松浦政泰と1892年の改革

1890年1月の新島襄の没後、東京第一基督教会(のち霊南坂教会)を牧していた小崎弘道が同志社社長に就任すべく入洛した。その年の8月、東上の志を持つ松浦政泰は東京事情を聞くために先輩小崎をたずねた。しかし小崎は女学校の現状を説いて松浦に一臂の力を添えるよう説得した。松浦は女子教育の無資格を理由に辞退したが、ついに「故新島先生に荷ふ山高海深の恩義の枷が重くて、いつしかは万が一でもと、心の底に固く契った石のやうな決心」と小崎の信任に感激して(松浦政泰「女子教育二十五年」『同志社女学校期報』38)、9月には女学校に就任した。翌年に教頭に推された。当時社長が同志社各学校の校長を兼任していたから、教頭は事実上各学校の校長職に相当した。彼は1901年春、新設の日本女子大学校に転じるまで、新島襄没後、同志社とアメリカン・ボードとの決裂などの苦難のなかにあって、女学校を再建維持するために自ら募金に奔走しながら、同志社女学校の骨格を形成するうえで、もっとも重要な役割を担った。専門科の整備に取り組み、さらに『同志社女学校期報』の創刊、同窓会の組織、同志社女学校研究会の主催等々、彼を突き動かしたものは、その「大に覚悟する所」の披瀝のなかにうかがえる。

同志社女学校は故新島先生の遺業なり、明潔なる先生の精神、幾許か校内に磅たらん、信仰に於て、品格に於いて主義に於いて、我校は幾分か他と其趣を異にするものならんとは、多数の人の我校に対する第一の観念なりとす。嗚呼我校果して此実あるか。我校の空気を呼吸する者、果して信仰火の如く燃ゆるか、品格山の如く高きか、主義石の如く堅きか。我等此評を聞く毎に未だ曽て汗背赧顔の感なき能はず。恐くは是れ我校が現有する所のものにあらずして、正に我校が日夜之を得るに汲々たるものなり。慚死慚死(松浦政泰「同志社女学校の特質」『同志社女学校期報』1、以下『期報』と略記)。

「同志社女学校規則」(1887年8月)によれば、すでに本科の上に高等科を置いていたが、在学生の有無はともかく高等科の卒業生を出していなかった。これを実態化しようとしたのが1892年6月の規則改革であった。改革の趣旨は「改革の概旨」によって公にされている。そこには同志社女学校の一大長所として、これまでも将来もともに「正に精神的薫育にある」が、女学校が造出すべき人物に2種類あり、その1は「卒業後直に家庭を担任すべきもの」であり、その2は教育家、女性記者、伝道師、慈善事業家として「社会の表面に立ち、婦女子の地位を高むるがために、一臂の力を尽くさんとする者」とであり、専門科は後者の女子を育成するために設けるものであることを明らかにしている。専門科は2年制で、師範科(主として高等の科学数学を授ける)、文学科(東西の文学および歴史を教える)、神学科(聖書および神学を学ばせる)の3種を置くが、これは「人の嗜好凡そ科学的文学的哲学的の三種の分かるゝことを思えばなり」と説明している。
この新制度の発足直後に、松浦政泰はつぎのように報告している。改革は「従来の迂濶を救ふて実用に適切ならんことを計りしことなり本年此理想の幾分かは之を実行するを得たりと雖事草創に属し万事に完全を欠くこと尠少ならず新設の専門科に於て殊に然りとす我等が脳裡の理想に対しても汗顔の至に堪えざるなり然れども入学意想外に多く此新設に対する需用の世にありしことを示せしは我等が頗る満足せし所なり」(松浦政泰「前学年女学校報告・二十六年六月脱稿」『期報』1)。
最初の入学生は文学科8名(横浜フェリス女学校、鳥取女学校各1名、同志社女学校6名)、師範科8名(熊本女学校1名、松山女学校2名、同志社女学校5名)、神学科2名(鳥取女学校、同志社女学校各1名)合計18名であり、松浦は「我等は決して直に此の如く諸処の学校より来遊者あらんことを予期せざりき唯我等が本学年中之を教へ之を導くの不完全なりしを愧づるのみ」(同前)と結んで専門科の新設を総括している。
1894年6月に専門科第1回卒業生を出す。師範科(小栗里、松木喬)、文学科(服部園、林徳)合計4名であった。神学科の卒業生はその後も結局1名も記録されていない。松浦は「専門科の教授は普通科と其趣を殊にし、直に参考書に就き註解書を繙て考察研究せしめざるべからず」とし、生徒自身のいわば自主研究を期待している。女学校図書館(同志社女学校新島文庫、1892年9月創設)の充実はそれに対応するものであり、同志社図書館での借覧も許され、また卒業論文も課されていた。第1回卒業生の卒業論文は「徳川時代の教育」(小栗)、「普通科に於る科学」(松木)、「文学と家庭」(服部)、「本邦女文学者」(林)である。翌1895年6月27日第2回専門科卒業式当日の午前中に、初めて卒業論文朗読会が開催された。第2回卒業生6名の前途は「一名は米国に赴くことに決し、二名は公立女学校に、二名は私立女学校に聘用せらるゝことに略ぼ決したり。残り一名は事情ありて一応帰郷することゝなり居れり」(『期報』4)と紹介されている。
その後の教学的充実を見ると、1900年1月に初めて第二外国語(フランス語)が開設され、1904年1月からはフランス語研究会が開かれ、ミス・レッグ(Helen Edith Legge)が指導している。また1903年12月に同志社女学校文学会が発足した。第1回文学会には、来遊中のコロンビア大学教授、ボストン美術館日本部長のダヲが招かれ、同志社教職員、学生および校友を前に「余が日本美術より受けたる教訓」の題で講演した(『期報』20)。

  • 小崎弘道 第2代同志社社長(1892―1897)
    1-872-1 小崎弘道 
    第2代同志社社長 (1892―1897)
  • 松浦政泰 同志社女学校教頭(1891―1901)
    2-2 松浦政泰 
    同志社女学校教頭 (1891―1901)
  • 卒業記念 前列中央に新島襄遺影(1895年6月)
    2-3 卒業記念 前列中央に新島襄遺影
    (1895年6月)
  • 生徒募集広告 (1908年7月)
    2-4 生徒募集広告 (1908年7月)
  • 生徒一期間受業之證および図書館入館之券 (1903年)
    2-5 生徒一期間受業之證および図書館入館之券 (1903年)
  • 同志社記章制定 (1893年)
    2-6 同志社記章制定 (1893年)

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文科と家政科の設置

神学科は在学生も少なく卒業生を出さないまま結局数年内に自然閉鎖された。1901年9月の規則改正のときには、すでに神学科への言及はなく「専門科はこれまで師範科、文学科の二種に分ちたりしを」と述べている(『期報』16)。これを「今少し専門らしくせんとの目的」で国語国文科と英語英文科の二部制を試みたのであったが、そこには至らず「文科」として発足した。なお女学校は従来9月を学年始めとしていたが、公立の小学校、高等女学校の卒業期が3月末であるのに合わせて、この年度から普通科の学年始めを4月に改めた。専門科は従来どおり9月入学であった。
ついで、1904年4月、課程を改正し専門科を再び高等科に改め、3か年の「高等の普通学」を教授するというもので、男子の旧制高等学校、専門学校に相当する課程とみてよい。課外講義として撰科を置き「有志の者にピアノ、オルガン、茶湯、生花、琴、裁縫等の諸科を授く」としている(『期報』21)。これはすでに1887年の「同志社女学校別科規則」および1893年の撰修科(別に英学、邦学、裁縫、音楽、和歌、絵画及茶花等の撰修科を設く)に置いていたものを継承したのである。
さらに1904年4月、高等部に家政科を新設した。内容は「家政上必要なる看護法料理法裁縫園芸等を教ゆるの外、文学美術の趣味を養成せしめんことを努むるものなり」(『期報』22)とされ、この時点では「修業年限は二ヶ年とす現今八名の生徒を有す」と記している。1906年8月の「同志社女学校規則」では、高等学部文科、家政科ともに3か年とし「高等学部文科卒業生にして随意に高等の学科を研究せんとする者のために研究科(二年)を設くる事あるべし」と注記している。入学資格は両科には差があり、文科は(1)同志社女学校普通学部卒業者、(2)官公立5か年程度の高等女学校卒業者にして英語試験に及第した者、(3)試験のうえ、前記と同等以上の学力を有すると認められた者の3種としており、前者のレベルがやや高い。文科を英文科とことわっている記録もあるが、まだ正規の呼称ではなく、英語に力を入れてはいるものの英文科そのものではなく、そのさきがけとなるものであろう。
この後、1908年に家政科の修業年限が2か年に短縮されたほかは、ほぼ1905年体制のまま1912年の専門学校令による同志社女学校専門学部の発足の時まで続く。

  • 本科卒業証 (1893年6月)
    2-7 本科卒業証 (1893年6月)
  • 山口義子1897年度履修証明書
    2-8 山口義子1897年度履修証明書
  • 1911年3月卒業生 普通学部18名、高等学部4名、卒業生の胸にすみれのコサージュ
    2-9 1911年3月卒業生 普通学部18名、高等学部4名、卒業生の胸にすみれのコサージュ
  • 専門科乙種文学科卒業証 (1896年6月)
    2-10 専門科乙種文学科卒業証 
    (1896年6月)
  • 文学科卒業証書 林徳は1892年に本科を卒業している(1894年6月)
    2-11 文学科卒業証書 林徳は1892年に本科を卒業している(1894年6月)
  • 同志社女学校概覧 (1896年3月)
    2-12 同志社女学校概覧 (1896年3月)

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女学校基本金募集

松浦政泰の後、幹事の大塚素が「事情を洞察し忙甚の身なるに拘はらず快く教頭が留守中の事務を見るべきを諾せられしが松浦氏辞職せらるゝに及び適当なる後任者を求むれども得る能はず次て広津(友信)校長心得も亦辞任せらるゝ事となり大塚幹事の責任と事務は一層重く且多くなりたれば女学校の事は殆ど手を着くるの遑なき有様」であった。しかし「幸ひにして女学校出身の女教師等各母校の盛衰を一身に負ふて拮据経営せられしとデントン教師十月十一日に来校せられ教場の掃除庭園の手入れまでも熱心に自ら先き立ちて努められしを以て校内無事なるを得たり」(「校長の報告」1902年3月、同志社臨時校長下村孝太郎)と記録されている。実は松浦以後の教頭は臨時、兼任ないしは同志社男学校教師が輪番的に就任し、1922年松田道が校長に就任するまでの約20年間に10人が交替し、平均すれば各2年間にすぎない。すなわち男学校の恩恵に助けられつつ、同時に男学校の存在が女学校の自立を妨げる覊絆となることがなかっただろうか。
大塚、青木澄十郎(臨時)のあと、1903年1月千葉勇五郎(臨時)が教頭を継ぐ。この年の9月、女学校が同窓会と相呼応して企てたのが「同志社女学校資金募集」であった。その「主意書」には松浦が主張してきたところのものが継承されており、その教育理念を満たすための資金募集であった。そこでは「多少邦家の為、直接又間接に、一臂を揮ふべき伎倆を備ふる女子を陶冶すると共に」、「偏僻なる弊習をも脱して、真に我国の需要に適する人物を出さんとするに在」ることを述べ、「独立独行、一種特別の旗幟を立てゝ」、「我国の女子教育界に、一種特別の貢献をなすの時期を近づかしめよ」と訴えている。
これはさらに、1908年7月、原田助校長(社長)、中瀬古六郎教頭時代、「現時の普通学部を改善すると共に高等学部を拡張し、私立女子大学となし、同志社各部の発展と伴ひ大に本校年来の宿望を完成せんとす」るための、第2回基本金募集に展開した。ここにおいて女子大学への構想が公にされたわけである。さらに1911年8月には第3回の基本金募集の主意書が発表され、1914年9月に募金が終了したときには目標額の1万円を上まわる1万2,121円13銭に達した。これは、1909年度の同志社女学校の経常勘定による総収入額は約5千円弱、1912年が1万2千余円であったことを考えると大きな成果であった。この間の同窓会の活躍とその一環としてのバザー開催などの熱誠は大であった(『期報』6)。
こうした期間中の1911年8月17日午前、女学校内で建築委員会開催中、これまでも同志社への同情者であったニューヨーク市のD. W. ジェームズ夫人から、女学校基本金と整地校舎拡築費として米貨10万ドルの寄附金申込の電報が届けられた。これは21万1,763円66銭に換算される額であり、1912年の総収入の約17倍余であった。「これを落手したる委員等の驚愕と歓喜とは、実に言語に絶するものあり。直に感謝会を開きて天佑の益優渥なるを謝し校運の益隆盛ならんことを熱心に祈願せり」(『期報』30追加記事)としたのは実感であっただろう。折半して基本財産と校舎建設費とすることを指示していて、翌々13年には、より立派な校舎にするようにと6,000ドルが追加寄附された。こうして1914年にジェームズ館、15年に家政館(1963年1月3日漏電のため焼失)を新築した。米国太平洋婦人伝道局の寄附になる4万1,190円を要した静和館の落成(1912年)と並んで、女学校の発展とりわけ女子大学部開設の構想を勢援するものであったことは間違いない。

  • 救世軍第2代大将ウィリアム・ブラムウェル・ブース 1926年10月29日、大学神学館前。父の第1代大将は1907年5月に来校した
    2-13 救世軍第2代大将ウィリアム・ブラムウェル・ブース 1926年10月29日、大学神学館前。父の第1代大将は1907年5月に来校した
  • 妹のエバゼリン・ブース女史と新島八重
    2-14 妹のエバゼリン・ブース女史と新島八重
  • 山室軍平とW. B. ブース
    2-15 山室軍平とW. B. ブース

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女子大学の準備

1911年11月23、24日の両日開催された同志社理事会は、同志社多年の宿望であった大学設立および女学校を拡張して女子大学とする決議を行った。同志社女子大学設立準備委員長には松本亦太郎(校友・京大教授)を依嘱し、原田社長は11月30日付で中瀬古六郎、松浦政泰、佐伯理一郎、大沢徳太郎、中村栄助、ぺティ(James Horace Pettee)、松田道、長谷場知亀、デントン、内田政子、原富子、山下婉子、田口竹子、伊藤春子、荒木幸子、杉山恒子の16名に委員就任を依頼した。原田は早速その12月刊行の『女学校期報』第31号の巻頭に「同窓諸姉に望む」を揚げて、この成就は「内外同情者の協力と我同窓諸姉の熱誠なる祈禱と協同に倚頼するの外はないのである、是予が同窓諸姉に対し切望して止まざる所」であると訴えた。
松本亦太郎は、これまでにも女子の高等教育機関の必要を主張してきていた(『期報』28ほか)が、1912年1月15日同志社教職員新年会において、改めて委員長として「同志社女学校に大学部を開設せざる可からざる理由」を宣言している。それはつぎの3点に要約できる。
第1に「同志社女学校に対しては従来米国の有志家殊に婦人篤志者が多大なる義侠的助力を与へて居る」、「此の義侠に感激し此助力を善用し我国の女子の智能を開発し、品性を向上せしむる機関を設くる為めに尽力す可きは当然の事であって、是れは国際間の礼儀上より見ても」「同志社は女子の高等教育機関を設くる義務がある」こと。
第2に、日本の「女子に高等の教育を施す機関は、東京に日本女子大学校がある許りで」、他はきわめて不完全のものにすぎず、官立唯一の「女子高等師範学校の如きは教員養成を目的としているので、リベラル・カルチューアを与へると言ふ点から見れば不満足」なものである。これは女子に対し「社会が甚だ不公平なる待遇を与へて居る」のであり、「国家は女子の為高等教育の機関を設くる事を運んで居らぬとすれば、どうしても民間の努力により此機関を設けねばならぬ」。同志社女学校のごとき「一頭地を擢んでて居る」「学校が率先奮起して自ら高等教育の機関となる覚悟をする事が国民に対する義務である」。「力大なるものは、負担するところも亦多くなければならぬ」、もしこのため奮起しないなら「国民に対し女子に対しての自己の任務を怠って居ると謂はねばならぬ」こと。
第3に、近来男子のための公私の高等教育機関が設立されるに至ったが、男女の間に懸隔を生じ、「此病的現象は国民の健全なる発展を妨げる」のであり、「此悪現象を除くために仮令少数でも可い、女子に高等なる程度の教育を授けて置かねばならぬ」、そうすることによって「如上の不権衡をある程度まで平均せしむる事を得、病的現象を未発に防ぐ事を得るのみである」。この役割を担うべき女子は知能、徳操ともに強固なる素養をそなえる者でなければならず、同志社女学校は高尚なる徳性を涵養するための敬虔の空気の充満する清浄の境地をもち、また卓絶の学者の高風に薫せらるる条件をそなえており、「同志社女子大学部は甚有望である」こと等である。そして「日本が武力に於て商売に於て何程発達しても」得ることのできない「現代の文明国中に優等なる地位を占むる」ための「女子界の明星たらしめたい」と結んでいる(松本亦太郎「同志社女子大学部設置に関する私見」『期報』32および84)。かれは同窓会、女学校在学生、府下教育者懇談会などにおいても、これを詳説している。
さきに松浦政泰によって骨格がつくられた同志社女学校は、いま松本亦太郎によってその理念をさらに強固にしたといってよい。松本を中心に練られた案(松本亦太郎「同志社女学校拡張の方針」『期報』32)をもって1912年1月23日文部省に専門学校令による専門学部設置を申請した。これは同志社大学設立認可と時を同じくして同年2月14日文部大臣長谷場純孝(夫人知亀は同志社女学校1892年卒業生)から認可され、文部省告示第31号をもって2月15日公示された。この直後の2月17日原田社長は、同志社が教育界において精神教育を標榜し、「我国家の為に不覊独立真理に忠誠なる国士を養ひ、信念あり志操ある紳士淑女を作らんとする」新島襄の遺業を門下生として完成する責務を披瀝し、多年の宿望が解決の端緒に就いたことを報告している(原田助「同志社大学の設立」『同志社新報』85)。
かくて、1912年4月15日午前10時同志社女学校専門学部の始業式を挙げたのである。ちなみに、それまでに専門学校令に基づいて認可を得ていた女子学校は、日本女子大学校、女子英学塾(現津田塾大学)、青山女学院英文専門科(以上1904年)、帝国女子専門学校(現相模女子大学)、神戸女学院(以上1909年)である。

  • 和田琳熊 女学校教頭(1905. 7-1907. 9)
    2-16 和田琳熊 女学校教頭
    (1905. 7-1907. 9)
  • 中瀬古六郎 女学校教頭(1908. 4-1912. 6)
    2-17 中瀬古六郎 女学校教頭
    (1908. 4-1912. 6)
  • 原田助 第7代社長(1907. 1-1918. 9)
    2-18 原田助 第7代社長
    (1907. 1-1918. 9)
  • ジェームズ夫人の寄附申込 (1911年8月)
    2-19 ジェームズ夫人の寄附申込
    (1911年8月)
  • 同志社女学校基本金募集広告 (1903年)
    2-20 同志社女学校基本金募集広告 (1903年)
  • 2-21 松本亦太郎 同志社女子大学設立準備委員長専門学部臨時教頭(京都帝国大学教授)
    2-21 松本亦太郎
    同志社女子大学設立準備委員長専門学部臨時教頭(京都帝国大学教授)
  • 佐伯理一郎
    2-22 佐伯理一郎
  • 専門部生徒(1914年3月)
    2-23 専門部生徒(1914年3月)
  • 1910年3月卒業生 普通学部10名、高等学部文科2名、高等学部家政科3名
    2-24 1910年3月卒業生 普通学部10名、高等学部文科2名、高等学部家政科3名
  • 静和館(Pacific Hall) 1912年8月竣工、設計 武田五一(静和館は1991年に撤去された後、現在の新静和館が建築された)
    2-25 静和館(Pacific Hall) 1912年8月竣工、設計 武田五一(静和館は1991年に撤去された後、現在の新静和館が建築された)

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専門学部の発足

専門学部は本科に各3か年の家政、英文の両科を設け、高等女学校5年の課程卒業者を標準とし、ほかに高等女学校4年課程卒業程度を対象とする選科を置き、生徒定員を合わせて180名としている。学科目は単に家政、英文を専修させるのではなく、随意科も多く設けて、むしろリベラルな教科を配慮しているのが特徴である。松本は、機械のごとく有用なものを注入するのではなく、「人間と言ふ事につき深き考を有せしむる」ための精神科学を教える必要を力説する。つまり、家政科、英文科ともに倫理、心理、教育、児童研究、哲学、美術史、法制、文学、歴史などの学問を通して人間についての考えを養うことによって「知能を開発し品性を向上せしめ」、もって「立派なる人間大国民の母たらしめんとし大国民の妻たらしめ大国民の娘たらしめん」としたのであった(前揚「同志社女学校拡張の方針」)。
これをなしうるスタッフは、松本によれば書物を教えるだけの人ではなく、一世の人も仰ぐ斯学の権威であり、また品性高尚の人でなければならない。かくて同志社社長原田助を校長として、松本亦太郎に臨時教頭事務を嘱託して、女学校の中瀬古六郎(理化学、英語)、松田道(英語、英文学)、エレン・E・ケーリ(同)、メリー・F・デントン(同)、グレース・W・ラーネッド(同)、アンナ・L・ヒル(音楽)、ルイーズ・H・デフォレスト(同)、中目滝子(園芸)、同志社の原田助(倫理)、和田琳熊(教育学)、京大の松本亦太郎(心理学)、桑木厳翼(倫理、哲学)、上田敏(文学史)、原勝郎(歴史)、藤井乙男(国語)、鈴木虎雄(漢文学)、絵画専門学校の中井宗太郎(美術史)や医師の佐伯理一郎(衛生、看護)ほか数名の教授陣をもって発足したのであった。これ以後も、主として同志社大学と京都帝国大学の人脈の支援を得るという系譜は昭和期に至るまで継承された。
最初の入学生は家政14名、英文22名、計36名であった。半数に近い17名が選科生である。この数を、松本は「我々の予期したより二倍以上の入学者」であり、来学者の多寡を憂えていたのは杞憂であったと安堵している。しかも「一々の来学者の事情を聞くと夫々心に決する所があり本人の発意により種々なる障碍を排して来学している、如何にも意義ある来学者が多い」、「女子専門学部の開設は矢張時宜に適して居ったのである」と評し、また、ここが「他日我国における最有力なる女子の高等教育の機関となる抱負を以って開設せられたるものにして我々は此処より流れ出づる女子教化の流れが年と共に益長く益大になりて我全国に其潤沢を及ぼす可きを堅く信ずる」(松本亦太郎「同志社女学校専門学部開設劈頭の所感」『期報』33)所以を力説している。

  • 上田敏
    2-26 上田敏
  • 原勝郎
    2-27 原勝郎
  • 桑木厳翼
    2-28 桑木厳翼
  • 同志社女学校正門 静和館が正面、右側は1887年竣工の校舎(現在の栄光館の位置)
    2-29 同志社女学校正門 静和館が正面、右側は1887年竣工の校舎(現在の栄光館の位置)
  • 奈良修学旅行 1909年5月28日(地久節)、同志社女学校教職員および生徒総数119、奈良に遊ぶ。奈良公会堂にて
    2-30 奈良修学旅行 1909年5月28日(地久節)、同志社女学校教職員および生徒総数119、奈良に遊ぶ。奈良公会堂にて

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予科と国文科の設置

専門学部発足後における規則変更は、授業料や科目編成などの改訂を除いても、かなり頻繁である。主要な変更の経緯をたどってみる。
早くも初年度の1912年11月28日規則改正を申請し、文部大臣の認可を得た。主な改正点は、予科(1年)、国文科(3年)、および各研究科(1年ないし2年)の設置である。設置理由をみると、まず予科は当時の地方高等女学校のほとんどが4年制であって、卒業後ただちに本科への入学資格がないので本科への準備をさせるためであり、国文科は「進ンデ国文ヲ専攻セントスル者尠カラザルト京都ハ古今文化ノ遺跡多ク加フルニ山水ノ美アリ国文学学修ノ地トシテ適当ノ場所ナル事」を挙げている。研究科は本科およびこれと同等の学校の卒業生に「更ニ本校専門学部所設ノ学科ヲ専攻セントスル者ノ為メニ設ク」としている。
こうして第2年目以降1922年3月の改正に至るまでの規則には、新設各科の学科課程が明記されている。しかし『同志社大正二年度報告』には、「本科生選科生を合し学生総数五十四名に上りしが皆な英文科及家政科の学生にして国文科は未だ開始するに至らざりき」と記され、のちの文部省への概況報告でも、国文科設置の認可は得たが「国文科ハ未設」と記している(「公立私立専門学校年報取調条項・昭和四年度同志社女学校専門学部」昭和5年7月7日付)。ただ「国文科は未だ開始するに至らざりき」と記された同年度の『期報』第34号にだけ、学年始めの生徒一覧表には国文科予科1名の在籍を記している。しかし、この1名も本科には進まなかったものと思われ、いわば幻の学科であったといえる。
つぎの改訂は、1915年(2月12日申請、4月6日認可)であり、主な点は予科は英文科のみとし、家庭科および国文科の予科を廃止し、両科の本科への入学資格を改めたことである。このため両科の入学資格を「修業年限四ヶ年以上ノ高等女学校」卒業者に標準を下げたことである。
さらに、前記の1922年3月の改正(3月23日願出、4月15日認可)では、選科と有名無実の国文科を廃し、従来各科に設けられているはずであった研究科を「家政研究科」(1か年)だけに縮小している。これまでの研究科が実質をともなわなかったことと、家政科を英文科のレベルに並べる配慮が理由と考えられる。しかし、これも終始ほとんど在籍するものがなく、1930年3月10日「志望者無ク廃置スルノヤムナキヲ認ム」ことを文部省に願い出て認可を受けた。したがって専門学部の構成は英文科予科(高等女学校4年修了を基準、1か年)、英文科本科(同5年卒業を基準、3か年)、家政科(3か年)の3科に整理され、選科、研究科は廃された。これは文部省新「高等学校令」(いわゆる旧制高等学校)の文科と理科にほぼ相当する内容のものであった。
このように見てくると、何か先細りを覚えさせるが、実は1914年8月には専門学部専用のジェームズ館、翌年11月には家政館も竣工し、施設と学科内容はいちだんと充実していた。生徒数は漸増を続け、とくに第一次世界大戦後の1920年度は女学校全体が389名から一躍680名に増加し、専門学部も入学生が119名に急増している。さらに1923年度の専門学部在学生は458名に達している。これを受けて定員増が図られた。増員理由としてつぎの6項を挙げている。

  1. 1. 関西地方には女子英語研究の最高機関稀なること
  2. 2. 他の府県の女学校に於ては本校の如く英語に堪能なる多数の内外教員に接触する機会少きこと
  3. 3. 本校家政科は其設備稍々完成し且つ洋裁及割烹に良教員を有すること
  4. 4. 本校同窓生は其数約壱千名に上り各府県に散布して其子女及親族故旧の子女をも母校へ送り来れること
  5. 5. 本校各部の卒業生は各府県立高等女学校其他の公立学校へ英語其他の教員として奉職し其教へたる卒業生等を続々母校へ紹介し来れること
  6. 6. 本校英文科卒業生は同志社大学へ入学の資格ありとの文部省の認可は一般女学生の向上心を唆りたること(『同志社時報』210、『期報』48)

これまでに当初の180名から200名に増員されていたが、一挙に500名にするというもので、「現在校内ノ設備ハ之ヲ容ルゝニ充分ニテ少シモ差支無之候」と付記して1923年4月5日文部省に願い出て、5月24日認可された。さらに、25年度には750名に増員することが認可(6月26日)された。そして27年度には、入学志願者591名、入学者265名であり、在学生は専門学部史上最高の721名を数えるに至ったのであった。
しかし、無原則な拡張を試みていたわけではなかった。たとえば女学校幹事の山中百は、教室、講堂と、とくに2府38県より笈を負うて来学する専門学部にとっては寮舎新築が急需であることを訴え「生徒定員は七百名を限とせねばなるまい」と重ねて論説している(山中百「我が同志社女学校の現況」『期報』48、「再び同志社女学校の設備を論ず」『期報』49ほか)。海老名総長も同様の趣旨を述べ(海老名弾正「女学校専門学部の発展」『期報』51)、同時に施設充実のための資金を求めて国内外に奔走している。

  • 松田道 同志社女学校校長(1922. 2―1928. 1)
    2-31 松田道 同志社女学校校長
    (1922. 2―1928. 1)
  • 井深八重・デントン・片桐芳子 1918年ごろ、デントン・ハウスにて。井深は県立長崎高等女学校に赴任。その後復生病院婦長、救事業に尽力し、黄綬褒章、ローマ法王から聖十字章、ナイチンゲール章、朝日社会社福祉賞などを受賞
    2-32 井深八重・デントン・片桐芳子 1926年ごろ、デントン・ハウスにて。井深は県立長崎高等女学校に赴任。その後復生病院婦長、救事業に尽力し、黄綬褒章、ローマ法王から聖十字章、ナイチンゲール章、朝日社会社福祉賞などを受賞
  • 専門学部第1回卒業生 (1914年3月)
    2-33 専門学部第1回卒業生 (1914年3月)
  • ジェームズ館定礎式 式には教職員生徒全員が参列して挙行された
    2-34 ジェームズ館定礎式 式には教職員生徒全員が参列して挙行された
  • ジェームズ館 1914年8月竣工。ジェームズ夫人とA. C. ジェームズの寄附により建築、専門学部の中心的校舎となる。設計 武田五一
    2-35 ジェームズ館 1914年8月竣工。ジェームズ夫人とA. C. ジェームズの寄附により建築、専門学部の中心的校舎となる。設計 武田五一
  • 専門学部家政科卒業生 (1920年3月)
    2-36 専門学部家政科卒業生 (1920年3月)
  • 松田、バートン先生を囲んで 1916年英文科生。中央バートンの左後は松田道、その左後は井深八重、左端は片桐芳子
    2-37 松田、バートン先生を囲んで 1916年英文科生。中央バートンの左後は松田道、その左後は井深八重、左端は片桐芳子
  • 海老名弾正 第8代総長(1920.4―1928.11)
    2-38 海老名弾正 第8代総長(1920.4―1928.11)
  • 海老名総長歓迎会 右側3分の1が女子部生徒(1920年5月13日)
    2-39 海老名総長歓迎会 右側3分の1が女子部生徒(1920年5月13日)
  • 専門学部英文科2年生(1923年2月)洋服は教師のM. F. デントンのみ
    2-40 専門学部英文科2年生(1923年2月)洋服は教師のM. F. デントンのみ
  • 専門学部家政科園芸実習(1918年)園芸(Gardening)は家政科の必修科目(現在のデントン館の位置)
    2-41 専門学部家政科園芸実習(1918年)園芸(Gardening)は家政科の必修科目(現在のデントン館の位置)



記念写真誌 同志社女子大学125年