同志社女子大学 寮の百年
坂本 清音(名誉教授)
歴史は繰りかえし思い起こすもの
同志社女子大学創立130年の年に、宗教部が、125周年のときのように、『130年を語りつぐ』というシリーズを企画してくださったことに先ず感謝いたします。何故なら、繰りかえし繰りかえし歴史を思い起こすことは、大変重要なことだからです。
1875年11月29日と1876年10月24日
例えば、皆さんは今年が女子大学創立130周年記念の年であることは、よく耳にしていらっしゃると思いますが、どの日を基準として130年というかは、ご存知でしょうか?
同志社全体の創立の日が11月29日であることは、学校が休みであり、その前にイヴ祭と呼ぶ学園祭があることからも、ご存知の方は多いでしょう。今から131年前の、1875年11月29日、新島の借家で同志社英学校は始まりました。その日に、新島がささげた開校の祈りは、その場にいた男子生徒8名と宣教師J.D.デイヴィスを大いに感動させました。同志社の創立は祈りと共に、であったことは、私たちもよく記憶しておきたい事です。
しかし、その時点で、同志社女子大学の前進である同志社女学校は、未だ影も形もありませんでした。だから、お隣の同志社大学は昨年、130周年記念を、そして女子大では1年後の本年、創立130年を祝っているわけです。最近は学長の入学式の式辞で触れられたり、女子大学の広報誌の最初の頁に取り上げられているので、ご存知の方も多いと思いますが、私たちの学校の発祥地は、現在御所の中にある京都迎賓館の1部となっている柳原前光邸というお公家さんの屋敷でした。柳原家は天皇の東京遷都に合わせて、東京に移り、数年の間空き家になっていたのを借りて、J.D.デイヴィス一家が住んでいました。彼は、同志社英学校の設立に際し、新島の片腕となって働きました。
同志社女子学校最初の教育責任者(女性宣教師
その家に、はるばるアメリカから独身女性宣教師A.J.スタークウェザーがやって来ました。そしてそこで、彼女を中心にして、女学校の授業を定期的に始めたのが、1876年10月24日のことなのです。その根拠となっているのは、次の1文です。
We began regular school exercises Oct.24, just five days after the anniversary of the first entrance of Kioto by Mr. Davis with permission to live in the city.
(1876.11.5, A.J.Starkweather書簡)
スタークウェザーは、その年の4月から京都にいましたが、「毎日規則的に授業を始めた」のは10月24日だということです。文章後半の、デイヴィスが在住許可を得て京都入りした記念日の5日後というのは、前年10月19日にやっとデイヴィス一家が神戸から京都に移ってくることができたことを物語っています。それほど外国人が京都で住むことは難しかったのです。この文章は、スタークウェザーが同志社女学校を支援してくれていたアメリカの女性団体に書き送った手紙の中に書いてあることです。皆さんが、おひとりお一人の誕生日をちゃんと覚えていて、毎年お祝いをされるように、同志社女子大学の誕生の日は、11月29日ではなくて、10月24日である事を間違いなく憶えてくださいね。
『同志社女子大学 寮の100年』
さて、女子大学の130年の歴史の中で、今日私がお話させていただくのは、寮の歴史100年分です。といっても限られた時間の中なので、ポイントだけしかお話できません。時間と興味のある方は、先日出たばかりの『同志社女子大学 寮の100年』を手にとってみてください。図書館や宗教部その他、各事務室に置いてあるはずです。
ちなみにここへ来られている方で、寮生はいらっしゃるでしょうか?この本を書くに当たって調べてみたら、現在は、寮生は全学生の2~3%だけ、50人程度のクラスなら、1人ということが分かりました。ところが、私たちの学校が始まった頃には、寮生の割合が9割、100人いたら90人が寮生という時代もありました。もちろん、その頃の同志社女学校は全学生を集めても100人もいない小さな女学校でした。
その女学校で、同志社が始めるキリスト教による女子教育は、地元京都の住民にとって興味も人気も全然なく、むしろあんな学校に行ったら大変、という警戒心が一杯でした。そんな女学校に行かなくても、京都には、「東京女学校」とほぼ同じ時期に出来た、日本で一番古く、評判もいい府立の女学校(最初の名前は「新英学校及女紅場」、後に「京都府女学校」)があり、生徒数も初年度から120人という大人気でした。
同志社女学校は「寄宿学校」でなければならなかった
だから、同志社女学校が開設されても、地元から来る生徒は殆どいないことが予測されていましたので、寮の設備を備えている事が絶対条件でした。今でこそ、下宿や学生用マンションがたくさんありますが、今から100年以上前に、そんなものは一つもありません。その上、女性宣教師たち、そして新島襄の、第一の目的は、日本の女性にキリスト教主義の教育をすることでしたから、通学生として、朝来て午後に帰宅する、その間に、聖書の授業などを通してキリスト教を教えるだけでは、不十分だとわかっていました。
そこで、私たちの学校は、日本中の殆どのミッションスクールと同じく、ボーディング・スクール(寄宿学校)として始まりました。先ほど話した、柳原邸では文字通り、寝食を共にした、寝室も、食堂も、勉強部屋も同じ部屋でまかなうといった形でしたが、同志社女学校が借家の柳原邸を出て、最初に持った校舎も「寄宿学校」として設計されていました。これはアメリカのクリスチャン女性とこどもたちの献金で建った校舎なのですが、この建物の2階部分は全部寮だったのです。1部屋に3人で、45人収容できました。
同じ建物の中に寮と教室があった最初の33年間
今回出版した『寮の100年』の中では、第 I 部の第 I 期 同じ建物の中に、寮の部分と教室部分が並存していた時代 1876-1909 として扱っている部分についてご説明しましょう。この時代は、実はこれまでの寮史の中では一度も扱われていませんでした。1909年に初めて独立した寮「平安寮」が出来たときを寮の始めとしていました。しかし、それ以前の33年間こそ、同志社女学校にとって、ある意味で、一番基本的で、一番密度の濃かった寮生活の時代であったはずです。この時期には、3つの校舎がこの形をとっていました。
最後につけた写真をご参照ください。左端の写真、1878年と1888年のところにつけている写真※1が最初の校舎であり、その隣に1903年、英学校から移築した新島館の写真※2があります。これは第二寮と呼ばれ、同志社で最も古い木造校舎の一つで、新島の「自責の杖」事件で有名な校舎です。1903年に女子部に移転されて以来、約70年間(英学校の校舎であった期間の倍以上)、女学校の校舎として役立ってきました。さらに右隣の写真※3、家政館は、ミス・デントンという女性宣教師が寄付を集めて建てた寮です。これら3つの校舎はすべて2階が寮、1階は教室でした。
寮生活の意義
次に、この書で興味深いのは、第 II 部に掲載している、元寮生による寮生活の思い出です。寮生活を経験した値打ちは、卒業後何年も何十年も経って、本人が自ら家庭を営み社会生活を体験する中で、初めて実感されるもののようです。舎監の先生が怖かった、うるさかったのも、自分が母親になってみて、すべて寮生に対する愛情からだったと納得されるのです。しかも同志社女子大学寮の場合、単に同じ釜の飯を食べたという共同生活の体験だけでなく、生活を通して、半強制的にキリスト教の教育を受けたこと、体験できたことが、卒業後の悲しいことも辛いこともいっぱいある長い人生の中で、ふと思い出され、身体に甦って、自分の人生を立て直すのに役立つことになるのです。
元寮生の証言
その中から時間の都合で、一人の元寮生の言葉だけを、ご紹介したいと思います。
その方は、キャンパス内に建っていた木造最後の寮となった東常盤寮で、1970年代に寮生として過ごした学生です。
6畳の1室に3人が机を並べ、本棚を置くと昼なお暗い。廊下には、夫々の郷里から来た段ボール箱が並び、階段はギシギシ無遠慮にきしる。夜中のトイレに降りるときは、スリッパのつま先でそーっと、まるでこそ泥並みである。
秋はイヴ祭、ホットドッグの出店、冬はクリスマス祝会、キャロリング、そして毎日の聖書輪読会、月に1度の宗教講演会、早天祈祷会と、行事、催しは多く、春も近くなると、卒寮生送別会、新寮生の迎え入れに心せわしい。また四季を通じて合ハイ(合同のハイキングのことです)の申し込みは数多く、当日の朝などは、サンドウィッチ作りに集会室は賑々しい。
寮では、別にクリスチャンでもないが、聖書に触れ讃美歌を歌い祈りという瞑想の機会を多く持つ。学校で学ぶのでなく、それは毎日の生活のリズムとなっていた。その内にここが好きだという『聖書』の数行ができ、洗濯をしながら讃美歌を口ずさむ。今もピアノの傍には讃美歌が置かれ、私の本棚には聖書が並び、それを紐解く夜もある。
夫は「クリスチャンなのか?」と問う。しかし、若き心に染みとおった言葉や詩行は、キリスト教という一宗派の域を超え、私にはかけがえのない宝なのである。
今度は、『寮の百年』を読んだ元寮生の感想です。
勉強にもクラブ活動にも興味がない私にとって、寮生活は4年間のエネルギーの源でした。あのような日々を経験させていただき、本当に感謝しております。それ故に『寮の百年』を拝見しながら、懐かしく、いとおしく、胸がきゅんとなり、涙が流れそうでした。
これまで、全体的なリユニオンには参加したことがございませんが、今年は出かけてみたいなどと思ってしまいました。有難うございました。
と書いてきてくださいました。
寮生活と共にあった讃美歌とお祈り
今朝歌った讃美歌(21-211番)は、いつも寮の食堂で、朝食のときに歌った讃美歌です。その後テーブルごとに順番にお祈りをしてから、食事をいただきました。また今日拝読していただいた「主の祈り」は、寮集会の折などに皆でよく唱えました。寮生は、このようにして毎日の日常生活を通して、知らず知らずの内に感謝して食事をし、へりくだって神に祈る習慣を身につけました。
女学校初期に寮生活の目標とされたキリスト教の徳目
最後に、今から100年以上前に、寮生活を通して日本の女生徒に身につけさせようとしたキリスト教の徳目を、『女性のための生命と光』というウーマンズ・ボード(アメリカのクリスチャン女性の団体)の機関誌から引用します。
親切で円満な女性らしい性格を養い育てること。身体を大切に扱うこと。うそをつく習慣を止めるよう教えること。本当の意味での謙遜を身につけ、自分の考えを持って行動するよう導くこと。そして女性の影響力がどれほど大きいかを示して、自ら慷慨心を持ち、自らの人生を神から与えられた賜物・特権として積極的に生きるように訓練すること。
同志社女子大学に今は学内寮はなくなりました。しかし、この精神を、現在の教育内容の中で生かす道はないでしょうか。少子化時代を迎えて、大学の特色が問われている今、大学提供科目といったアカデミックな部分だけでなく、上に掲げられたような大切な、キリスト教の女性観(現在でも十二分に通用する)を体験を通して学ぶ方法・機会について、再考するときが来ているのではないでしょうか。
第 I 期 同じ建物の中に、寮の部分と教室部分が並存していた時代