同志社女学校の音楽教育
明治期日本における西洋音楽の導入にアメリカ・プロテスタント各派の宣教師による讃美歌教育が大きな役割を果たしたとの事実が、最近の研究から明らかになっている。その讃美歌教育が行われた場がキリスト教の女学校であった。
とくに同志社における音楽教育は注目に値する。なぜなら、同志社に派遣されたE. T. ドーン宣教師が、メーソン(お雇い外国人として政府より招かれ来日した最初の音楽教師)から送られたチャートを使って音楽の指導をしたことにより、同志社英学校および同志社女学校は日本でもっとも早い時期から本格的な音楽教育が施された場所のひとつとみなされているからである。
京都ホームにおいて、初代の女性宣教師スタークウェザーによる讃美歌とオルガン教育が早々に開始されていた様子を伝える以下の手紙がある。
いま、お春さんがオルガンを弾きながら「主我を愛す」を英語で、「主は我が飼い主」を日本語訳で歌っているのが聞こえてきます。彼女は4月3日にホームに来たばかりですが、もうこれらの讃美歌を大変上手に弾き、歌うことができるのです。この手紙があなたの許に届く頃には、もっと多くの讃美歌を彼女に教えているでしょう(1877年5月19日付、ウーマンズ・ボード、チャイルド会長宛)。
このお春さん(本間春)は2年半京都ホームにいて、婚約者本間重慶が彦根教会牧師として赴任する頃には、「教会で収録している讃美歌のほとんど全てを美しく弾く」(1878年10月19日付クラーク宛)ことができるほどの技術を身につけて、同志社女学校を去っていく。彼女の場合は、同志社女学校の正式開校以前からの、同志社英学校生徒のヘルプミート(ふさわしい助け手)を育てるという女学校本来の目的を具現した好例といえる。
同志社女学校では1878年6月初めて出した「同志社女学校広告」の規則欄に、当今教授する21学科のひとつとして「音楽」を挙げて以来ずっと、課程表には音楽(唱歌)が含まれていた。また、1880年度の時間割(前出)からも明らかなように、それは唱歌のみならずオルガン演奏の指導も含んでいたのであるが、時間割がこのように整備されて以後、入学した生徒に中島茂千代がいた。父は彦根城主井伊家に仕える藩医であったが、茂千代は同志社女学校卒業(1886年)後、音楽取調掛(東京音楽学校)に進学した。彼女の場合は女学校で音楽を学んだ結果、さらに高度の技術を習得するために音楽の専門学校に進んだケースである。
同志社女学校の音楽教育は、クラークソン「校長」時代の1887年5月に音楽を専門に教える宣教師としてM. E. ウェンライト(Mary E. Wainwright)が着任したことにより、一段とレベルアップされることになった。彼女はアメリカン・ボード派遣の宣教師としては、来日前に音楽の専門教育を受けていた最初の女性である(Ripon&Tabor Conservatory of Music卒)。ウェンライトが来た1887年に出された「同志社女学校別科規則」の中には、割烹科、裁縫科、編物科、英語会話のほかに、当然のことながら、音楽科が挙げられている。内容として「発音法、楽譜、唱歌、ヲルガン、ピヤノ」が記されており、他の科が1か年であるのに対し、音楽科と英語会話は3か年卒業となっている。
このウェンライトの教えを受けた生徒の1人、林外浪(1882年入学、88年卒業)が、1892年に「英学及音楽修業之為」に留学した。文部省関係の音楽留学生でもっとも早く留学するのが、1889年東京音楽学校で最優秀の生徒、幸田延であるが、わずかその3年後のことであった。
ついで、1897年、98年と相ついで、2人の生徒が留学したのは林よりも本格的な音楽修業のためであった。すなわち、山口義はイエール大学に、(「大学院音楽学部に在籍」「日本人で最初の音楽学校生徒」『同志社アメリカ研究』13)、そして、松田幸はボストン音楽学校(のち、ベルリンに移り、女性ピアニスト、イエドリッカに4年間師事)への留学である。松田の留学の1年後の1899年に、2人目の文部省派遣の音楽留学生として安藤(幸田)幸がウィーンに行くのであるが、音楽専門学校からではなくリベラルアーツの女学校で学んだだけで、より高度の音楽研鑽のため、この時期に渡米したという事実は相当高く評価してよいであろう。彼女たちは、初期の同志社女学校の音楽教育の金字塔であったと言える。
同志社女学校卒業生
第1回卒業式は1882年6月で邦語科5名の卒業生が出た。全員がクリスチャンであった。以後、第2回には英語科2名、第3・4回は邦語科と英語科各1~2名、第5回からは本科と名称変更して4~6名の卒業生が出る。そして、第9回1892年に新旧両課程合わせて24名という大量の卒業生を出して以来、毎年10名以上の卒業生を世に送り出すことになる。その結果、第1回卒業生を出して10年後の1892年には同窓会の結成、新島文庫(女学校図書館)の開設と、卒業生たちが母校の強力な支え手となっていった。キリスト教主義女学校を自分たちの手で担おうとの意識と実力が卒業生たちに備わってきたのである。これらの卒業生たちは、日本におけるキリスト教女子教育をもっとも早い時期に経験した女性であり、ここで初めてキリスト教女子教育を担う資格を有する日本女性が出現したことになる。
つぎに、卒業後の進路を『同志社女学校期報』第5号に付けられた「同志社女学校要覧」から見てみる。第5号が刊行されたのは1896年であるが、同窓会が結成されてから5年目、普通科は第12回、専門科は第2回卒業生を出した年である。統計表によると、これまでの卒業生総数は計90名、それに加えて、卒業時まで在籍はしなかったが、同窓会員となっているものが26名である。その計116名の内訳は、既婚者46名・未婚者70名で、特徴的なことは、既婚者の相手が教役者(牧師)11名(ほかに中退者5名、以下、カッコ内の数字は中退者)・実業家6名(3名)・官吏4名(2名)・教育者3名(2名)・医師4名(1名)・政治家1名(1名)・弁護士1名の順で、いわゆる知識階級に属する夫を持っている者が6.5割を占めることと、牧師の妻がもっとも多いことである。
未婚者のほうは、教育に携わっているもの、すなわち教師がもっとも多く25名(約3.6割、3人に1人)で、内訳は女学校(10、1)・小学校(5、1)・幼稚園(2、2)・養育院等(3、1)(いずれも後の数字は中退者)の順である。2番目に多いのが修学、いわゆる、上級学校進学者17名(約2.4割、5人に1人)で、同志社女学校(10)・他の内国女学校(1、4)そして、外国女学校(2、1)と当時すでに留学をしていた者も3名あったことを示している。その他に、伝道に携わっている者が約1割の計6名(5、1)、米国および国内で看護の職に就いている者各1名と、計52名約4分の3の同窓生がいわゆるキャリア志向であること、残りの18名約4分の1のみが斉家、家を整え治めることに従事していたことがわかる。当時の女学生の意識および社会的地位の高さを示している。
具体的に名前を挙げると、この時の外国留学生は林外浪(第6回本科卒、イリノイ州ロックフォルド大学)・土倉政(第7回本科卒、ペンシルヴァニア州ブリンモア大学)・松田道(明治20年同志社女学校3年の時、横浜フェリス英和女学校に転校、25年同校卒業。その年、もう一度同志社女学校専門科文学科に入学。在学中に、26年津田梅子提唱による米国留学生第1回奨学生に選ばれて留学。この時期にはブリンモア大学で勉学中)の3名である。他の内国女学校というのは、ほとんどの場合、東京の明治女学校(第7回本科卒竹内梅、広瀬恒、第8回本科卒杉山照、第9回改定本科卒岡寿美ら)ヘの進学であり、竹内梅は卒業後、同校の教師に就職している。同志社女学校の専門科に進学した者も、専門科に籍を置きながら助教として普通科の生徒を教えた。
正式に女学校教師となった者10名の勤務先を挙げると、大阪の川口女学校(土田常)・明治女学校(竹内梅)・同志社女学校(濱田知亀)・岩代若松会津女学校(中山咲)・川口普留女学校(永井鶴)・鳥取英和女学校(緒方幸)・熊本尚女学校(内田行)・甲府美以女学校(足利芳枝)・東京の東洋英和女学校(岩崎菊枝)・彦根高等女学校(森脇糸)であり、広い範囲で卒業生が活躍している様がうかがえる。伝道の仕事に従事している者のうち4名は、同志社女学校で身につけた英語力を活かして、それぞれ肥後八代(田中五)・備後福山(三輪永)・伯州米子(松木喬)・長州山口(半田多喜)で、外国人伝道者を助けながら伝道をしている。また看護に従事している者2名はいずれも第9回卒業生であるが、長野久は北米合衆国市俄高府のバプテスト看病婦学校卒業後、同市の病院に勤務。田中定は京都看病婦学校卒業後、しばらく広島赤十字病院に勤務し、当時は近江三雲で看護術の教授をしていた。
つぎに、卒業時まで学校に留まらなかったために、同志社女学校卒業生の中に名はないが、女学校創設期に男女共学体験をした生徒として、ぜひとも記録に留めておかねばならない3人の生徒がいる。それは、徳富初(徳富蘇峰・蘆花の姉)、伊勢(横井)宮(横井小楠の長女)、山本峰(山本覚馬の長女)のことである。前の2人は熊本時代、キャプテン・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes、1837-1909)の学校で男子とともに学んだ経験はあるが、その時は廊下に机を置いての受講であった。しかし、同志社英学校での勉学は同じ教室内で、名簿(成績表)にはアルファベット順に男子学生の間に名前を記載されての、文字どおりの男女共学であった。3人はそれぞれ湯浅治郎夫人・海老名弾正夫人・伊勢(横井)時雄夫人となり、それぞれ夫の社会的な働きを支え、家庭の内外にクリスチャン婦人としての生き方を証した。海老名宮は牧師夫人だけにとどまらず『新女界』の編集にあたるなど生涯にわたって社会的にも活躍をした。また、土倉政の姉、富子も一時期、同志社女学校で学んでいたが、政財界で活躍した原六郎夫人となって内助の功を尽くした。
もう1人、同志社女学校の中退者で、のちに韓国で活躍した生徒に淵澤能恵がいる。彼女が同志社女学校に在学したのは1882年から85年までであったが、それまで米国で働いていたため、同志社に来た時にはすでに32歳であった。在学中、他の寮生にとっては「母親のような人」「非常に評判の良い徳望家」(『創設期の同志社』)と慕われたが、「明治十八年事件」の後、同志社女学校を中退。その後、東洋英和・下関洗心・福岡英和・熊本女学校で教鞭をとり、1905年55歳で韓国に渡った。1910年から淑明高等女学校(翌年から淑明女子高等普通学校)の学監、12年から36年没するまで同学園第2代理事長を勤めた。この学園が大学課程まで設置し韓国女性の指導者を養成することが彼女の夢であり、遺言により寄贈された退職金は、1939年設立された淑明女子専門学校の設立基金の一部に使われた。ひたすら教育界に貢献した故人の功績は学校葬において大いに讃えられた。
「同志社女子部の母」デントン
1888年に来日して以来60年、太平洋戦争の間も帰国せず女学校に在任したM. F. デントン(Mary Florence Denton)は、同志社にいる間、前述の婦人宣教師たちのように、「校長」職に就くことは一度もなかった。しかし彼女は滞在期間の長さ、独特の個性、同志社女学校に対する思い入れという点で群を抜いていた。その影響力は女子部において、同志社大学における新島襄に匹敵するものがある。「世界で一番良い国は日本、日本で一番良いところは京都、京都で一番良い学校は同志社、同志社の中で一番良いところは女子部」というデントンの言葉は、同志社女子部をこよなく愛し、そのために生涯を捧げた彼女を知る者には少しの違和感も感じさせない。
デントンの女子部に対する功績は大きく三つに分けることができる。まずは目に見える形での貢献である。すなわち、同志社女子部の校地を拡張し校舎・学寮を建て、教育設備を整えるために、自らは清貧の生活をしながら巨額の寄付を集めたことである。具体的には、同志社女子部を支援していた太平洋ウーマンズ・ボードに対して繰り返し募金の依頼をする、在外の友人・知人に同志社の存在をアピールする、あるいは京都を訪ねる外国人を都ホテルに訪ね、女子部構内のデントン・ハウスに招待して寄付を求めるなど、その熱意の徹底さは周りのものを驚嘆させた。しかし、そのお陰で静和館、ジェームズ館、家政館、平安寮、栄光館が建ち、しかも栄光館にはパイプ・オルガンが設置された。それは自らの生活は二の次にして学校のために奉仕することの大切さを生徒たちに身をもって示すことになった。
第2にはピューリタン的なキリスト教教育の徹底である。毎朝行われる礼拝を怠けて休もうとする生徒を隠れ場所に追いかけ礼拝出席を促す、濃厚な化粧をしている生徒を洗面所に連れていって洗い落とさせるなどのエピソードは数限りない。その方法に行き過ぎはあったかもしれないが、彼女の信念に基づいた行動は叱られる者にとって「すがすがしい恐ろしさ」と感じられ、決して嫌みはなかったと印象づけられた。また過ちを詫びに行くと、すぐに許し美しい花を与えて帰したとのことである。
最後に、彼女は同性である女性に対して、決して卑屈にならず威厳を持ち、かつ積極的に社会と関わって生きる大切さを教えようとしたことである。亡くなる10年前に遺された「覚書」の中で、女性であっても権利はしっかり主張せよ、女子の学校の校長はやはり女性が望ましいと述べているが、彼女の願いは、その生き方に強く影響された初期の生徒たちの卒業後の生涯の中に、確実に受け継がれていった。
『つぼみ』発刊―関西におけるキリスト教女学校の連帯―
前に引用した1890(明治23)年4月の「同志社女学校々況」記事(『つぼみ』4)の中に、当時の生徒数の紹介がある。それによると、本科3年4名、2年13名、1年16名と続き、つぎに予備科に移って3年28名、2年甲組23名、乙組15名、そして、1年15名で総員114名とある。まず気のつくことは、学年による人数のアンバランスであろう。本科3年が4名と少ないのは、「明治18年事件」の余波であるかもしれないが、予備科1年が前年の38名に比べて半数以下の15名というのには、当時の社会的状況が大いに影響している。すなわち、1889(明治22)年大日本帝国憲法、翌90年教育勅語の発布に伴い日本は急速に右傾化していき、キリスト教に対する逆風が強く吹き始めた結果である。
そこで、関西のキリスト教女学校関係者(最初は同志社・梅花・神戸英和・山陽英和女学校の4校、最終号は計10校──前記4校に加えて、鳥取英和・松山・熊本・清流・一致・神戸松蔭の各女学校)が集まって女文会という組織を作り、機関紙『つぼみ』を発行することになった。発行の主意は、「姉妹校の修交」「文学の奨励」「女学の開進」のためであった。『つぼみ』の前身は、梅花女学校単独で発行されていた『梅花余香』であり、その主目的は「生徒の文章表現力の訓練」であったが、今度は、それに加えて現在、存在理由が危うくなりつつあるキリスト教女子教育の基礎固めと更なる発展、および加盟校同士の連帯を強めることが強く意図された。関西にあるキリスト教女学校が連帯することにより、この危機を乗り切ろうと企てたのである。
具体的には、女文会の会員である同盟校生徒と、特別会員として加わった同盟校の教師・社員・卒業生らが、『つぼみ』誌上で、互いに問題点を出し合い議論し合うことによって、キリスト教女学校の気運を興隆ならしめ、その重要性を社会に知らしめようというのである。彼らは誌上で交流を図るのみならず、大阪・神戸・京都の順で年に1回女文会大会を開き、各校から教師・生徒が参加してカリキュラムの内容や程度について意見の交換をし、相互の親睦を図った。また、京阪神間に連合して女子専門学校を設置する案が議せられるなど、ネットワークの賜物といえる成果もあげることができた。全体として印象的なことは、教師と生徒が互いを「我等」の呼称で呼び合い、ともにキリスト教主義女子教育の意義と重要性を論じ合うことにより、この苦難の時代を乗り切る同志としての連帯感・信頼感が行間にあふれていることである。
『つぼみ』は1892(明治25年)4月第24開(号)をもって終刊となった。しかし、短い期間であったが、『つぼみ』誌上でなされた会員相互の、真摯で、迫力ある意見の交換は、当時の女生徒の成熟度、教師のキリスト教女子教育に対する熱意を十分に伝え、現在の読者をも感動させる。
明治20年代に吹き始めたキリスト教に対する逆風の中を、キリスト教女学校の教師と生徒が、単にそれぞれの属する学校内だけでなく、相互に協力しあい友好を深めつつキリスト教に基づく人格教育の擁護に努めたこの試みは、現在のキリスト教教育関係者に多くの示唆となるものを持つ。