いのちを見つめる

安森 敏隆(学芸学部教授・日本文学)

桃山正宗の坂

 手鏡に妻の寝顔を潜ませていずこへゆかんわが魂は

京都は伏見桃山城の、御陵の林の北側を東に伸びる上板橋通りは、なだらかな坂になっている。振り返るとはるか西方に京都の町が一望できる。その桃山町正宗の坂の途中に「阿吽房」と名付けられた引野收と濱田陽子という二人の歌人が住んでいた。二人は、40年間、人目をはばかるようにその坂の中腹に、トタン屋根の小さい掘っ立て小屋に住んで歌を作り続けた。(安森敏隆監修・藤沢薫作 朗読劇「いのちの短歌」の一節)

今日は、「130年を語りつぐ」というテーマを与えられていますが、「1300年を語りつぐ」という話にさせていただきます。私は1300年ばかり続いてきた短歌の研究を続けています。なぜ短歌がこんなに1300年も続いてきたのか、という「いのち」を語り継いできたからです。同志社の130年の歴史と同じように1300年間の「いのち」を語りついできたからではないでしょうか。そこで私も、1300年の短歌の歴史のなかで、20世紀の後半を40年間ベッドの上で天井だけを見て、ほとんど横も向かず、生きている限り歌をうたったという、引野收さんの「いのち」の話をしてみようと思います。最初に読んだ歌を、もう一度繰り返してみます。

 手鏡に妻の寝顔を潜ませていずこへゆかんわが魂は

引野收さんは、肺結核とカリエスを患って40年間ベッドの上で過ごされました。生涯の大半を天井だけを見て生きてこられたのですが、天井だけでは寂しいので、奥さんが使っておられた赤い柄の付いた手鏡を貸りて、それでいろいろなものを映してみられたのです。

手鏡の歌人

「手鏡の歌人」とも言われていますが、この歌は、自分はベッドの上にいて手鏡で奥さんを映しているのです。引野さんはベッドの上で、「手鏡に妻の寝顔をひそませて」とうたわれていますから、40年間お世話なさった奥さんの濱田陽子(この方も歌人です)さんは、いつでも介護ができるようにベッドの下で寝起きされていたことが分かるわけです。そして、「私の魂はこんな状態でどう生き、どこへいくのか」と、うたわれている歌であります。

実は、ちょうど今から1ヶ月ぐらい前、桃山城に引野收の歌碑が一基、建っていたのですが、桃山城の「伏見桃山キャッスルランド」を経営していた近鉄が、累積赤字で遊園地を手放してしまい、その一画にあった引野さんの歌碑を、京都市が引き受けることになりました。しかし亡くなられて20年にもなりますから、引野さんのことを知っている人も少なくなり、もうこんな歌碑はいらないのではないかということになったのです。

私は学生時代、病臥の引野さんから手紙を7、8通貰って、励ましてもらったことがあります。特に、若い学生歌人を励ましてくれました。寝ながら書かれた縦長の字体をみながら、すごい人がいるな、と学生時代思いました。昭和20年8月の敗戦10日後に結婚され、それから、3年後に病気になり、その後は寝たきりになりました。お医者さんは「もう2、3年だろう」と言われたのですが、病院に行くだけのお金がないので、自分の家で奥さんが看られたということです。なるべく横や下は向かないように、上だけを見ていればもう少し長く生きられるだろう、とお医者さんから忠告を受けてそれを実行されたのです。実際は上ばかり見るというのは、大変だろうと思いますが、お医者さんの言うことを聞き、なるべく横も向かず、下も向かず、だいたい上を見て40年間、歌をうたわれたのです。

桃山城の歌碑

桃山城の歌碑は、有志から募金を募って2006年12月11日に京都市と交渉し、桃山城の中央の石崖の処に、歌碑を移すことができました。その歌は

 永遠とおもえるながき時の中樫立てる黄なる彩雲(あやぐも)の果て

というものです。寝ながら手鏡で自分の庭の樫の木を映して見ているのです。引野さんは、可愛がっていた猫を手鏡でよく見ており、猫の歌が多いです。手鏡でよく見えるのは庭ですから、春になると梅や桜などの歌も詠みます。ただ、この歌を見て分かるように「永遠とおもえるながき時の中 樫立てる・・」と樫を見ているのですが、樫の木は真っ直ぐ上に伸びて立っていますから、やっぱり、その上の、上の方まで見てみたい。だから、永遠と思える時の中を樫がすっと立って、夕陽に染まりそうな彩雲の果てにまで伸びている。そこまで行きたい。現実から飛翔してもう少し永遠なるものが見たいという思いで、引野さんは常に、未来を志向するパースペクティヴを常に持って生きられたのでないかと私は思います。さらに、

 屋根越しのいずれより来し花びらのその幾ひらを手鏡に追う

という歌があります。手鏡をかざしていると、屋根越しに向こう側から花びらが飛んでくるのです。ちょうど春だろうと思いますが、いろんな花びらが飛んでくる。屋根越しに、いずれから来たのだろうかこの花びらは、と手鏡の中にその花びらを映しながら、塀の中の自分、ベッドの上の自分を見ながら、塀の外へ向けて一生懸命思いをはせていく。私たちのように元気な者は、いつだって外が見えると思っているけれども、私たち以上にベッドの上から手鏡一つで、塀の外を想像したり、空の上まで想像したり、そして、新聞や雑誌、さらにラジオをよく聴いておられて世界に向かって非常に精通していた人だと思います。昭和の終わり、この方が70歳で亡くなられる寸前のときの歌があります。まだ、時は20世紀の末でありました。

「いのち」の語り部

 二十一世紀を見つめてなどと何を言う核据え置きのまま何を言う

という歌をうたっております。自分達は21世紀を見つめて、新しい21世紀を作ろうとしているのだ、と大国は「核」を保有しながら言っているが、何を今さら「核」を保有し「核」を自分の国だけは据え置きにしておきながら、21世紀を語るなど「何をいう」という歌です。その国は、日本も含めて、本当に21世紀を見据えているのか。「核」を据え置きのままそんなに見つめているのかというのが、この人が20世紀の末に詠んだ歌であります。私はやはり、自分の身近な小さな世界であっても、何人もの引野さんのような人たちが「いのち」をうたい、うたい継いできたから短歌は1300年続いてきたし、未来に存続できるのだと思います。

同志社が130年続いてきたのは、校祖の新島襄を、そしてキリスト教の愛と平和を同志社に集った人々が「語り部」となって今日まで語り継ぎ実践してきたからだと思います。初めの人、その次の人、またその次の人、と「いのち」を皆が受け継いで、また、皆の「いのち」を明日に向かって受け継いで、語り継いできたから今の同志社があるのだと思います。受け継がないと「いのち」はそこで終わります。

引野收(正岡子規は3年間しか仰臥していませんが)という一人の歌人が、かつて京都の桃山の正宗の坂の「阿吽房(あうんぼう)」と名付けられた家に住んでいて、40年間病臥のまま歌をうたい、その歌の記された歌碑すら潰されそうになった、ということを私は今朝、若い皆さんに語り継ぎたいと思います。同志社の130年の伝統を思いながら、受け継ぐこと、語り継ぐことの大切さを共に考えながら、今日はこの話をしました。

130年を語りつぐ