同志社とパイプオルガン
鴛淵 紹子(名誉教授)
同志社女子部は、今年創立130年を迎えていますが、その歴史の中の半分にパイプオルガンがかかわりを持っています。
デントン先生とパイプオルガン
同志社には設立当時より、多くの宣教師が教育活動に従事しておられますが、そのなかでもっとも有名な方が、M.F.デントン先生です。彼女は1888年、31歳で同志社女子部にこられました。そして、その生涯を女子部のためにささげられたのです。先生が50年以上も女子部のためにつくされたことに対し、彼女をおくりだした<太平洋婦人伝道会>が、彼女に何か記念品をあげようと提案した時、彼女は、同志社の女生徒のためにパイプオルガンをほしいと言われました。パイプオルガンは、ヨーロッパやアメリカの教会、学校には必ず備えられておりますが、当時日本には、わずか2台しかなかったのです。この申し入れを<太平洋婦人伝道会>は、受け入れてくれたのですが、じつはこの時期、日米間の関係はもはや最悪の状態であり、オルガンの部品が無事に日本にくるか、大きな疑問でした。日本にいた宣教師もほとんど帰国していましたし、その上、パイプオルガンをどのように設置するかを知っている技術者が、日本にはいませんでした。かろうじて、まだ日本に残っておられた東北学院の宣教師、ゾウグ博士がオルガンに造詣があり、同志社の施設課の人たちと協力してオルガンは無事、組み立てられました。お披露目は、1941年6月6日でした。同志社女子部創立65年の年。130年のまさに半分の時です。そしてそれは、太平洋戦争のはじまる約6ヶ月前のことでした。オルガン設置に先だち、デントン先生は、女子部卒業生の勝俣敏子さんをアメリカに派遣し、勉強をさせられました。そしてこのお披露目の日、なんとこの私が、演奏会を聴きに来ていたのです。小学校5年生の時です。というのは、私の母は同志社女子部の出身で、卒業後、課外のピアノの先生をしていたので、私を連れてきてくれたのです。栄光館満員の聴衆のなかで、奉献演奏が行われたのですが、生まれて初めて聴いた時は、本当に天にも昇る気持ちでした。どんなプログラムであったか何も覚えていませんが、いつかあの楽器を触ってみたいなという気持ちが芽生えたのは、たしかです。そして、このオルガンとのかかわりが、その後の私の一生を支配することになるのです。
栄光館のこと
栄光館ファウラーチャペルが建築されたのは、1932年のことです。そのころ京都にはコンサートホールはありません。ですから栄光館では、さまざまなイベントがこの場で開かれました。演奏家、宗教家が来日し、また同志社創立記念日前日のEVE音楽会には、同志社幼稚園児から大学生までが出演しました。オルガンが入ってからは、さっそく女子部の礼拝で、毎朝演奏されました。戦争がはじまっても、しばらくの間は、礼拝は栄光館でオルガンとともに行われたのですが、私が同志社高等女学校3年になった時には、敵国宗教の礼拝は禁止されるようになり、私たちも勤労動員に駆り出され、終戦まで途絶えることになりました。デントン先生は、すべての宣教師が帰国した後も特例でデントンハウスに軟禁状態で、とどまっておられました。
終戦
1945年8月15日、戦争が終わり、秋から授業が始まり、当然礼拝も復活しましたが、戦時中まったく手入れされなかったオルガンには、いろいろな故障が目立つようになりました。モーターが栄光館裏の半地下の場所にあったため、湿気に傷めつけられたこと、また今とは異なり、電線が布巻であったため、ねずみにかじられ、ショートすることが多く、肝心な時に音が出ないというような事故がしばしば起こりました。施設の人も原因が分からず、大困りでした。その頃、私は戦後再来日されたクラップ先生のご指導で、同志社教会の聖歌隊に入っており、オルガンの知識もないままに讃美歌や聖歌隊の伴奏を手伝っていました。
女子大学誕生
1949年、同志社女子大学が新設され、音楽専攻がうまれました。私は、第一期生として入学したのですが、音楽専攻には、オルガン実技はありませんでした。しかし、オルガンの魅力に取り付かれていた私は、見よう見まねで、オルガンの勉強をはじめ、専攻のピアノより、オルガンに熱中しました。そして大学卒業後、3年余り助手を務めた後、アメリカに留学、オルガンの実技、音楽史を学び、マスターを取って帰りましたが、栄光館のオルガンはますます傷みが激しくなっていました。その頃には、たびたび外国からオルガニストが来て演奏してくださったのですが、なにが起こるか分からずいつもはらはらしていました。
クライスオルガンのこと
1968年、私は今度はドイツ留学したのですが、その留学中に、音楽学科の中瀬古先生から、バッハの音楽演奏にふさわしい楽器を購入する話があるので、ボンのクライス社に行くよう、連絡が来ました。栄光館のものより小さいけれど、音楽学科の学生の授業のためのものです。すべての交渉が成立し、1972年夏には、頌啓館(今の頌美館)に来ることが決定したのに、なんと言うことでしょう。神戸まで来たオルガンが、艀だまりに停泊中に突風でひっくり返り、沈んでしまったのです。オルガンは一台ずつ規模が異なり、それにふさわしい部品が用意されているのですが、真夏の海水に浸った部品は、二度と使えません。完全に一からやり直しです。その上、悲しいことにこのオルガンの完成を待たず、中瀬古先生は天国に召されました。でも翌73年、クライスオルガンは無事、頌啓館に完成。この楽器は1986年、音楽学科の田辺キャンパス移転とともに解体、再組み立てをし、今は音楽学科の学生レッスン、その他授業に使われています。
カサヴァンオルガンの購入
さて栄光館は、戦中戦後ほとんど手入れされることなく、建築後30年あまりの歳月を経て、天井や床、椅子などの傷みが激しくなってきました。オルガンも修理する技術者がないまま、さまざまな故障が出てきました。1965年、同志社創立90周年に栄光館内部の大改装が行われることになりました。本当はオルガンも同時に修理したかったのですが、それだけの経済的余裕がありません。ですからとりあえず90周年には、内部改修だけが行われることになりました。この時、オルガンにほこりがかからないようにと囲いをしたのですが、なにぶん真夏のこと、それに乾燥剤を入れておくことなど考えられていなかったので、改修が終わった時には、オルガンは湿気のため、鍵盤、電気関係部分がすっかりだめになってしまいました。鳴らないパイプも続出、モーターの故障など次々に故障が目立ってきました。そこで1980年、現在栄光館の2階正面に新しい楽器を設置することが決まりました。1941年から慣れ親しんだオルガンの音色や響きが大きく変わらないこと、など卒業生からの注文もあり、今回はカナダのカサヴァン社の楽器に決まりました。今、皆さんが礼拝や式典で聴いておられるものがこの楽器です。
新島記念講堂にオルガンがはいった
1986年、同志社女子大学は田辺移転を行ないました。音楽学科は全員移転しましたので、小さいオルガンは持って行きましたが、新しい新島記念講堂には電気オルガンしかなく、当時のオルガン専攻の上級学生は、はるばる今出川までレッスンに通いました。新島講堂にオルガンを入れることは最初からの計画でしたが、いつもお金の問題でなかなか実現しません。でも、私はその頃ヨーロッパに行く機会には、必ずさまざまな国のオルガン会社を訪問し、同志社に本当に良い楽器を入れることを考えていました。1970年代に東京のNHKホールに大型のオルガンが設置されて以来、欧米のオルガン会社にとって日本は大事な市場になっていましたので、会社を訪問すると、どの会社でも社長自ら会社のすみずみまで見せてくださり、また自分たちの設置、あるいは修復した教会、ホールなどに案内しオルガンを見せてくださいます。田辺に購入したケルン社を初めて訪問した時、マダム ケルンがいきなり「今度私のところの楽器があなたの学校にはいるのですね」ととても喜ばれ、びっくりしました。その時のことは、マダムの思い違いでしたが、15年後、2001年に実現しました。ドイツ、フランスの両国の特徴を持つこの楽器は、今、田辺の地で多くの人々に喜ばれています。楽器を大切にし、礼拝や演奏会で素晴らしい演奏がいつも聴くことのできる同志社であり続けてほしいと願っています。