新島体育の発見

秦 芳江(名誉教授)

私は長年、今出川で体育の教師をしておりました。この一番同志社らしいハイライトシーズンに奨励をする機会を与えてくださったことを、とてもうれしく思います。

母校の体育を託されて

さて私は、1943年に女子大学の前身の同志社女子専門学校に入学いたしまして、ちょうど敗戦の年、1945年に卒業いたしました。ですからこの学校の卒業生の中でも一番、典型的な戦中派です。私の63年程の同志社での生活は本当に波乱万丈でした。だから皆さん方がこんな平和な時代に、勉強できるのがどんなに幸せなことか、どうか痛感してください。さて、私は卒業するのと同時に「さあ学徒動員で何にも勉強してないからどうしよう」と思い、恩師の先生のところに相談に行きました。その先生は、「あなたは体も大きし、声も大きいから、これから学校に絶対必要となる体育を勉強してくれないか」と言いました。その頃の私達の体育は、スポーツはおろか今の同志社本部の地下にあった武器庫から小銃を担いで、匍匐前進という教練で御所を這いずり回っていました。ほとんど訓練・鍛錬の体育しか知りませんでしたので、「私にできるかしら?」と思いました。でもその頃の学生は尊敬する恩師から、何かを申し渡されると絶対にしなくてはいけないという使命感がありました。

さて皆さんこの学校に来て何か心を打たれる言葉を聞きましたか?私は、入学の時に、新島講堂の入り口の右側に掲げられた、歴代総長の肖像画の三番目におられる牧野虎次先生が言われた式辞が、私のその後の同志社生活を決めたようです。それは「あなたは、今日から同志社の学生になったのではなくて、新島門下生になったのだ。つまり、新島先生の女弟子になったのだ。」という言葉でした。それがなんだかうれしくて、その時から、私は新島先生に捕まってしまいました。私はお会いしたことはないですが、その当時は新島先生を知っている方がまだ何人か生きておられました。ひょっとすると新島先生からの言葉かもしれないと思い、自分は不適格だと思いながらも体育の勉強をしました。ところが、東京から勉学を終えて今出川に帰ってくると、狭い空地とボールが2、3個あるだけで何もありませんでした。「さあどうしよう。一体、同志社の体育はどうやればいいのだろう。」私はそこで、新島先生はどういう体育を考えていたのかなと思って、自分の研究テーマにしました。そうすると、すばらしいことを次々と発見しました。今まで誰も新島先生と体育を研究したことがなかったからです。

新島先生と大学体育

まず、私は女性ですから新島先生のボディーサイズが知りたかった。それで、新島先生のボディーサイズを知ることができました。それはアーモスト時代の本の表紙に新島先生のご自分の字で身長は5フィート5インチ半、体重は123ポンドと書いてありました(先生26才)。つまり身長は今で言う165センチ強、体重は55.8キロ。皆さんは「なんだ・・・」と思うでしょう。今の男の子達の平均身長は、そろそろ170センチになりそうですものね。だから、「なんだ、普通の人」と思うでしょうが、その当時の全国的な兵隊検査の日本人の身長がだいたい156センチでした。当時の男の子にしてみれば、「僕らの新島先生はすばらしい体格だ」と思ったに相違ありません。なぜそんなメモが書いてあったかというと、新島先生の勉学なさったアーモスト大学は世界で初めて大学に体育を取り入れた学校でした。新島先生は当時、世界中で初めて大学体育を学んだ73人の男子の1人です。そして、その体育は近代体育でした。近代体育というのは、科学的な測定によって成り立つ体育です。ですから、身長、体重、体力測定をやってから大学の体育が行われたのです。新島先生の体育の先生は後に全米体育学会の初代会長になったエドワード・ヒッチコックです。先生のなさった体育は、Physical Educationではなく、Physical Culture。運動だけではなく、その人の持っている声、態度、話し方、動作などを含めた学習でした。新島襄はいわゆる立派な紳士としての言語、態度、肉体の表現するすべてのことをトレーニングされてきたわけです。

先生と日本の学校体育創始とのかかわり

次に私が驚いたことは、新島襄がいなくては日本の体育は始まらなかったということです。明治期の新しい学校教育で文部省は何が一番分からなかったかというと、音楽と体育です。今まで日本にそういう教育はなかったからです。それで音楽はドイツ、体育はアメリカに外人教師の派遣を求めました。そこで当時の新島先生の親友の、田中不二麿という文部大臣が「新島君のところでは、体育をやっているから紹介してもらおう」ということで、アーモストは新島のような見事な青年を出した日本の学校に、本学で最もすばらしい卒業生を送らなければいけない。そういって送ってきたのが、ジョージ・アダムス・リーランドという外人教師でした。その人が、今の筑波大学、もとの東京教育大学高等師範体操科、その前の体操伝習所。いわゆる体育の先生を養成する学校の主任教授になったわけです。新島先生がいなかったら、日本の学校体育は始まらなかったということを知り、私はとてもうれしく思いました。

同志社体育の伝統

新島先生が同志社を始めてからなさった体育は体育の日常化、つまり日常生活の中で体育を行うことです。それから、よく歩くこと。どうして歩くのか。同志社の一番初めの運動は歩くこと。なぜかというと、当時のキリスト教伝道は歩くしかなかった。もちろん女子部の生徒達も、歩くことが奨励されました。運動や学校生活の行事を通じて友情を深めること、自由と自治の精神を培うこと。そんなことが新島先生の主眼になっておられたようです。私は不適格ながらも一生懸命、学内の体育に対する関心を興すように努力いたしました。

先ほど歌っていただいた「正しく清くあらまし」は昭和36年に始めて今出川に建った純正館のテーマソングです。また、女子大学としては東洋一の体育館である、京田辺の恵真館の正面には今日読んでいただいた、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(新改訳聖書)という聖句が掲げられてあります。これは私が尊敬する卒業生の先輩、井深八重さんに頼んで書いてもらいました。ですから、私達は新島先生の体育的伝統の下に学んでいる。どうぞ、そのつもりで体育嫌いな人も好きになってください。

130年を語りつぐ