新島襄の脱国と帰国

これまでの新島襄研究の中では、新島の日本脱出行は、彼のやむにやまれぬ「憂国の情」によって決行されたものであるとの面が強調、説明されてきた。
しかし、近年、青年新島の、もっと複雑な内面の精神世界から、脱国の動機を見直そうという動向が顕著になってきた。すなわち、窮屈な江戸安中藩邸から見上げる四角い空ではなく、大海原の上に広がる大きくて丸い空を求めて、新島七五三太は江戸を離れた。この海を渡れば、大統領を国民が選ぶ国がある、その国ではもはや藩主の顔色をうかがう必要はなく、学びたいと願う学問を心ゆくまで学ぶことができる、そこには宇宙を造り給うた天の父を信じ、その教えに従って自由に生きる道が備えられているといった「櫪からの脱出」に注目してみる見方である。
そのような思いを胸に国を出た新島七五三太青年に、アメリカではハーディ夫妻との幸運な出会いが待っていた。1865年10月から足掛け10年間、ハーディの援助のもと新島はフィリップス・アカデミー(Phillips Academy)、アーモスト大学(Amherst College)、そして、アンドーヴァー神学校(Andover Theological Seminary)で真剣に学ぶことができた。また折しも訪米中の岩倉使節団に協力して、米欧の各地で教育の現状を視察するという機会にも恵まれ、脱国の罪は問われないことになった。彼の求めていたもの、否、それ以上の恵みがすべて与えられての帰国となった。そして今度は、キリスト教によって日本の国を変えようとしてアメリカの岸を離れた。

  • ミス・ヒドン
    1-32 ミス・ヒドン
  • 新島襄のミス・ヒドン宛書簡(1876年3月27日)
    1-33 新島襄のミス・ヒドン宛書簡(1876年3月27日)

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「アメリカの母」たち

滞米中のみならず、帰国後も新島には、実母以上に慕っていた「アメリカの母」たちと呼べる女性が3人いた。ハーディ夫人(Susan H. Hardy)、シーリー博士夫人(Elizabeth T. Seelye)、そしてミス・ヒドン(Mary E. Hidden)である。この3人はともに信仰篤い婦人たちであり、愛情細やかな手紙を何通も新島に送って、失意の時の、あるいは病床にある新島を慰め励まし た。また、おのおのの家庭にあっては、ニュー・イングランドの典型的なクリスチャン・ファミリーの生活を彼に実体験させてくれた。そして、それは八重との夫婦生活の中で見事に実践された。
しかし、「アメリカの母」たちがどのような教育を受けたかということは新島にはあまり関心がなかったようである。さらに、新島がもっともよく出入りしたハーディ家に娘がいなかったことも、アメリカにおける女子教育について考える機会を失することになったかもしれない。滞米中アーモスト大学のすぐ近くにあるマウント・ホリオーク・セミナリー(Mt. Holyoke Seminary)を使節団と一緒に一度訪ねているが、強い印象を受けたようでもない。また、日本を出る以前の新島の眼中に、女性の教育の貧困さを不審に思う気持ちがなかったとしても不思議ではなく、したがって、帰国直後の新島に「英学校を創るなら女学校も」という熱意が、他の宣教師たちほど強くなかったとしても無理もないことであった。

  • アーモスト大学に入学したころの新島襄
    1-34 アーモスト大学に入学したころの新島襄
  • 新島の脱国扮装 アーモスト大学在学中に級友の求めに応じて再現したもの
    1-35 新島の脱国扮装 アーモスト大学在学中に級友の求めに応じて再現したもの
  • 新島襄のハーディ夫人宛書簡
    1-36 新島襄のハーディ夫人宛書簡
    (1887年11月23日)
  • シーリー夫人
    1-37 シーリー夫人
  • ハーディ夫人
    1-38 ハーディ夫人

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J.D.デイヴィス・山本覚馬・新島襄

新島の帰国に伴い、デイヴィスらの考えていた牧師養成のための学校設立案が徐々に具体化してきた。そして急遽京都案が浮上した1875(明治8)年6月ころには、男子の学校を作るなら、それとペアの関係にあるキリスト教主義の女学校もという案がミッションの俎上に上り始めていた。新島と協力して同志社英学校を創りつつあった山本覚馬とJ. D. デイヴィスが女学校の設立に大変熱心であったからである。
覚馬はゴードン宣教師から贈られた『天道遡源』によってキリスト教の教えに開眼し、日本の道徳的退廃はキリスト教の倫理によらなければ正すことはできないと確信していたし、そのためにも女子をキリスト教によって教育することが必須と考えていた。また、府立の女紅場で働いていた妹八重がキリスト教に興味を示したからといって退職させられたという現実が、一日も早くキリスト教主義女学校を設立しなければとの思いに拍車をかけることになっていた。
一方、神戸で宇治野村英学校の校長を務め、同時にダッドレー、タルカットによる女性のための特別教室を目の当たりにしていたJ. D. デイヴィスは、それまでいわゆる儒教の教えのもとに自らを卑しめていた日本の女性たちが、神の前では男子も女子も人格として対等であるというキリスト教の教えにふれることにより、人間としての尊厳に目覚め、独立心を示すなど新しいタイプの女性に育っていくのを驚嘆の眼を持って見ていた。
それゆえ、J. D. デイヴィスは京都にトレーニング・スクール(アメリカン・ボードは牧師養成学校の謂で同志社英学校をそう呼んでいた)が建設されるとの構想が持ち上がったときから、それとペアの関係にある女子の教育機関が必要であると熱心に主張していた。彼は日本ミッションに対してその必要性を主張するのみならず、ボード本部に対して、女生徒の教育者となる独身女性宣教師の派遣を幾度となく要請していた。なぜなら、この時点でその仕事は独身女性宣教師によってしかできなかったからである。
そのような状況の中で、新島襄は少しずつ女学校創設に関心を持ち、実際上の仕事に関係していっただろうことは容易に想像される。後述するように、結婚したばかりの八重は新島宅でドーン宣教師夫人と女学校を始めることになったし、スタークウェザーが来日すると、新島も「京都ホームの教師として確保された」(1876年5月10日クラーク宛)りしたからである。実はそのことが、新島とスタークウェザーの関係を最後まで具合悪くし、スタークウェザー帰国のころには、新島にとって女学校は問題が多すぎて、「予ニ於テ百方手ヲ尽シタレトモ事成ラス、空ク手ヲヒキ自滅ノ途ヲ取ラシムルノミ」(1882年12月27日同志社記事、『新島襄全集』Ⅰ)とまで言わしめるに至るのである。

  • J. D. デイヴィス 京都にキリスト教主義女学校を設立することにもっとも熱心であった
    1-34 1-39 J. D. デイヴィス 京都にキリスト教主義女学校を設立することにもっとも熱心であった
  • 京都府知事槙村正直宛「外国女教師(スタークウェザー)雇継願」 5年間の期間延長を願い出たもの
    1-40 京都府知事槙村正直宛「外国女教師(スタークウェザー)雇継願」 5年間の期間延長を願い出たもの
  • 山本覚馬 J. D. デイヴィスとともに、京都にキリスト教女学校設立の必要を主張した
    1-41 山本覚馬 J. D. デイヴィスとともに、京都にキリスト教女学校設立の必要を主張した
  • W. A. P. マーチン著『天道遡源』(写真は1860年版)(吉海直人氏所蔵)
    1-42 W. A. P. マーチン著『天道遡源』(写真は1860年版)(吉海直人氏所蔵)
  • M. L. ゴードン 山本覚馬に『天道遡源』を贈ったアメリカン・ボード宣教医
    1-43 M. L. ゴードン 山本覚馬に『天道遡源』を贈ったアメリカン・ボード宣教医
  • 神戸時代のJ. D.デイヴィスからN. G. クラーク宛書簡(1875年8月9日)「京都に英学校ができるなら是非ともペアの関係にある女学校が必要であり、そこで教える独身女性宣教師の派遣を要請する」とアメリカン・ボードに訴える書簡
    1-44 神戸時代のJ. D.デイヴィスからN. G. クラーク宛書簡(1875年8月9日) 
    「京都に英学校ができるなら是非ともペアの関係にある女学校が必要であり、そこで教える独身女性宣教師の派遣を要請する」とアメリカン・ボードに訴える書簡

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「女学校問題」と新島夫妻の役割

1877(明治10)年4月、女学校の正式開校に校長新島の存在は無くてはならなかったし、スタークウェザー雇入届出も新島の名前でしなければならなかったことは前述した。スタークウェザーに続いて、翌1877年10月京都ホームで働くために来日したパーミリー(Harriet Frances Parmelee)とウィルソン(Julia Wilson)に関しても、新島は「同志社女学校雇入願」をただちに京都府に提出した。しかし今回は槙村知事は容易には許可をしなかった。新島は府の理不尽な不許可回答に対しては、辛抱強く文言の書き替え、中央政府への訴えを繰り返すなど大変な熱意と労力でもってパーミリー雇い入れを実現させた(1880年)。新島の労苦は並大抵なものでなかった(ウィルソンは許可が待ち切れず、1879年岡山ステーションに移った)。  
新島とスタークウェザーとの不幸な関係は、1878年夫人八重の母山本佐久が新校舎の舎監として女学校に住み込むようになったときからいっそう深刻になった。すなわち、スタークウェザーがホームの中でもっとも大切と思っている「生活を通してのキリスト教の感化」を、山本佐久と八重母子が邪魔立てをするというのである。

要するに、ホームの中には新島夫人とその母によって決められた不文律、「この屋根の下の全ての事はできる限り外国人教師には知らしめない」があるのです。そして、始めのうちはほとんど全ての生徒が私たちに素直に耳を傾けているのに、何かの決定的な合図が与えられたときから、私たちに対する信頼は失われ、なんとも気鬱な雰囲気がホーム内に漂い始めるのです。(……)そうなると、私たち宣教師が何を言おうが何をしようが、その影響力は著しく弱められてしまうのです(1882年2月4日クラーク宛)。

この問題を裏づけるものとして、いつも全体を見回して客観的な報告を送ると定評のあるラーネッドの「女学校問題報告書」がある。それは、1884年7月10日付で長年にわたる京都ホームの問題を5点にまとめて、ボード書記N. G. クラーク(Nathaniel George Clark)に報告したものである。その4番目に新島夫人の存在を挙げ、「彼女は大筋において、優れた夫人であるが、京都ホームでは役に立たないばかりでなく、彼女の影響力が女教師に対して不利に作用し、不平分子を煽り立てる結果になっており、このことは事態を一層難しくしている」と述べている。山本佐久・八重母子が絡んで、京都ホームの異文化摩擦はいっそう輻湊したのである。
さらに、ラーネッドが問題点の2番目に挙げているのが、「この国では、新島さえ、女性が学校の長になるという考えになじめないこと」であるが、日本社会に根強くある男尊女卑思想は女学校の責任者としての意識を強く持っていた女性宣教師と日本人男性教師との間に大きな軋轢を生む結果となった。ラーネッドはこの手紙の最後の部分で、ちょうどこの時期、2度目の外遊をしている新島に、女性の権限を支持することの大切さを助言してもらえないかと、ボード書記クラークに依頼している。
この助言が功を奏したのか、それとも新島自身、女性が校長になることの意義を十分に理解したのか、2度目の外遊から帰国した後の新島は、女学校のことに関しては女性宣教師(この場合V. A. クラークソン)の主導権を認め、積極的に支援するようにさえなった。当時女学校の国語教師をしていた池袋清風が「同志社英学校ノ如ク内外教員同権ノ説ヲ主張シタルニ理事員等皆服セシモ新島校長大ニクラゝクソン女ヲ信用シ玉フノ処ニ投シ」(『同志社百年史 通史編一』)と、新島が委員会でも女性校長支持の姿勢をはっきりと示していたことを不服そうに報じている。
このように、新島は帰国前後の消極的な女子教育関与の姿勢から、今やはっきりと女権擁護者に変身したのである。

  • 山本佐久 山本覚馬と新島八重の母 女学校の舎監を勤める
    1-45 山本佐久 山本覚馬と新島八重の母 女学校の舎監を勤める
  • D. W. ラーネッド夫妻
    1-46 D. W. ラーネッド夫妻
  • 新島襄・八重夫妻 1876年1月3日御苑内柳原邸にてJ. D. デイヴィス司式により京都で初めてのキリスト教式結婚式を挙げたころ
    1-47 新島襄・八重夫妻 1876年1月3日御苑内柳原邸にてJ. D. デイヴィス司式により京都で初めてのキリスト教式結婚式を挙げたころ
  • A. J. スタークウェザーのバイブル・クラス(1877年)英学校と女学校の生徒がともに学んだ(1・2 本間重慶と許嫁はる 4・3 大西鍛と妹しず 7・8・5 下村孝太郎と姉妹ちきとすえ 9・6 伊勢[横井]時雄と妹みや)
    1-48 A. J. スタークウェザーのバイブル・クラス(1877年)英学校と女学校の生徒がともに学んだ(1・2 本間重慶と許嫁はる 4・3 大西鍛と妹しず 7・8・5 下村孝太郎と姉妹ちきとすえ 9・6 伊勢[横井]時雄と妹みや)
  • 新島八重と女学校初期の生徒たち(1878年ころ)
    1-49 新島八重と女学校初期の生徒たち(1878年ころ)
  • 京都府知事槙村正直宛「外国女教師(H. F. パーミリー)入京免状の下附を督促する願」 1877年同志社女学校で働くために来日したパーミリーに対して、槙村府知事がなかなか許可をしないので、新島は大変苦労をした
    1-50 京都府知事槙村正直宛「外国女教師(H. F. パーミリー)入京免状の下附を督促する願」 1877年同志社女学校で働くために来日したパーミリーに対して、槙村府知事がなかなか許可をしないので、新島は大変苦労をした

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新島襄の女子教育への思い

最初は書類上の責任者として始まった新島の同志社女学校との関わりは、同志社女学校に対してだけというよりは、広く日本の女性全体に対する女子教育の関心へと大きくふくらんでいった。たとえば、1878年7月の岸和田伝道において、最初のうち伝道集会に集まってきたのが男子ばかりであるのをみて、新島は「キリスト教は男子だけのものでなく女子にも等しく伝えられるべきもの」(1878年8月2日)と女性の集まりを提案し、2日にわたって百名を超える女子の集会を実現させたことなどは、「アメリカの母」たちへの尊敬と愛情を通して新島の女性に対する意識が高かったことを示す早い時期の好例である。「新島氏はキリスト教が男性のみならず女性のための宗教であると宣言した最初の人だと好意を持って受け入れられています」(1878年8月28日チャイルド宛)と、宣教師文書で報告されている。
新島はまた、アメリカン・ボードと関連して設立される女学校には協力を惜しまなかった。同志社女学校だけでなく、神戸英和・梅花女学校の教育を後押しするために、同志社英学校の卒業生を何人も両校に送り込んでいるし、前橋に共愛女学校ができるときには新島自身が発起人の1人になった。また、同志社女学校だけでなく梅花女学校では式典に招かれ、女学生へのメッセージを述べているし、熊本遊説に出かけた折にも、日本に文明の基を築くために女子教育は必須であると説いた。
さらに、彼の死の1か月前に矯風会書記の佐々城豊壽に宛てた「頼みたき事業」の中には、新島の女子教育観の集大成とも言える熱い思いが吐露されている。

貴姉に頼みたき事業あり、そは外の事ならず女権を拡張することにもふ一層の力を盡されたし(……)先づ女学校生徒に人権を重んずべき事と慷慨心を起さしむるの一事是なり(……)一体婦人は社会改良や社交の事には男子よりも勢力あるものなり(……)今貴姉(とよ壽)に如斯事業を託するは愛姉の命を縮むる様のものにて私情に於ては忍びざる事ながら(……)御身達決して失望することなく倦むことなく憚ることなく断然世の革命者と成られよ。否世の改良者と成りて働らかれたし(『女学雑誌』198)

この時期、生命の終わりを自覚していた新島襄にとって、日本女性に対する精神的自立と社会改良事業への積極的な参画を願う気持ちは、同志社大学設立の願望とともに、ますます強くなっていたと言える。

  • 同志社女学校第1回卒業生5名(1882年6月)後列左より田代初・山岡登茂、前列左より河辺外居・土田常・高松仙。全員クリスチャンだった
    1-51 同志社女学校第1回卒業生5名(1882年6月)後列左より田代初・山岡登茂、前列左より河辺外居・土田常・高松仙。全員クリスチャンだった
  • 新島襄「女学校第1回卒業生への告示稿」
    1-52 新島襄「女学校第1回卒業生への告示稿」(1882年6月)
  • 佐々城豊壽 (『日本基督教婦人矯風會五十年史』)
    1-53 佐々城豊壽 (『日本基督教婦人矯風會五十年史』)
  • 「新島襄先生の遺訓」(『女学雑誌』198号、1890年2月1日発行)。矯風会書記佐々城豊壽が逝去1か月前の新島から聞いた言葉を寄稿したもの。活動のために身を削っている彼女たちに対して、「世の革命者と成られよ、否世の改良者と成りて働かれたし」と檄を贈っている
    1-54 「新島襄先生の遺訓」(『女学雑誌』198号、1890年2月1日発行)。矯風会書記佐々城豊壽が逝去1か月前の新島から聞いた言葉を寄稿したもの。活動のために身を削っている彼女たちに対して、「世の革命者と成られよ、否世の改良者と成りて働かれたし」と檄を贈っている



記念写真誌 同志社女子大学125年