方、アメリカ人宣教師たとえばスタークェザーは「日本人を教育するには、自ら日本人にならねばならぬ」といって、日本語を学び日本料理を食し日本の部屋に座り、また貝原益軒の『女大学』を読み、鳩翁道話に耳を傾けるなど非常に日本にとけ込む努力をしていた方でしたが(徳富蘇峰著『日本精神と新島精神』)、両者の間のトラブルは異文化摩擦としてやむを得ないものであったのかもしれません。
クリスチャンファミリー
新島夫妻が暮らした家は今も寺町丸太町上ルにあります。和洋折衷の見事な家です。日を定めて公開されているので是非見てください。京都最初の洋式トイレやセントラルヒーティングは見所です。新島は家庭では夫人を「八重さん」と呼び、八重からは「襄」と呼ばれたそうです。そして新島は家事を手伝い、八重は夫婦対等の振る舞いをしていたそうです。新島と八重が男女平等のクリスチャンのファミリーを作ろうとしていた様子が伺える話ですが、洋装の八重が人力車に新島と同乗するなどの行動は、当時の学生たちはじめ世間の目には奇異に映ったようで、学生の一人、徳富蘇峰は後年次のように書いています。「それと今から考ふれば、如何にも子供らしき事であるが、新島先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、所謂る鵺(ぬえ)の如き形をなしてをり、且つ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りに馴れ々しき事をして、これも亦た癪にさはった」(『蘇峰自伝』)。
新島襄・八重夫妻は先駆的過ぎたのでしょう。周囲の人々でよく言う人は少なく、冷たい目で見られたようですが、二人は泰然自若としていました。新島は八重を思い、八重も大学設立と布教活動のため東奔西走していた新島を支えています。新島にとって何事にも自立した八重は、理想の女性であったのでしょう。なにより二人は支え合っていく必要もありました。会津出身の八重は京都では敗軍の人でありましたし、新島も京都に縁故のない洋行帰りでした。さらにクリスチャンであることからの迫害もあったでしょうから、二人の結びつきは強いものであったに違いありません。
新島から、八重あての手紙がたくさん残っています。明治初期の人でこんなに妻宛の手紙を残している人も珍しいでしょう。
八重によると、新島は死ぬまで祈りの人であったそうです。八重は「襄の祈りの言葉によって、何時も私は励まされてきました」と言っています。二人がともに祈るときは日本語だったそうですが、一人の時は新島は英語で祈っていたそうです。そして祈りに熱がこもるとき、しばしば「プリーズ・マイ同志社」の声を聞いたそうです(『新島八重子回想録』)。
同志社の発展に努めた八重
新島は大学設立運動の半ばに病で亡くなりますが、八重は新島の死後もその遺志を継ぎ同志社の発展に努め、自らも作法教授となり茶道を教えるなど教育に関わっていきます。そして聖書を片時も離さなかったといわれています。また、日赤篤志家看護婦人会に加わり、日清・日露の両戦争で救護活動を行うとともに、後進の指導にも当たっています(『同志社時報』、No.88(新島襄 永眠100周年記念増刊号))。きっと、会津での戦いで傷ついた人たちのことを思い出しての救護活動だったのでしょう。
1932(昭和7)年6月14日、八重逝去。享年88歳でした。江戸・明治・大正・昭和と乱世激動の時代を生き、最後には「新島のおばあちゃん」と慕われた人生でした。葬儀は同志社葬として営まれました。墓銘は、八重の遺言通りに、蘇峰が書しています(『蘇峰自伝』)。新島と八重の二人は、いま若王子山の同志社墓地に仲良く眠っています。
同志社ではこれまで八重の評判はあまり良くないようですが、近代日本を生き抜いた、自立心に富んだ女性として、また、新島を支えた女性として、さらには早くから女子教育に関与した女性として、もっと評価されてもよいのではないでしょうか。
感謝する日々
新島襄・八重夫妻は時代に先駆けた二人でした。そのために誤解もされました。しかしながら、二人は、先ほど読んでいただいた聖書のことば、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」にあるように、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝したことでしょう。私たちは、二人の祈りの上に、今の同志社、今の同志社女子大学、今の私たちがあることを忘れないようにしたいものです。そして、私たちも、二人のように、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する日々を送りたいものです。