今こそ新島精神を

大日 常男(前栄光会会長・山科精器株式会社代表取締役社長)

ただ今、ご紹介を賜りました、前年度栄光会会長の大日常男でございます。

本日はこのような礼拝の場にて、奨励を語らせて頂く機会をお与え戴きまして心から感謝申しあげます。又130年目の節目に語ることが出来るのを大変名誉と感じております。

私は1958(昭33)年4月同志社中学に入学、1961年同志社高校、1964年同志社大学商学部入学と所謂純粋な同志社ボーイであります。当時私共の小学校(中立売通りに面しているから中立小学校)では有名中学へ進学を希望する生徒の目指す学校は、教育大学附属中学、洛星中学、同志社中学、立命館中学の4中学校が目標でした。もし洛星中学に入学していれば、京大や東大の世界にいた事だろうと思っています。ではなぜ中学から同志社を選んだかと申しますと、両親とも同志社出身で、父親は同志社高商卒、母親は同志社女学校卒と同志社一家で生まれ育ちました。現在私はこのことを大変誇りに思っています。家には新島襄の写真が額縁入りで飾ってあり、物心付いた時から新島襄の顔をインプットしていたということです。

さて本日の奨励題として「今こそ新島精神を」と掲げました。これは『現代語で読む新島襄』ならびに『新島襄の手紙』から引用しつつ、新島襄の考えに、経営の現場を見ている私が感銘を受けた3つの視点を本日ここに掲げたいと思います。

第一に、新島襄の建学の精神リベラルアーツ教育であります。リベラルアーツとは:徳性を磨き、品性を高尚にし、ただ技術や才能のある人物を育成するだけでない全人教育。語源はギリシャ時代までさかのぼり、自由人として生きる為の諸技術を教える事を言い、非奴隷である事を意味します。自由を追求する事が非常に重要であるとの考えを実践する学校教育であると、私は理解いたしました。

新島襄は「良心を手腕に運用する人物」を養成する学校。
所謂「良心を全身に充満したる丈夫の起こり来たらん事を」期待しうる教育の必要性を、あの明治初期の混乱した世の中で一番必要と新島は考えたのです。

この新島の良心教育と欧米のリベラルアーツ教育とは、新島は同じ目的を指したものととらえたと私は考えております。ちなみにこの「良心碑」の名文は1889年新島襄が学生横田安止(やすただ)への手紙の一文ですが、この中に正に現在でも通用する下りが有ります。

「国家のためと称して私欲を満たす輩がいる、先憂後楽の人材が乏しいのを嘆かずにおれようか、国家の方針が定まらないため進歩がない、真の英雄が生まれなければこの国はどうなるのだろうか」
と世の乱れを嘆いております。まさに115年後の現在の我が国の政治状況も全く同じではありませんか。
これは本日の私・経営者としての視点の一つ目であります。我々経営の現場に於いても全く同じ事が指摘できるのです。私の会社の経営理念もメーカ製造業ですので「技術尊重」をうたってはおりますが、その前に私も含め社員に「人間性を高めること」を求めています。良心を手腕に運用する事、会社と云う物は経営者と社員の人間性が良くなければ結果はかならず良いものには成り得ないことを経営の根幹と考えております。このことは現代も後を絶つことのない政治家の不祥事は言うに及ばず、企業での不祥事は枚挙に遑が有りません。あのシンドラーエレベータでの事故の後に取った経営者と幹部の対応。また現代社会にはびこる、金が儲かるなら何をやっても良いといった風潮が蔓延している事。あのライブドアのホリエモンのとった行動は、会社は世間をごまかしても良いといった考え方。これは許す訳にはまいりません。
「良心のかけらも無いのか」とはよく言ったものです。

2番目に新島精神の真骨頂、反骨精神と言いますか自主性、自律心、独立心を持った生き方を尊ぶ事。

新島曰く「わが校の門をくぐりたる者は、政治家になるもよし、宗教家になるもよし、実業家になるもよし、教育家になるもよし、文学家になるもよし。かつ少々角あるも可。奇骨あるも可。ただかの優柔不断にして案逸をむさぼり、いやしくも姑息の計をなすがごとき軟骨漢にはけっしてならぬこと。これ予の切に望み、ひとえに願うところなり」と。

逆に好ましいのは『(テキトウフキ)』(『現代語で読む新島襄』P.259ご参照)の学生である。常軌では律しがたいほど独立心と才能あふれる青年である。と新島はこの言葉を遺言にのこしたのであります。

これは私の本日の2つ目の視点であります。この自由闊達な同志社の良き校風は、この新島精神から来ている事は皆さんもご承知の事と私はおもっております。これは我々の企業にも大いにあてはまります。優柔不断な軟骨漢な社員は会社にとりましても余りよい結果を残さないのであります。また自由闊達な社風は素晴らしい社員の発想を生み、そこから新製品が生まれて来るものであります。我々経営者の大きな仕事の一つが、どのような社風を醸し出す事が出来るかに掛かっています。その点を私はこの自由闊達な新島精神を大切なものとし、日々会社に於いて気を配っているところであります。

本日の最後は、3番目として新島の女性にたいする見方、期待感はどのようなものであったかであります。新島は婚約者山本八重の人柄についてハーディー夫人にこの様に手紙に書いています。

「彼女はいくぶん目の不自由な兄(山本覚馬)に似ています。あることをなすのが自分の努めだといったん決心すると、もう誰をも恐れません。彼女は、自分の勤めていた(彼女は京都府立女学校(女紅場)に勤めていた)女学校に補助金をもらうためにはこれまでも何度も知事に直接陳情に行きますが、女学校の幹部らは知事を恐れてそのような事を言えないでいました。彼女はキリスト教を信じるようになってから学校でもしばしば神の真理を語っており、さらに最近クリスチャンの男性(新島襄)と婚約した事が、知事の恐れをあおったのでしょう。彼女はまさに突然、解雇されたのですが、少しも残念がってはおりません。先日彼女は「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がもっととれるわ」と言っていました。」

このように新島の婚約者山本八重に対する人物評がほほえましく書かれ、彼の女性像に対する思いが随所に現れていると思います。女性はこうあらねばとの考えがにじみ出ています。また新島が死去する一ヶ月前に募金運動に奔走している時。東京にて協賛音楽会を開催しその収益を新島に捧げた女性・佐々城豊寿にお礼と共にこのように言っております。

「女性の権利を拡張することにいっそう力を尽くされたい。そのためにまず、女生徒に人権を重んじることと慷慨心を起こさせることを教えてほしい。」とそして彼女たちに「あなた達は断然、世の改革者、いや、改良者となられよ」と激励したと書物は伝えています。

これは新島が女子教育に情熱を捧げた神髄ではないでしょうか。私たち会社経営に於いても如何に女性が活躍して頂くことが現代経営の要諦であります。女性のリーダーシップ性は大いに期待していくべきものと考え、経営をいたしております。がしかし現代社会において女性に対する不平等は未だに存在しているのではないでしょうか。これは本日、私が一番訴えたかった視点でございます。同志社女子大学生に対する新島の期待する処はこれではないでしょうか。

慷慨心(社会の不義や不正を憤って憂い嘆くこと)を持った同志社女子大学生を多く輩出される事を願っておられるのではないでしょうか。この新島精神を自信と誇りを持って堂々と生きていく同志社女子大学出身の女性が、この社会を変える力となられる事を、本日ご参集の皆さんに期待しつつ私たちも応援をがんばって参りたいとおもいます。

最後に新島の手紙の随所に現れています、最大の新島精神。宗教と密接にした教育を行うと1885年チャペルの定礎式での式辞に明確にのべています。

「ここに礼拝堂の定礎式を行い神に祈りを捧げるにあたって、チャペル建設の事情についていささか所見を述べたいと思う。そもそも教育は宗教と密接に関係するものであって、教育の基本は宗教にあるというべきである。~中略~それゆえわが同志社の教育もまことにキリスト教と密接な関係を有するものである。こうして今日この定礎式を行い、この建物を神に捧げるのは、行く末大いに喜ぶべきことであると思う。なぜならこのチャペルはわが同志社の基礎となり精神となるものだからである。」

キリスト教は同志社教育に欠かせないものであると。

お祈りをいたします(口語訳マタイによる福音書 6章9節~13節)

天にいますわれらの父よ。
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり。
地にも行われますように。
私たちの日ごとの食物を。
きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように。
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで。
悪しき者からお救いください。

                      アーメン

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