1870 明治 3 7.14 新島襄、アーモスト大学卒業。B. S.(理学士)の学位を取得
1872 5 12.16 神戸の宇治野に英語学校開設、主任J. D. デイヴィス、英語・旧約聖書等を教授(のちの神戸女学院・同志社の共通の祖といわれる)
1874 7 5. 新島襄、アメリカン・ボード海外伝道局の宣教師補
  7.2 新島襄、アンドーヴァー神学校別科修了生として証書を受領
  9.24 新島襄、ボストンのマウント・バーノン教会で按手礼
  10.9 新島襄、バーモント州ラットランドで開かれたアメリカン・ボード海外伝道部の年会に出席し、キリスト教主義の大学を日本に設立することを訴え、5,000ドルの寄付を得る
  11.26 新島襄、米国より帰朝、横浜に到着
1875 8 7.10 J.D.デイヴィス、アメリカン・ボードへ女教師派遣を要請
  8.23 新島襄・山本覚馬の2名同志社を結社し、「私塾開業願」を京都府知事槙村正直宛に提出
  11.21 デイヴィスの家族神戸より上洛、上京十一区中筋通六八三番地 旧柳原前光邸に寓居
  11.22 京都府知事の要求により一切聖書を教えずとの書類一札を提出
  11.29 同志社英学校開業。生徒8名、校舎は寺町通の旧高松邸、教師は新島とデイヴィス
1876 9 1.3 新島襄、山本覚馬の妹 八重と結婚
  2. 新島八重とE. T.ドーン、新島宅で女子の教育に着手
  4.10 A. J. スタークウェザー、入洛、5月2日より毎日授業を開始
  10.24 御苑内旧柳原前光邸に女子塾(京都ホーム)を開設、寄宿生4名、通学生8名、合計12名。教師はスタークウェザーと新島八重
1877 10 4.21 柳原邸のデイヴィス方に女学校(女紅場)開設
  4.23 同志社分校女紅場開業願、学校所在地 第三大区京都府管下第五中学区上京第十一番小学区(現在の女子部の位置)
  4.28 同志社分校女紅場開業許可
  5. 同志社分校女紅場は、婦女子の勧業授産のためのものではなく、才芸知識を開達する主意なので、女紅場というよりは女学校と称すべきである旨、京都府勧業課より府学務課へ異議申立
  8.2 同志社分校女紅場を同志社女学校と改称する件、届出。9月21日認可
  10.6 H. F. パーミリーとJ. ウィルソン、神戸着
  11.20 常盤井殿町二条家の地所を材木商堀本利慶名義で購入(現在の女子部校地の南東部)
1878 11 7. 4 常盤井殿町に女学校の校舎竣工し、デイヴィス邸より移り、9月16日より授業開始
1879 12 5.28 京都府学務課員、同志社を視察。以後頻繁に行われる
  6.12 同志社英学校第1回卒業式、英学「余科(神学)」生15名に卒業証書授与。卒業生 宮川経輝と加藤勇次郎、女学校の教師となる
1880 13 6.5 パーミリーに往来免状・僑居免状
1881 14 4. 加藤勇次郎、宮川経輝、伊勢時雄 「修学志願ニシテ学資乏シキ者」のために「女子教育社」設置を計画
1882 15 6.29 女学校第1回卒業式を挙行、本邦科5名卒業
1883 16 5.10 スタークウェザー、ラーネッド夫人の病気につき同行帰国
1885 18 6. 明治十八年事件。アメリカン・ボードの決定によりA.Y.デイヴィス、F.フーパー女学校を辞去。同志社女学校の廃止を知った女学校生徒30名は再開を祈り嘆願書を校長に提出
    京都府学務課、女学校を各種学校扱いにして聖書の使用を認可
1886 19 1. V. A. クラークソン、F. フーパーを迎え、女学校再開
  6.25 同志社公会堂(チャペル)奉堂式
  9.29 デイヴィス邸に同志社病院の仮診療所を開き、京都看病婦学校の授業を開始。1887年11月15日正式に開校
1887 20 8. 「同志社女学校規則」を改正し、予備科3年、本科4年、高等科3年とする。「同志社女学校別科」科目としてM. E. ウェンライトほか3名のアメリカ人女教師による音楽科・割烹科・裁縫科・編物科・英語会話などを設け、ピアノの教育も行う(オルガンはドーン夫人が1876年から指導)
  8. 女学校に100名収容の新校舎完成
1888 21 4. F. ホワイト、V. A. クラークソンの後任として着任
    6.7 英学校・神学校・女学校・看病婦学校を併せて同志社学院とし、これを予備学部・普通学部・神学部および女学校に分かつ。女学校に2年制の師範・文学・神学の専門科を設置
  10.8 M. F. デントン、同志社に着任(1889年より女学校)
1889 22 5.28 同志社学院の名称を廃し、同志社女学校も旧称に復する
1890 23 1.23 新島襄、大磯の百足屋旅館で永眠
  1.27 同志社公会堂前で新島襄の告別式。式後、同志社生徒により若王子に運ばれ埋葬。臨時総長 山本覚馬
  9. 松浦政泰着任、 翌年女学校教頭に就任(~1901年4月)
  10.30 教育勅語発布、予備学校・普通学校・女学校に教育勅語謄本下賜
1891 24 6.25 小崎弘道、同志社第2代社長に就任
  9. M. H. マイヤー、F. ホワイトの後任として着任
1892 25 6. 「改革の概旨」を公にし、学科課程を補充科1年・予備科1年・普通科4年・専門科(師範科、文学科、神学科)各2年とする
  9. 女学校に新島文庫(女学校図書室)を創設
1893 26 6.28 同窓会発足。初代会長 能勢道子
  10.20 校章を制定。考案者は湯浅吉郎(半月)
  10.24 M. H. マイヤー帰国(これをもって宣教師が女学校の責任者となる体制は終了)
1894 27 1.1 『同志社女学校期報』創刊
  6. 専門科第1回卒業式(文学科・師範科各2名卒業)。普通科は第11回(7名)。恒例の卒業論文朗読会を行う
  12.3 初めて籠毬技(バスケットボール)を試みる
1895 28 5.9 女学校文芸大会が大教室で開かれ、音楽・演劇を行う
  6.27 女学校卒業朗読会が午前9時より女学校講堂で行われ、午後2時より卒業式を同志社公会堂(チャペル)で挙行
1896 29 4. 財産問題・教育主義問題をめぐり同志社とアメリカン・ボードが対立し、援助を謝絶、全宣教師が一時同志社を辞任(8月21日)
  11.29 新島先生追悼会を兼ね、同志社創立記念会が例年開催されるようになる
1897 30 4.21 女子部正門西側にある老松に、「かたみの松」と命名(元所有者二条基弘公爵による)。同窓会は母校創立20周年記念祝会を開催
  5. 同志社病院および京都看病婦学校の経営を佐伯理一郎に一任する旨決定
  6.24 デントン、伝道活動の一環として出町講義所に幼稚園を開設。9月よりラーネッド夫人に委託
  8.20 横井時雄、第3代同志社社長に就任
  9. 同窓会東京支部発足。以後各地に支部創設
  12.28 『同志社女学校期報』を第9号より『女学校期報』と改称
1898 31 2.23 徴兵猶予の特典を得るため、同志社通則の中のキリスト教主義教育綱領を削除し、このため紛糾
  6.28 新島八重、同窓会長に就任(~1899年7月)
1899 32 3.11 臨時社員会において同志社問題の争点となった綱領削除の条項を復活。さらに同志社の組織を強固にするため財団法人の組織に改め、寄付行為を制定
  7.18 同志社通則改革後第2回の理事会が開かれ、松浦政泰女学校教頭が女学校存続につき意見を述べる。理事会はアメリカン・ボードより援助を得られなくとも女学校を維持することを決議
  7.21 西原清東 第4代同志社社長に就任
  8.3 文部省訓令第12号(教育と宗教の分離、宗教教育の禁止)出される。女学校は1885年以来聖書を教科書として使用しており、あえて各種学校扱いを選ぶ
  11.9 女学校生徒、奈良に修学旅行
1900 33 1. 女学校専門科の第二外国語にフランス語を加える。教師 村上春太郎
    専門科の改正カリキュラムから神学科廃止
1901 34 3.1 同志社男女学校の有志職員による第1回イングリッシュクラブ開催
  3.22 女学校学則改正の件、認可。予備科を廃し、普通科を高等普通部と改め、新たに同志社女学校専門学部を設置
    4. 普通科の学年始めを4月に変更。専門科は従来どおり9月入学
  5.3 琵琶湖湖畔の三保ヶ崎で開かれた同志社のボート競漕会を女学校生徒見学
  10.8 同志社諸学校の公式名称に「私立」を冠し、私立同志社女学校とする
  10.11 M. F. デントン同志社に復職
1902 35 3.27 片岡健吉、第5代同志社社長に就任
  9.17 女学校寄宿舎に電灯がつく
1903 36 3. 普通部を普通学部と改称し、研究科をおく。専門学部を高等学部と改称し、文科(3年)・家政科(2年)を設置
  5. F. A. ロンバードが同志社チアーを創案、“One, two, three. Who are we? Rah, rah, rah, Doshisha”
  10. デントンによりバザーが初めて催され、在校生・教職員・同窓生が協力(収益金1,184円90銭)
  12.11 女学校文学会(従来の文芸会)第1回会合を女学校講堂で開催。会長 小池いく子
  12.13 寄宿舎新島寮の奉堂式
1904 37 3. 下村孝太郎、第6代同志社社長に就任
  3.30 同窓会大会開催、松田道会長に就任。年2回発行の『女学校期報』は、経済上の都合で年1回発行に決定
  4.8 女学校の課程は高等女学校程度とし、高等学部は3年とする
1905 38 12.8 同志社創立30周年記念祝会(於同志社公会堂)
1906 39 3. 女学校家政科寄宿舎落成。通称「家政館」
  5.26 第1回女学校運動会を校内運動場で開催
  6.28 高等女学部第28回卒業生による募金およびアメリカ合衆国フィラデルフィアのヴォークレイン夫人よりピアノを寄贈。850円、運賃150円
  8. 「同志社女学校規則」で高等学部文科・家政科ともに3年とする
1907 40 1. 女学校の徽章、金色の同志社校章にDGS(Doshisha Girls School)の3字を付したものに制定
  1. 原田助、第7代同志社社長に就任
  5.28 女学校創立第30年祝会を校内で開催。式後校内でバザーを開き、夜は公会堂(チャペル)において文科生の発起による記念音楽会を開催。卒業生が縮緬の校旗と国旗を寄附
  11. 新島八重、邸宅(寺町丸太町上ル)を同志社へ寄附
  11.29 寮生が数年前から行っていた若王子山頂での早天祈禱会を学校主催とする。参集者二百余名

記念写真誌 同志社女子大学125年