W.S.クラーク、イサベラ・バード、ヘルマン・ヘッセ

宮澤 正典(名誉教授)

この3人はどういう人か

ウイリアム・S・クラーク(1826-1886)は北海道開拓使に招聘されて1876年に来日し、札幌農学校でキリスト教信仰に基づく訓育を通して、新渡戸稲造(京大教授、一高校長、東京女子大学初代学長、国際連盟事務局長、『武士道』の著者)、内村鑑三(無教会主義キリスト教創始者、『余は如何にして基督信徒となりし乎』の著者)ほかの生徒たちに大きな影響を与えましたが、何よりも農学校を去るに当っての「少年よ、大志を抱け」の言葉でよく知られています。北海道大学の記念館にはその時の写真が展示してあります。

イサベラ・バード(1831-1904)はイギリス人旅行家で1878年5月に来日し、まだ鉄道の敷かれていない東北、北海道を約3ヶ月かけて馬で旅行して『日本奥地紀行』(東洋文庫ほか)を、さらに12月まで新潟、伊勢、京都、奈良、大阪、神戸などを訪れて『日本紀行』(雄松堂出版)を書いています。これは元来1880年ロンドンで出版(Unbeaten Tracks in Japan)されベスト・セラーになりました。来日前にも後にもアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、マレー半島、インド、チベット、朝鮮、中国、ペルシア、モロッコなどにも旅行していて、世界的にはクラークよりも広く知られていると言ってよい。

ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は『郷愁』『車輪の下』『デミアン』『シッダルタ』などの作品でよく知られていますね。戦後初のノーベル文学賞、ゲーテ賞を受けています。第2次世界大戦中、スイスの新聞に「愛は憎しみより美しく/理解は怒りより高く/平和は戦争より高貴だ」と寄せるなど平和主義者としても知られていました。
さて、何の関連もなく、この3人をどうして挙げたのか。じつは新島襄と同志社に結びつけてみると、130年の歴史のごく初期において関連してくることを紹介してみようと思いました。

クラークと新島襄

まずクラークですが、彼は北海道を去って帰国の途次の1877年5月9日に同志社英学校を訪れて新島襄やD.W.ラーネッドらに会います。5月14日に神戸から札幌の佐藤昌介(のち北海道大学総長)への手紙で「私の最初の日本人学生の新島が創立したこの学校は65人の学生がおり、その多くが牧師(伝道師)になろうと志している」と書きました。新島はアーモスト大学J.H.シーリー学長夫妻に宛て「アーモスト農科大学長クラークが先日来校しenjoyしました。彼のキリスト教信仰に基づく働きを通して学生たちに大きな影響を及ぼしたことを、彼から聞いてほしい」(7月18日付)と手紙に書いています。新島はアーモスト大学の1年生秋学期にクラークから化学を教わっていました。アーモスト大学は彼が在学した1867年当時全学でも244人という規模でした。クラークがらみで言うと、札幌農学校1期生の大島正健は新島と深くかかわり、生涯新島に対する尊敬と感謝の念が強かったといいます。新島の没後一時同志社の教授でもありました。新渡戸は京大教授時代(1903-1906)、のちの同志社ハワイ寮となった建物に住み、M.F.デントンとの交際がありました。同志社理事にも就き(1918-1922)、彼が最後に来校したのは1933年5月31日、この栄光館ファウラー講堂で「日本の将来と同志社の使命」と題して講演をしていますが、それは日本の連盟脱退直後のことでした。内村のアーモスト大学留学は新島の紹介であり、その前に最初の結婚相手浅田タケは同志社女学校で学んだ人でした。

バードと同志社

次にイサベラ・バードが上洛したのは1878年10月です。彼女は初め2~3日ほど1人で宿屋に泊まるつもりだったが、到着してみるとO.H.ギューリック夫人が二条さん屋敷で世話になる段取りをしていて、ここで2週間楽しくすごさせてもらったと書いています。じつはそれが二条関白の地所に新築された同志社女学校の校舎でした。これは米国ニューイングランドの婦人たちの寄附金で建てられて、バードの入洛する前月の9月16日に授業を開始、1階が教室、集会室、食堂、来客用寝室、2階が外国人教師室、寄宿舎(寮)、最初の教師A.J.スタークウェザーもここに住み、新島八重の母山本佐久が舎監を勤めて、バードの世話をし、各所にも案内したといいます。バードは次のように書いています。「この建物が建っているのは公家の屋敷跡だ。屋敷構えは広々として、裏手は寺の境内に続き、たくさんの寺の美しい鐘の音が一日の時を奏でる。女学校の定員は50人だが、現在は18名に制限されている。その理由は女性の校長スタークウェザー女史がたった1人で切盛りしていて、アメリカからの援助は今後も期待できないと思われるからだ。スタークウェザー女史が最も気を遣っていることは、女生徒たちが日本の礼儀作法やしつけをきちんと守ることである」。また「女学校のすぐそばに京都カレッジ(同志社英学校)があるのだが、それは日本における伝道活動を語る上で最高に興味深いものである。今現在100人を超える青年が学んでいる。そのうち60人がキリスト教信者で40人から50人がキリスト教の牧師になるために勉強をしている」と。そのうえで当時の開設科目一覧まで紹介しています。

彼女は京都カレッジへ何回も出かけてJ.D.デイヴィスなどの授業(英語で講義、生徒も英語で応答)参観もして、「生徒の特徴として品行方正、礼儀正しさ、そして従順さそして厳しく長い学習に対する意欲を持ち・・・この熱心な青年たちが持ってくる難しい質問に、その場で答えなくてはならない教師に同情してしまう。青年たちの質問の多くは彼らが物事を深く考える人間であることを示している」と見ていました。そして10月29日には新島邸を訪問しました。じつはこれも新築で、同年9月7日に入居したばかり、前日には引越準備のために徳富蘇峰たちが手伝いに行っていました。バードは「新島夫妻の案内で夫妻の素敵な家でお茶をいただき」新島の洋服が似合い、八重は女学校で裁縫を教えていて和服で等から始まって調度や室内の様子を描写しています。新島から聞き出して経歴、入信の経緯などを詳しく記述し、最後に「新島氏はもとより紳士であり、もの静かで、寛大で礼儀正しい人である。彼は親切で、教養をよく極めたキリスト教徒であり、非常に愛国心の強い日本人だ」と評しています。同志社と新島襄についてかなりのページをさいていて、同志社女学校、英学校、新島夫妻を世界に知らせた最初の本ではないか。

この旅行記はアメリカでも読まれて、新島の旧知から読後感が寄せられました。例えばイエール大学長N.ポーターは「なかでもあなたを訪問した時の記述に最高の関心を寄せました」と。ワイルドローバー号船長夫人はハーディーへの手紙で「この本で新島の日本における活躍を知った」と書いていました。他方、ベルリン号船長夫人は、バードが夫について「宗教について全くの無知」(American Captain know nothing of religion)と書いたことに立腹したのに対して新島は釈明の手紙を書きました(1881年8月1日付)。
バードについて日本ではもっぱら『日本奥地紀行』で知られていますが、彼女の父は牧師、母は牧師の娘で、叔母やいとこには宣教師がいて、各地のキリスト教伝道を視察することに関心があり、日本におけるキリスト教の布教状況に関心を寄せ「同志社が日本における伝道活動の中で最高に興味深い特色である」と見たのでした。

ヘッセと新島襄

最後に新島とヘッセの出会いについてです。新島が2回目のヨーロッパ旅行中、1884年8月6日スイスのサンゴタール峠を登る途中に呼吸困難におちいり、ホテルに戻って遺書を書いたことは良く知られています。ルーツエルンで受診し、心臓弁膜に故障があることを注意されましたが、胸に膏薬をはったりして旅を続けました。チューリッヒを経てバーゼルではミッション・ハウスに滞在するようにと招待されていましたが、このハウスの館長がヘルマン・ヘッセの父ヨハンネス・ヘッセ牧師でした。時を経て第2次世界大戦後の1953年にヘッセの作品の翻訳者高橋健二がヘッセに会いました。高橋はヘッセの「母の日記に、日本の新島がバーゼルの伝道館に訪ねてきたことが記されている。それは同志社の創設者新島襄にちがいないと考え、それを確かめると、やはりそうだった」と書いています。ヘッセは次のように応じたといいます。「自分は7つぐらいだったが、よく覚えている。新島が自分の会った最初の日本人だ。自分の両親は新島をかわいがっていた。ああ70年後の今日、自分たちが新島の話をしているのを両親が知ったら!と言い、涙ぐまんばかりであった」と。

新島襄と会った3人を介して、こうした同志社の歴史の一面のあったことを知って創立130年という時に、その同志社で学ぶ「自分の今の在り方」を思う一助にしていただけたらと願います。

130年を語りつぐ