音楽科

同志社女学校草創の時から音楽、体操などを正課中に採り入れたことは注目すべき特色であるが、課外においてもこの方面での活動には著しいものがあった。体育面ではテニス、バスケットボール、キャプテンボール、デッドボール、総合運動会、野外エクスカーションなど特筆すべきものがある。これに関連して、同志社女学校の正規の教科課程の外で営まれた、いわばもうひとつの同志社女学校について一瞥しておこう。
ウェンライトほか3名のアメリカ人女教師による「同志社女学校別科」の中に音楽科(発音法、楽譜、唱歌、オルガン、ピアノ)が、割烹科(麪包、菓子、肉類、野菜、果物)、裁縫科(運針法、裁方、小児服、婦人服)、編物科(毛糸、レース、繍箔)、英語会話(発音法、日用対話)などとともに設けられている。1890年前後と推定されるその規則によると、音楽科は毎週2時間授業で3か年課程であり、とくにピアノ科の月謝は他の2倍の1円となっている。
同時期の正規の方の校則にも「音楽を練習する者は通常授業料の外にピアノに壱円、オルガンに五拾銭、和琴に参拾銭の月謝を払ふべし」と規定している。当時普通科の授業料が月70銭であったのと比較すればかなりの高額である。これは以後も継承され、専門学校令により専門学部が発足したときには、「正科以外に音楽を修むる者」は1学期につきピアノ、ヴァイオリン各3円、琴2円、オルガン1円50銭の「授業料を前納せしむ」としている。
明治大正期を通して、訪日する多くの外国人が女学校でも寄宿舎でもしばしば大小の演奏会を催している。こうした延長線上に、音楽科の発足があった。公式に文部省の認可を得たかどうかは確認できないが、1919年にいわば内規的便宜的に置かれたもののようである。『女学校期報』第44号によると、この年度から「専門学部英文科に選科生として音楽志望者を収容すること」になり、その入学条件は、(1)英文科正科の英語全部を取るもの、(2)英文科正科の英語以外の諸科目全部を取るもののいずれかであり、音楽教授は1週4時間、練習12時間である。この年度に改正した正規の学則第41条には、これに関連して「随意科に於て音楽を修むる者は左の授業料を前納すべし」として1学期ピアノ6円、オルガン3円と定めている。当時専門学部の1学期の授業料は11円であった。
音楽教授は主としてアメリカ人女教師が指導にあたったが、やがて音楽を学ぶためにアメリカに留学する日本人教師、卒業生が出る。英文科出身で各府県高等女学校の音楽教員になる者も多かった(『同志社時報』207)。女子部一般に音楽を重んじる伝統ができていた。1923年6月、クラップ(Frances Benton Clapp)が一度帰国するときの送別会を兼ねた職員親陸会で、海老名総長は、彼女の就任以来生徒の音楽と教会における音楽進歩に対し誠意ある感謝を述べている。声楽の柳兼子(宗悦夫人)が専門学部に就任したのは1925年であった。
現在の同志社女子大学学芸学部音楽学科はこうした長い系譜から誕生したものであった。

  • F. B. クラップ 1918年来日、音楽を担当
    2-42 F. B. クラップ 1918年来日、音楽を担当
  • 京都コーラス時代の柳兼子と竹内禎子(ソプラノ)
    2-43 京都コーラス時代の柳兼子と竹内禎子(ソプラノ)
  • 同志社混声合唱団 Primrose 大学レベルでの混声合唱団の先駆とされる大阪朝日会館、指揮柳兼子(1928年)
    2-44 同志社混声合唱団 Primrose 大学レベルでの混声合唱団の先駆とされる大阪朝日会館、指揮柳兼子(1928年)
  • 柳兼子 必修の音楽を担当(1925―1930)課外として合唱指導、本格的な混声合唱団創設に貢献(1965年芸術院恩賜賞、1972年芸術院会員)
    2-45 柳兼子
    必修の音楽を担当(1925―1930)課外として合唱指導、本格的な混声合唱団創設に貢献(1965年芸術院恩賜賞、1972年芸術院会員)
  • M. E.シャネップ
    2-46 M. E.シャネップ
  • 同志社女専・同大グリークラブ演奏旅行 竹内禎子渡欧記念演奏旅行 日本青年会館(1929年3月)
    2-47 同志社女専・同大グリークラブ演奏旅行 竹内禎子渡欧記念演奏旅行 日本青年会館(1929年3月)

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学友会の発足

明治期には、生徒による文芸会、音楽会のほか、矯風会、修養会、日曜学校、各種の慈善的諸活動と、初期の伝道活動などが盛んであった。しかし、第2次世界大戦後の女子大学におけるような形式のクラブ活動はなかったと言ってよい。大正期には、寮生を中心とするミリアム・クワイア(聖歌隊)の活動がユニークであり、文芸、スポーツなどの気運が高まったが、1918年にそれらの諸活動を統括する同志社女学校学友会が発足した。
これは専門学部普通学部を含め、職員を特別会員、生徒を通常会員として「会員ノ智徳ヲ修養シ身体ヲ鍛練シ相互ノ交誼ヲ厚クスルヲ以テ目的」(第2条)とするものであった。
なお、学友会報告に、同年3月20日の役員会で「旧学友会規則に第二十条を付加し本会の役員会及総会に校長の臨席を仰ぐ事」が決められたとあり、また同会規則に「大正七年三月委員修正」と付しているが、この「旧」、「修正」はこの年度以前に学友会が創設されたのを意味するのではなく、規則制定のプロセスを示しているものと考えられる。
学友会の目的達成のために当初は運動部、文芸部の2部が置かれた。前述の役員会では、会費(通常会員1学期30銭、特別会員応分の寄附)の3分の2を運動部、3分の1を文芸部に配分し、総会、役員会、一般に関する費用は両部の会計から分納することも決めている。文芸部は、1918年6月6日の午後、第1回文芸会を主催した。合唱、ピアノ独奏、読話(精神療法)、理科実験(諸繊維と染色)、談話(羊毛について)、朗読、揮毫(書、画)、劇などが行われ、讃美歌と祈禱で閉じている。最初の試みで未熟の点もあるが、秋の会には幾分の進境を期すと記している。運動部は、すでに1914年に始められた第5回「神戸女学院、梅花女学校、同志社女学校三校聯合庭球会」の試合の状況を報告している。「神戸女学院は木村教頭十二名の撰手を引率し午前十時に着校、梅花女学校は伊庭校長数名の職員と共に之又十二名の撰手を引率し十一時頃来校一同は本校職員と共に午餐を共にし」(『期報』42)たあと、競技を行った。
学友会には、その後宗教部、国際協会部(日本国際協会直属、一時国際連盟部と称した)、弁論部(語学ノ発達及ヒ学術研究ノ普及ヲ計リ各種ノ会合ニ出席シテ思想ヲ発表ス)、雑誌部(『女学校期報』の編集に参加ほか)、購買部、庶務部、音楽部などが設けられて活動分野を拡大し、学園生活を豊かに彩っていた。
こうした長い伝統をもつ学友会は、昭和戦時下の1941年、文部省の指令によって報国団に改組された。報国団では、「皇国女性ノ基礎的修練ヲ成サンコトヲ目的」として、総務部(道場訓練、集団労働、国防訓練、時局奉仕、体練大会)、教養部(修養班、学術班、図書班、文芸班、音楽班、芸道班)、錬成部(体錬班、武道班、球技班、跋渉班)の3部編成を行い、官制の「高度国防国家に相応しき」秩序の中に組み込まれたのであった。
戦後、文部省は「終戦ニ際シ従来ノ学校報国団ハ之ヲ新シキ見地ニ立チタル校友会ニ改組」することを通達し、文部省への報告を求めた(昭和20年9月26日文部次官)。同志社では学友会に復することとし、会則を制定して同年11月1日に施行した。会の目的は、1918年の創設時のものに戻し、総務部、教養部(宗教班、学術班、図書班、文芸班、音楽班、芸道班)、体育部(競技班、球技班、跋渉班)の3部編成とした。ほとんど同時にESSが発会している。

  • 専門学部新入生 1922年4月、英文科予科、英文科、家政科、ジェームズ館東広場(現栄光館の位置)
    2-48 専門学部新入生 1922年4月、英文科予科、英文科、家政科、ジェームズ館東広場(現栄光館の位置)
  • A. C. ジェームズ夫妻を迎えて 1922年1月22日ジェームズ館前
    2-49 A. C. ジェームズ夫妻を迎えて 1922年1月22日ジェームズ館前
  • 同志社EVE音楽会 (1926年)
    2-50 同志社EVE音楽会 (1926年)

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同志社大学入学資格

海老名弾正は総長就任のときから同志社大学における男女共学の実現を構想し、その具体化を計っていた。彼は若い日にキャプテン・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes)によって男女平等の思想に目を開かれ、これを教育の場において実現するに至るのである。
まず、高等女学校卒業者を選科生として入学させるという学則改正を行った。これは1921年4月1日付で申請、5月5日文部大臣から認可を得た。改正理由には、「女子ト雖モ相当ノ学力アル者ハ選科生トシテ入学差支ナシト認ム」としており、同年9月15日の臨時理事会では、男女共学制度の採用の件は「臨機実施に着手する」ことを決議している。公式に初めて女子に大学の門戸を開いたわけである。海老名の共学の構想は、女子のために幾多の高校、大学を建てるのは「最も希ふ所なれども、容易に行はるべしとも思われない」。次善の打開策は「男子の大学に女子の入学を許すことであります」というにある。僻見を超えてこれを実現する条件は同志社女学校がもっとも適当、便利な地位を有していると説いている(海老名弾正「男女共学の準備」『期報』45)。
ついで1922年(大正11)の学則改正(3月8日申請、3月30日認可)では、「同志社大学予科修了者」のほかに「高等学校高等科ヲ修了シタル者」と並んで「同志社女学校専門学部英文科卒業者」を同志社大学各学部に本科生として入学させることを決めた。改正理由には「学部入学ニ関シ予科修了者ト同等ノ学カアルモノト認メタルニ依ル」とある。
女子の正規の入学を認めたのは、1913年東北帝国大学、1918年北海道帝国大学に続いて、同志社大学が3番目であり、認可の翌年の1923年度から実施された。最初の入学生はいずれも文学部であり、大田のぶ(1921年卒)、清水つるよ、冬広幾(1922年卒)、勝浦悦(1923年卒)の4名であった。大田と清水は1926(大正15)年大学英文学科を卒業して同志社の女性最初の文学士となった。翌1924年には法学部に盛口婦美が入学する。田辺繁子(法学博士・専修大学教授)はその翌年の入学である。大学進学者は年々増加して、英文学科では女学校専門学部出身者がかなりの比率を占めるようになった。「同志社昭和二年度報告」では「女子の成績は断じて男子のそれに劣らない、因つて男女共学の為め授業の程度を低下する憂は毫もないのである」と記している。
その後昭和に入ってから、同志社大学は同志社女学校専門学部英文科卒業者のほかにも、次第に女子の受け入れ指定校を増し、神戸女学院専門部大学部、同高等部乙類、梅花女子専門学校英文科、東京女子大学大学部、同英語専攻部本科、日本女子大学校本科文学科、同専門科英文学部、大阪府女子専門学校英文科、宮城県女子専門学校文科英文科、聖心女子学院高等専門学校英文科、津田英学塾本科、東京・奈良両女子高等師範学校文科などの各卒業生にも枠を広げていった。家政科卒業生の本科入学は長く閉されていたが、1940年に至ってようやく「同志社女子専門学校卒業者」は英文、家政を問わないで受け入れられるようになった。なお同時に、同志社女専以外は指定校制を廃して、外国語(一外国語ニ付三年以上ニ亘リ授業数合計九時間ヲ下ラザルコト)履修などの一般化された条件で受け入れることになった。
同じ時期に専門学部にとって重要なことは、中等学校教員無試験検定が認可されたことである。これまでも、卒業生の就職でもっとも多いのは中等学校教員であり、検定試験に合格する者も多かった。新制度による卒業生を出した1914年から1922年までの英文科卒業生は、2-51の表のように教員の現職と経験者を合わせると6割を超えている。これらの実績のうえに立って当局と折衝を進め、1923年6月4日文部省に申請したのであった。この結果7月21日付で英文科卒業者と家政科卒業者に対しそれぞれ英語と家事の中等学校教員無試検検定を受ける資格あるものと認定されたのである。この規定は1923年3月の卒業者から適用されることになり、初年度には8名が文部省から師範学校中学校高等女学校教員免許状を与えられた。さらに1924年には中等学校教員無試験検定校に指定された。

  • 専門学部卒業生の進路
    2-51 専門学部卒業生の進路
  • 渋澤子爵を迎える(静和館正面) 前列・渋澤栄一、中央・田辺朔郎、左端・原田助総長 帽子はデントン
    2-52 渋澤子爵を迎える(静和館正面) 前列・渋澤栄一、中央・田辺朔郎、左端・原田助総長
    帽子はデントン
  • 1923年卒業記念 英文科23名、家政科23名、卒業生の胸にすみれのコサージュ。中央に新島八重
    2-53 1923年卒業記念 英文科23名、家政科23名、卒業生の胸にすみれのコサージュ。中央に新島八重
  • 1926年家政科卒業謝恩会 家政館
    2-54 1926年家政科卒業謝恩会 家政館
  • 同志社女子部正門 (1930年ころ)
    2-55 同志社女子部正門 (1930年ころ)
  • 「同志社女学校期報」第50号行啓記念号 (1925年2月)
    2-56 「同志社女学校期報」第50号行啓記念号 (1925年2月)

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貞明皇后の行啓

1924(大正13)年10月18日松田道校長は京都府学務課から出頭を求められた。あわただしく出向いた松田に伝えられたのは、皇后の同志社女学校台臨のことであった。
この日から12月8日の行啓までの50日間その準備に忙殺された。その間に在学生にチフス患者が出たので、それまでの頻繁な宮内官、中立売署員、憲兵らの視祭、指導に加えて内務防疫官、府警部衛生課員らが来校し緊張の度を加えた。11月24日の女学校教員会議では、24日から29日まで行啓のため健康診断、27日限り授業中止、28日以後の大掃除、奉迎送練習、同志社創立記念式典などの日程を決議している。同窓会も一体となって奉迎に奔走することになる。
かくて、28日の皇后入洛を普通学部全員が堺町御門内で奉迎してから12月10日の帰京まで、加茂神社、鞍馬ヘの行啓、御所出立に至るまで沿道の奉迎送に追われる。12月8日当日は、朝の礼拝から授業、作品展巡覧など3時間半にわたった。
行啓が終わって12月17日、海老名総長、新島八重をはじめ職員一同が集会して記録編纂を議した。そうしてできあがったのが『行啓記念・期報五十号』(1925年3月1日)である。海老名はつぎのように受けとめている。同志社は創立以来キリスト教主義を標榜したため政府当局から邪魔物とされ、国民多数からも嫌悪され、発展の障害となってきていたが、行啓は「因襲の僻見を綺麗にとり去り給うた」だけでなく、同志社人に「基督教の色彩が寧ろ稀薄になってゐたかと思ひ、自ら戒め、自ら恥ぢ、恐縮した位である。我々は今後基督教精神の鼓吹に一層努力すべき事を感ぜずしてはをられない。今や同志社が創立五十年を一期として、その本来の精神的教育を以て面目一新すべき時期にあるは、同志社内外より要求する所である、此際国母陛下の行啓が我々にとって多大の奨励となった事は、感謝して措く能はざる所である」(海老名弾正「皇后陛下行啓に就いて」『期報』50)。
『行啓記念』にはほぼ一致した見解が各人によって述べられている。この年の中等学校教員無試験検定校指定と並んで重要な年であったことは間違いない。たまたまこの時期をはさんで専門学部・普通学部ともに生徒数が急増している。同志社女学校の充実とそれらが一致したわけである。

  • 貞明皇后陛下の行啓 先導は松田道校長(1924年12月8日)
    2-57 貞明皇后陛下の行啓 先導は松田道校長(1924年12月8日)
  • 行啓当日来校の同窓会員
    2-58 行啓当日来校の同窓会員
  • 行啓当日の拝謁者 左から海老名みや、松田道、新島八重、海老名総長、デントン
    2-59 行啓当日の拝謁者
    左から海老名みや、松田道、新島八重、海老名総長、デントン

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寄宿舎

同志社女学校は明治期を通して実に小さな学校であった。専門科、普通科を合わせて1905年度に初めて200名を超したこともあったが、年度末には150名前後になっていた。しかし、そのころは遠隔地からの生徒の比重が大であった。たとえば1893年には京都市、府下合わせて18名(23パーセント)に対して、他は北海道を除く全国各地から入学している。通学生はわずか16名(20.5パーセント)であったのに対して寄宿生は実に62名(79.5パーセント)を占めていた。
当時女生徒の下宿は考うべくもなかったが、学校でも学則の中に「生徒は自宅より通学するものの他は凡て寄宿舎に入るべきものとす。但し特別の事情ありて入舎し難き者は教員会の決議を経て通学を許すことあるべし」と定め、この原則は大正期はもちろん昭和戦前まで一貫していた。寄宿舎生活においてこそ同志社女子教育の真髄を発揮し得ると考えられ、事実その役割はきわめて大であった。
初代の舎監は山本佐久(山本覚馬、新島八重兄妹の母)であったが、以後も教頭に比肩する重要なポストであったことには変わりがなく、宣教師をはじめ舎監としてすぐれた影響を与えた富森幽香、長谷場知亀、荒瀬かつ、間瀬八重などの存在を忘れることはできない。デントン、松田道も舎監をつとめた。
大正中期以降、普通学部は地方に高等女学校が普及するにつれて、京阪神の中流一般市民層と結び付きを強め、いわば地方学校化していったから寮生の比重は著しく低下した。しかし、専門学部は台湾、朝鮮、中国などの出身者も含めて地方からの生徒が集まり、依然として同志社女子教育に占める寄宿舎の役割は無視しがたいものがあった。たとえば1923年の専門学部455名中の185名が寄宿舎生で4割強を占めていた。この時期の寄宿舎を見ると、新島館は1階は普通教室と音楽教室に使われ、2階が寄宿舎になっていて初め英文科生がいた。これが新島寮である。この建物は新島襄自責の笞で著名であり、1903年男子部から移築された。新島館の東に家政館があり、ここは階下が料理実習室と食堂で、2階に家政科生が寄宿していた。この場所に1915年4月、専門学部専用の寄宿舎を増築し、常盤井殿町の町名にちなんで常盤寮と称した。ここには英文・家政の生徒がともに寄宿した。常盤寮の南約50坪を平安教会から借り入れて庭園を造り、環境は新面目を呈することとなった(『同志社大正四年度報告』)。さらに1919年11月ジョージ・A・プリンプトンの寄附によってプリンプトン寮(のちの栄光館の北側)が竣工し、ついで1925年9月には大澤善助の寄附した大沢寮が落成した(『しばぐさ』5~9)。
寄宿舎生活の一端を見ておく。1室に3~4人の上級生と下級生が配置されて家庭的な共同生活が営まれた。6時に起床のベル、7時の朝食までに部屋と廊下の拭き掃除をすませて「お静か」(静かに聖書を読み、朝の祈りをする)の時間を厳粛に守った。食事は寮生がグループに分けられ、交代で献立を作った。食事は全員が一堂に集い、教師か生徒が食前の祈りをして箸をとった。放課後は各自、自由な行動が可能であった。ウィークデーには昼間の外出も許されていた(明治期には土曜日のみ「舎監の許可を経て信任すべき同伴者を得、買物、又は散歩のため外出すること」ができると規定していた)。夕食後には夕拝があり、時には普通学部と合併で行うことがあった。松田道の折にふれての奨励は心にしみることが多く、ここで起き伏しをともにできる幸せを感謝したものであると回想する卒業生がいる。夜の勉強は3時間、10時が消灯であった。
日曜日は朝、当時は和服であったので、必ず襦袢の半衿をつけ直して清潔な装いで教会に出席する用意をした。聖日には半衿のつけ直し以外の他の目的のためには針仕事は絶対に許されず、聖書、修身の勉強や讃美歌を歌ったり、手紙を書く以外は禁じられた。クリスチャンは近くの教会、講義所などの日曜学校を手伝ってから、他の生徒は寄宿舎から整列して同志社教会の10時からの礼拝に出席した。夕には讃美礼拝がもたれた。日曜日には学科の勉強は禁止されていたが、試験期間中の月曜日には聖書、修身以外の科目は課されなかった。金曜日にも、夕方の祈禱会に日曜日と同様に同志社教会に寮生全員が出席した。
こうした寄宿舎生活を通して学校があり、舎監をはじめ先輩や友人との交わりの中から受ける心身への影響には大なるものがあった。寮生同士が心を同じくして静和館の塔で早天祈禱会を催すことがあったが、ミリアム・クワイア(聖歌隊)の活動も寄宿舎生活が生み出したものであった。これはイスラエルを救ったモーセの姉ミリアムにちなんで、1916年前後に常盤寮に起居を共にした寮生が同志社を救う陰の力となるいう意味で、宮川幹枝(英語担当、宮川経輝の長女)が命名した。上級生がリーダーとなり、クラップの後、ダンカン、シャネップ(Maxime E. Schannep)等が指導した。寮生有志によって結成されているだけに、夕食後、新島館階下の音楽室に集まって夕拝の時間まで練習ができた。毎朝の礼拝にプラットホームの横に並んで合唱を行った。日曜日は同志社教会の2階で讃美歌を合唱した。同志社大学のグリークラブと混声合唱をすることもあった。混声合唱が教会外でも、青年会館の催しに出演をしばしば求められた。同志社EVEではグリークラブ、マンドリンクラブ、ジュニア・グリークラブ、ホザナクラブなどとともに宗教歌をうたい、最後に全員がプラットホームに並んで同志社ソング(Doshisha College Song)を歌った。クリスマスイブには同志社教会でハレルヤ・コーラスを合唱した。
1927年3月6日静和館が外郭を残して焼失したとき、その改築資金募集の同志社女学校音楽会が京都(6月13日)、名古屋(10月29日)、岡崎(10月30日)で催されたがミリアム・クワイアは、名古屋、岡崎で助演して、シャネップが指揮し、柳兼子も独唱した(『期報』52)。寄宿舎生活の中から、こうした宗教集会その他への奉仕活動も生み出されていた。

  • 平安寮落成記念 1909年12月4日、女学校生徒学芸品展覧会を開催して祝った(現在の女子中高黎明館の位置)
    2-60 平安寮落成記念
    1909年12月4日、女学校生徒学芸品展覧会を開催して祝った(現在の女子中高黎明館の位置)
  • プリンプトン寮
    2-61 プリンプトン寮
  • 平安寮生の帰省(1910年6月)
    2-62 平安寮生の帰省(1910年6月)
  • 活水寮(1926年8月竣工) 1930年ころの寮生。洋服が多数派となる
    2-63 活水寮(1926年8月竣工) 1930年ころの寮生。洋服が多数派となる

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同志社女子専門学校の発足

すでに見たように、大正中期以来女学校の入学者は増加し、1927年度は総数1,449名に達し、専門学部も半数に近い719名を占めるに至った。この時期が専門学部の歴史を通して最盛期だったのである。実はこの後普通学部とは逆に、専門学部の入学者は減少していくのであるが、この充実を見た段階で両学部の分離が行われることになった。この年度から管理上各学部別々に部長を置くこととし、また、翌1928年1月普通学部を高等女学部と改称した。同時に財政も、教員会議も、専門学部と高等女学部とにそれぞれ分離独立させた。2月3日開催の女学校学友会総会では、学友会も両学部に分かつことを決議している。
こうした改組が進められる中で、きわめてユニークなのは、専門学部生徒の午餐会(教授会)への列席が実現したことである。1928年1月10日、専門学部最初の定例教授会(火曜日午餐時)において「週番を午餐会に列席せしむる事」が協議されている(同志社女学校専門学部「職員会誌(一)」)。おそらく松田道が提案したものと推定される(中島静恵「松田道」『同志社時報』25)。松田はブリンモア大学でB. A. をとり、同志社女学校に就任後も、再びブリンモア、コロンビア両大学に留学したが、高い学識に裏づけられた厳しさと抱擁力とをもって生徒をひきつけていた。1917年9月に学制変更が行われて社長の大学長、中学長、女学校長の兼任制が廃されて専任総長制に改められた。それはまた従来各学校の教頭に代わって校長が置かれることであり、女学校校長には水崎基一(臨時)、中瀬古六郎の後、松田が1922年2月に継いだ。同志社で最初の女性校長である。ただ1928年1月から再び女学校校長を総長が兼任することになり、松田は専門学部長となった。彼女が女専校長になるのは1932年4月である。ともあれ1928年1月17日、家政館食堂で開催の定例教授会に早くも週番生徒26名が出席した。つぎの1月24日の教授会(週番生徒27名出席)では、翌週から全14クラスの級長副長(隔週交替)および週番(AB各組より1名隔週交替)の出席と「発言杯は勿論自由なること」などを決めている(「職員会誌(一)」)。事実は傍聴に近いものであり、もちろんすべての議事に参加したわけではなかったが、教授会での松田のきびきびした発言は、生徒に深い印象を与えるものであった。松田時代のカレッジについてのひとつの識見をうかがうことができる。
1930年に同志社女学校専門学部と高等女学部は、それぞれ同志社女子専門学校(6月3日認可)と同志社高等女学部(9月25日認可)の別名称、別組織として再発足することになったのである。

  • D. W. ラーネッド教授の帰国 1928年、五十余年に及ぶ同志社での教職生活に終止符を打って80歳で帰国。夫人は女子部で教えた
    2-64 D. W. ラーネッド教授の帰国
    1928年、五十余年に及ぶ同志社での教職生活に終止符を打って80歳で帰国。夫人は女子部で教えた
  • シャネップ教授を中心に女専合唱団(ミリアム・クワイア)(1927年)
    2-65 シャネップ教授を中心に女専合唱団(ミリアム・クワイア)(1927年)
  • 柳宗悦教授を囲んで 前列中央は荻原芳枝教授
    2-66 柳宗悦教授を囲んで 前列中央は荻原芳枝教授
  • 同志社女学校音楽会 M. E. シャネップ、柳兼子が引率。火災で内部を焼失した静和館改築資金募集のため名古屋、岡崎に演奏旅行。岡崎にて
    2-67 同志社女学校音楽会 M. E. シャネップ、柳兼子が引率。火災で内部を焼失した静和館改築資金募集のため名古屋、岡崎に演奏旅行。岡崎にて
  • 1939年卒業寮生 前列中央の左から堀貞一牧師、片桐哲校長、長谷場知亀舎監、チョゴリの生徒も
    2-68 1939年卒業寮生
    前列中央の左から堀貞一牧師、片桐哲校長、長谷場知亀舎監、チョゴリの生徒も
  • 1942年常盤寮生
    2-69 1942年常盤寮生
  • 英文科卒業旅行 金剛山(現北朝鮮)にて(1927年10月)
    2-70 英文科卒業旅行 金剛山(現北朝鮮)にて(1927年10月)
  • 英文科卒業旅行 奉天北陵にて(1928年9月)
    2-71 英文科卒業旅行 奉天北陵にて(1928年9月)
  • 市電停留所 「今出川御門(同志社前)つぎは寺町」、建物は大学図書館(現啓明館)(1929年)
    2-72 市電停留所
    「今出川御門(同志社前)つぎは寺町」、建物は大学図書館(現啓明館)(1929年)
  • 英文科授業 (1927年)
    2-73 英文科授業 (1927年)
  • 家政科割烹教室 1915年家政館が完成し、当時日本には2台しかなかったオーブンが備えられた。1924年の貞明皇后の実習見学もこの教室で行われた
    2-74 家政科割烹教室 1915年家政館が完成し、当時日本には2台しかなかったオーブンが備えられた。1924年の貞明皇后の実習見学もこの教室で行われた
  • 同志社女学校 1920年代中ごろの普通学部、専門学部全校生、ジェームズ館東側
    2-75 同志社女学校 1920年代中ごろの普通学部、専門学部全校生、ジェームズ館東側



記念写真誌 同志社女子大学125年