新島八重とパーミリー

清水 久美子(生活科学部教授・服飾文化史)

今朝は久しぶりに礼拝でお話しする機会を与えて頂きましたことを感謝申し上げます。「130年を語りつぐ」という大きいテーマの中で、今回は新島八重とハリエット・フランシス・パーミリーをとり上げ、二人の女性の生き方と働きについてご紹介したいと思います。

八重と会津戦争

新島八重は、武田信玄の軍師として有名な山本勘助を遠い祖先にもち、会津藩の砲術師範をつとめた山本権八の長女として江戸末期の1845(弘化2)年に誕生し、19歳で洋学者(川崎尚之助)と結婚しました。ところが23歳の時、徳川幕府に最後まで忠誠を尽くし、朝敵となった会津藩主松平容保に従って鶴ヶ城に30日間籠城し、官軍の猛烈な攻撃を受けることになりました。

この戦争では、白虎隊や娘子隊(じょうしたい)と呼ばれる年若い男女の決死隊を含め、全藩あげての総動員戦となりました。城の内外では、戦死者はもとより、一族郎党・老若男女を問わず、官軍に追い詰められて自ら命を絶つものが続出し、さながら地獄絵のような凄惨極まりない状況が繰り広げられました。

八重は鳥羽伏見の戦いで亡くなった弟三郎の形見の着物を着て、腰に大小の刀を指し、肩に洋式の銃を掛け、男装して鶴ヶ城に入りました。城では一日2000発の砲弾を浴びながら、鉄砲や大砲の指導、武器や食料の運搬、傷ついた兵士の看護を行いました。この戦で八重は九死に一生を得ましたが、父を亡くし、夫と別れ、藩主容保の降伏と開城を見届けて城を去り、1871(明治4)年、兄の山本覚馬を頼って、母親のさくと姪の峯と共に京都へ向かいました。

結婚と同志社女学校

京都にやって来た八重は、新英学校女紅場と呼ばれる日本最初の府立女学校(府立第一高等女学校、今の鴨泝高校)で寮の舎監兼教師をつとめ、英語と裁縫を教えました。やがて新島襄と出会い、京都で初めてキリスト教の洗礼を受けて、結婚しました。八重の第二の人生の幕が開いたのは、1876(明治9)年1月、30歳の時のことでした。

新婚当時の写真を見ると、八重はとても初々しく幸せそうで、恥じらいを秘めた優しい表情をしています。この頃作ったといわれる手芸作品は、布と紙を細く切って草花の模様にして台紙に貼りつけた、実に繊細で美しいものです。それは相当の緻密さと根気を要するもので、男勝りの女丈夫とか、大胆で果敢といったこれまでの八重のイメージとは全く別の一面を見るような気がします。

八重は新婚早々の2月に、自宅でドーン宣教師夫人と私塾の女学校を始めました。3人の生徒がいたのですが、自然消滅し、1877(明治10)年に正式に女紅場を開校し、程なく女学校に名称を変えました。翌年には寮の舎監として八重の母さくが住み込み、八重も寮の教育に関与するようになり、授業では英語のスペリングと小笠原流の作法を教えました。

しかし、その頃よりアメリカン・ボードから派遣された女性宣教師スタークウェザーとの間で教育方針をめぐる異文化摩擦が生じ、数年後にスタークウェザーは帰国してしまいました。一方、八重も新島襄が亡くなると、それまで生徒や外国女性宣教師と一緒に写っていた卒業写真から、その姿が見えなくなりました。

社会活動と晩年

夫が亡くなると、その翌年(1891年)に八重は日本赤十字社に加盟し、他にも京都婦人慈善会や婦人矯風会、愛国婦人会で社会活動に力を注ぎ、女学校とは距離を置くようになりました。若い看護婦を指導し、日清・日露戦争では篤志看護婦として広島や大阪の病院で傷病兵の看護に全力を尽くしました。

晩年は、茶道を嗜み、女学校の生徒に茶道を教え、茶会を催したりして、風雅な境地を楽しみました。また宗教や階層にとらわれず、幅広く人々と交流し、中でも建仁寺の黙雷和尚と親交を深めたことから、仏教へ改宗したとのデマが流れたほどでした。

1924(大正13)年に貞明皇后が女学校に行啓した際、79歳の八重は単独で拝謁が許され、皇后よりお言葉を賜る栄誉に浴しました。1926年、80歳の時には、同志社大学を訪れた救世軍の第二代大将ブース将軍を迎え、元気な姿を見せるなど、同志社を代表する大きな存在感を示しました。

その6年後の1932(昭和7)年、八重は米寿の祝いを受けた後、急性胆のう炎でこの世を去りました。新島襄と出会い、古い慣習にとらわれない新しい女性として夫を助け、後半は国を憂い、国に奉仕し、社会のために活動する人生でした。

パーミリーと同志社女学校

一方パーミリーは、八重より7歳下で、1852年にアメリカのオハイオ州に生まれ、1877年にアメリカン・ボードから同志社女学校に派遣されました。しかし京都に居住する許可が下りず、正式に女学校に着任したのは1880年、28才の時でした。

女学校では英語、英文学、体操、編み物を教えましたが、特にレース編みは彼女によって日本で初めて教えられたもので、タッチレースの編みかけや道具などが史料室に遺されています。当時大変珍しかった編み物の作品は、月謝の払えなかった貧しい生徒の学資にもなりました。

そのようなパーミリーも底冷えのする京都の寒さが身にこたえ、体調を崩すようになり、1882年に療養のため帰国することになりました。

地方における働き

9年後には再び来日し、津、前橋、松山、明石で教育・伝道活動を行いました。前橋の共愛女学校では、後に婦人運動家として国際的に活躍する山田恒をはじめ、女性運動のリーダーとなる多くの人材を育てました。

松山では松山女学校で教えると共に、劣悪な環境で伊予絣を織る工場で働く女子工員のために宿泊所(同情会館)を設立し、そこでも聖書と讃美歌を教えました。また八重と同じく日本赤十字社の篤志看護婦として、日露戦争で捕虜になったロシア人のために松山の病院で働き、看護婦の教育や禁酒運動にも力を注ぎました。

宣教師を引退すると再び京都に戻り、晩年は同志社の近くで、宮川経次牧師の家族と共に暮らしました。1924年、貞明皇后行啓の折には、72歳になったパーミリーもかけつけ、当日の記念写真には、多くの同窓生や79歳の八重と共にパーミリーも写っています。

パーミリーは八重が亡くなって1年後の1933(昭和8)年、宮川家の人々の手厚い看護を受けながら、病気のため80歳で亡くなりました。日本の気候があわず、リュウマチなどに苦しみながらも、最後はアメリカに帰ることなく、若王子山の新島夫妻の近くで永遠の眠りについています。

定められた時

このように新島八重とパーミリーは、生まれも育ちも、歩んだ道のりも異なっています。しかし大いなる御手に導かれ、新島襄によって同志社女学校で出会い、交わり、教え、支え、そして別れて、それぞれの定められた時を懸命に生き抜いてきました。そして晩年の平安があり、再び二人の出会いが訪れたのでした。

特に八重の場合、もし鶴ヶ城の開城が一日遅れていたら、もし薙刀を手に娘子隊に参加して戦っていたら、人生はそこで終わっていたかも知れません。天の定められた時を、じっと耐え忍び、待ち続けたからこそ、その後の新しい人生の扉が次々と開かれることになったのだと思います。

パーミリーもまた健康に不安を抱えながら、定められた時と場所を与えられ、日本人やロシア人のために誠実に働き、力を尽くしてきました。パーミリーが正式に同志社女学校に勤めたのはわずか2年間でしたが、先年宮川家からパーミリーの貴重な遺品が史料室に多数寄贈されました。ここにもパーミリーと同志社との深い不思議なご縁を感じずにはいられません。全ての出来事、全ての行為には定められた時があるのです。

 

本日は女学校の草創期に活躍した二人の女性の生き方の一端をお話させて頂きましたが、改めて同志社の礎(いしずえ)をつくった人々について、正しく学び、心に覚えて、次の世代に伝えてゆくこと、それが同志社の130年後を生きてゆく私たちの大切なつとめなのではないかと思っています。

130年を語りつぐ