戦時下体制
1930年代を通して教育の国家統制、軍国主義化は強化徹底され、30年代は1939年の「青少年学徒ニ賜リタル勅語」下賜および文部省の各学校宛修文練武の方針訓令とで括られる。大学高専の修業年限短縮については前述したが、さらに1942年8月閣議は中高等学校などの学年短縮要網を決定、その行き着くところは1945年3月の国民学校(小学校)初等科を除き1年間原則として授業を停止するという決戦教育措置要綱の閣議決定であった。この間、学生生徒の錬成と戦時動員体制が確立され、その極限には学徒出陣があった。1943年11月15日の同志社出陣学徒壮行式は男子部運動場で挙行された。女子部も授業を中断して参加し、校門を出る男子学生を見送った。その前日には栄光館で出陣学徒壮行音楽会が催された。女子にも、出陣しないまでも逃れる道はなかった。未婚女性は女子挺身隊員として軍需工場などに動員配置され、1944年初めには無職未婚女子の動員体制は12~40歳に拡大されている。進学しても、農繁期援農勤労奉仕などに留まらず、工場への通年動員がなされ、太平洋戦争下、学校教育は実質的に停止され、戦時下の極限状態に立ち至らしめられたのであった。
女子部においては、1941年2月の青少年学徒食糧飼料増産運動実施の文部省通達を契機に、岩倉農場(1,500坪)が開かれることになった。このほか下鴨の野々神町(370坪)、加茂川畔(500坪)にも農地を求めている。やがて校庭も芝生をはいで畑にした。当然クラス単位の農園作業が課されることになった。こんな記録もある。「農園ノ藷盗難ニカヽル急ニ取入レルコトヽシタリ百貫ヲ昨日トリ入レタリ頒ツコト、保存スルコト、学校ニテ収穫シタルモノハ供出スルコトガ立前デアル但シ家事実習等ニ用フルタメナラバ差支ナシ、統制ヲ紊サザル範囲ニ生徒ニ頒ツモ差支ナシ」(「職員会誌九」1943年10月5日)。
工場へは1942年11月以降しばしば出動命令を受けて勤労報国隊として祝園(大阪陸軍兵器補給廠祝園部隊)に出動した。中村貢、加藤さだ、大西マサエ教授らが付き添い、各10日の宿泊中に片桐校長らが慰問に訪れている。教職員の防護当直、防空当直も1942年7月から始められた。
防火用貯水池掘り作業は1943年7月より同志社大学生が応援して始められた(11月完成、栄光館前東側、現在の女子中高駐輪場の位置)。並行して待避壕(栄光館前西側)掘り、防空壕(常盤寮南側、現在の心和館南側ほか)掘りに大学予科生徒が加わって進められた。
それでもなお、授業は防空訓練(救急看護担架運搬法)防護団訓練、教練などでも頻繁に中断されながらも、学校としての面目は辛くも保っていた。
しかし、1944年には戦時下体制強化への質的転換が決定的となり、生徒はついに学校の枠を超え軍需工場に通年動員されるに至ったのである。前年の「学徒戦時動員体制確立要綱」および「教育ニ関スル戦時非常措置方策」に加えて、1月18日に「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され、2月19日付文部省次官名で、これを「強力ニ実施シ戦力増強ニ挺身セシムルト共ニ戦局ノ現段階ニ処スベキ学徒ノ教育錬成ヲ完カラシムル」ことを命じた。
通年動員は、1944年9月に3年生が卒業した後、11月11日に英語科2年生が第31海軍航空廠(府下与謝郡栗田村)へ、23日に家政科2年生が三菱重工業京都発動機製作所(桂)へ、それぞれ動員されることになる。1943年4月入学後1年8か月で正規授業は全く打ち切られ、翌45年9月に卒業するまで、実質的な授業を受ける機会は無くなったのである。1年生は、44年5月入学後8か月余りで、45年1月18日に三菱重工業第14製作所(太秦)に動員された。かくて病弱の少数残留生徒を除いて、主人公を欠いた、学校に非ざる学校となるのである。寮生は学寮から工場に出勤した。栗田では現地工場の清明寮に入寮した。
工場には、深夜に及ぶ二直制から三直制に強化されていく苛酷な労働条件と食糧難、空襲などが待っていた。45年4月の太秦工場への空爆の実情報告も「内容ハ機密」とされ、空襲時の対策を協議している(「職員会誌十」1945年4月17日)。5月、桂工場の一部は逢坂山の旧東海道本線の大谷トンネルに疎開し、生徒も大谷工場に移った。一方、農場も放置できない。片桐校長は教職員に「時局急迫ト共ニ急速ノ食料増産ニ努力ヲ傾注シ一面職員及生徒ノ食料ノ一部ヲ自給自足シ他面国家ノ割当責任供出ヲモ完ウセンガ為最大限ノ御協力ヲ」、「工場監督指導ノタメ出張」ほかの依頼をし、割当表も通知している(45年3月6日)。6月には「本校戦時報国農場の麦の収穫、甘藷の整地、挿苗のため」、三菱重工業株式会社神武第8製作所長に宛て、動員中の生徒の農場勤務を願い出ている。府庁の動員課からは「残留組を事務方面に動員させる」ことを求めてきたが、これに対しては「農園もあり胸部疾患が多いから応じかねる旨返事」をしている(「職員会誌十」45年4月6日)。
戦時下最後のクリスマス礼拝は女専・高女部合同で12月8日午後の1時間を予定していた。しかし、早朝の大詔奉読式の後、空襲警戒警報が発令され中止された。22日になって、午前中約1時間聖書朗読と音楽を中心にした讃美礼拝を守ることができた。この日も、直後に空襲警報が発令されている。合同とはいえ、もはや前年までのように女子部を挙げて行うことはできず、残留生によって空襲を避けながら、かろうじて挙行できたのであった。高女部も女専にさきがけて鐘淵工業京都工場(高野)、三菱電機伊丹工場(兵庫県塚口町)、京都精工(紫野)、鐘紡(高野)などに通年動員されていた。1945年2月4日からは防護団の宿直が始まる。
1945年4月21日の女子部創立記念日は、動員中の生徒を出席させるため、17日の工場電休日に繰り上げて、女専・高女部が合同で挙式し、式後の演芸会は加藤さだ、加藤てい両教授が指導して催された。
本土決戦が日程に上がる情勢の中で、6月26日、同志社女学校学徒義勇隊結成式がファウラー講堂で行われた。片桐校長を大隊長に、両校とも学年、クラスを中隊、小隊に編成したのであった。新入生はまだ入学していない。文部省が高等専門学校入学者は6月まで従来の中等学校在学中のまま勤労に従事することを指令していたからで、入学式はようやく7月11日に行われた。その日の午後には、全同志社連合学徒隊結成式が挙行され、残留する全同志社の在校生が列席している。敗戦はもう目前に迫っていたのであった。
女専の改組
女専の生徒数が減少し続けていたことは前述した。しかし、1939年度を最低に実入学者数は反転して、以後は急増している。教育本来の目的に期待するところとともに、前年の国家総動員法、この年の国民徴用令の制定と無関係であったとは考えにくい。
男子校、とくに私立文科系にとっては、大学の専門学校への転換が企てられ、定員の2分の1削減、入営延期の中止などの苛酷な統制に呻吟しているときであった。これに対して、女専は「前項の整理の目標の外とし、其の教育内容に付ては男子の職場に代はるべき職業教育を施すが為に所要の改正を行ふ」(「教育ニ関スル戦時非常措置方策」1943年10月閣議決定)と、むしろ拡充を意図し、翌年1月「女子専門学校教育刷新」が発表された。
同志社女専でも、43年度中から厚生科新設の準備が進められていた。文部省の意見を斟酌した同志社案が立てられ、看護婦保健婦養成の実習場には、同志社厚生館、佐伯病院が擬された。しかし、結局は、厚生科の学科課程は家政科と重複しているきらいがあり、文部省の示唆により育児、被服、家政などに分科して、家政科充実の次善の方針をとることにして、同志社女専は、1944年4月、新制度を発足させた。
これによれば、英文科は「文科外国語科英語科」に、家政科は「家政科育児科」および「家政科保健科」に改組され、また、従来4年制高等女学校卒業生のために設置していた1年制の英文科予科は、中等学校の学年短縮に伴って廃止されることとなった。教授会では学力の低下を危惧している。
新制度最初の入学生は英語科36名(志願者44名)、育児科74名(同131名)、保健科144名(同363名)で、家政科が圧倒的であった。翌45年度はさらに増加、英語科63名(志願者94名)、育児科82名(同185名)、保健科178名(同620名)である。
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- 3-86 フランス語クラス 1930年ころ、この年度、ドイツ語10名、フランス語33名
いくさのおわり
7月11日になってようやく新1年生を迎えることができて、臨時の時間割で12日から授業を開始した。新入生を歓迎すべき上級生はすべて出動中であった。工場公休日の7月24日に計画されていた歓迎音楽会も空襲警報発令で中止された。「敵機小型及ビ大型ノ編隊度々学園上空ヲ通過セリ」(高等女学校「日直日誌」)、この日は5回断続して空襲警報が発令された。歓迎会はつぎの公休日8月14日に延期されたが、各工場が公休日を5日に変更したため、結局この日に操り上げて催すことができたのだった。そして改めて6日以後25日までの授業計画を伝達した。
「職員会誌」の8月14日の項には「義勇戦闘隊編成報告」と記されている。そして翌8月15日には正午の「終戦の詔書」放送の後、午後2時から臨時教授会を開き、翌16日にも開催している。その段階では「時局ニ応ジ冷静善処シ殊ニ言語態度ヲ慎ミ徹頭徹尾聖旨ヲ奉承以テ聖意ニ副ハンコトヲ期シ施設行事等ハ指示ヲ待ツ態勢ニ在ラン」(「職員会誌十」8月16日)とした。17日には桂と太秦の動員解除、8月20日より8月末日まで全校夏季休暇とすることを決めた。これをこの日の午後6時に在寮生に発表、通学生には20日月曜日午前7時半に伝えることとし、他方、市内在住生徒による農園作業を継続することも決めている(「職員会誌十」)。
つぎの教授会は8月20日に開催され、この時までの文部省の各種通達が片桐校長から伝えられた。また栗田動員状況(山添道子舎監)、学徒出迎えのための栗田出張(加藤謙爾教授)、太秦動員のこの日の引揚状況(末光信三教授)などがそれぞれ報告された。さらに府立第一高等女学校における協議会の文書焼却(対連合国不穏文書、動員計画を示唆するごときものほか)のことも報告された。この後も頻繁に教授会が重ねられ、戦時下体制の教育断絶後の、新しい教育理念が模索された。
かくて9月1日授業が再開された。初めて全校生徒が学び舎に帰ってきたわけである。しかし、京都府学務課は連合国軍の京都進駐にそなえて休校勧告を行い、これを受けて9月4日の教授会は、とりあえず翌5日の授業は予定どおりとし、終業後生徒に当分の間休校することを伝達することにした。6日には校内作業(防空壕の埋め立て、清掃、校内農園)、岩倉農園作業の中止も決めている。文部省専門教育局長から9月2日付で、卒業式は9月15日以降9月中に挙行すべきことが示達されていたから、3年生は終戦後の授業は4日間のみで卒業式を迎えなければならなかった。
このため、卒業証書は9月27日に授与されたが、全員が登校できるような状態ではなかった。卒業式は、改めて10月29日に栄光館で挙行されたが同様であった。旧課程最後の卒業生である。この学年は3年卒業とはいえ、実質の授業期間は農作業、防空演習、教練などに中断されながらの1年半そこそこにすぎず、学校当局は9月中旬ごろから卒業生のための「研究ノ組織ヲ計画」することを始め、これを「研究科」と称した。動員中の学力不足の補充を企図したものであり、10月15日の始業式とともに始め、翌46年3月まで開講された。卒業生の約57.4パーセント(英文30名、家政67名)が在籍した。研究科は3月28日終了して送別音楽会を催し、29日に修了式が挙行された。
府学務課視学は、9月末になっても通知するまで当分授業を休止する旨通達し、10月に入ってようやく8日以後解禁とした。「来る十月十五日(月)午前八時より正規授業開始」の通知を、待機中の生徒に宛て発送したのは3日であった。しかし、入寮や遠距離通学生には交通手段、食糧事情からも大変な困難があった。
この間の9月25日に連合軍の京都進駐が行われた。10月15日には始業式に引き続いて加藤さだ教授が進駐軍に対する心がけについて訓話している。その後も、進駐軍との風紀問題に関して、たとえば夜間外出厳禁などの注意が繰り返しなされている。
他方、11月1日の礼拝は進駐軍アメリカ兵による讃美礼拝が行われ、12月8日のクリスマス・ページェントには進駐軍が参列した。前日の7日午後は練習のため授業を中止している。24日は大津進駐軍への「クリスマスサービィスに生徒出席、帰りが遅くなるから寮舎ヘ宿泊させること」(「職員会誌十」12月22日)などとも記している。1年前には想像だにできないことだった。
授業は再開されたが食料をはじめあらゆる物資は窮乏していた。試験答案用紙は、すでに1944年から反故紙を用い、その答案用紙の氏名を墨で消して裏側を会議資料、簿冊などに利用した。教材用の印刷用紙は入手困難で、ついにそれを「生徒より提出させること」(「職員会誌十」11月21日)も決めなければならなかった。冬になってもストーヴの燃料が手に入らなかった。教室での外套、手袋の着用を認めている。ゲートルや靴下などの乏しい配給についても記録されている。食糧増産のための教職員、生徒の農園作業は継続しなければならなかった。
新しい息吹
1945年は未曾有の敗戦と混沌の中に暮れ、46年の新年には天皇の人間宣言など、至るところに新しい曙鼓を聞きながらも、なお幾多の現実生活の困難に翻弄されなければならなかった。この年には、それらがにわかに改まったわけではないが、明らかにひとつの時代が画されていくことになる。食糧難は端境期を迎えていっそう深刻さを増し、占領下で学制の根本的改革が打ち出され、学校でもそれに対処しなければならなかった。
こうした終戦後の混沌を一応総括したと考えられるのは、1946年2月4、6、7の3日間にわたって開催された同志社女子専門学校精神教育懇談会である。同志社大学教授魚木忠一を講師とし、「新島精神の現代的意義」の講演を聴き、牧野虎次総長、有賀鉄太郎(精神教育委員長)、茂義太郎(同委員)らも参加した。この会について片桐校長はつぎのように通知している。
終戦以来日本は平和国家建設の理想達成の為、民主々義を指導原理として新発足仕候処同志社に於ても之に呼応し精神教育の基本原理確立の為同志社教育委員会が組織せられ、過日その第一回の委員会が開催せられ候真の日本民主々義は同志社から起こるべきものであり、同志社女子教育から誕生すべきものなることは吾人の確信に御座候、軈て新学年を迎ふるに当り、教職員の新島精神体得こそ第一義であり、従って「新島精神体得者に依る人格的感化」こそ教育の核心かと被思料候、就而左記により女子専門学校精神教育懇談会開催仕候間御多端のこととは存じ候へ共万障繰是非御出席被下度此段御案内申上候
第2次世界大戦後においても、同志社の教育理念とし再確認されたのが創立者新島襄の精神であったことは幸いであった。
この年の2月現在の、学校が行った「生徒生活調」中の第8項の「宗教教育状況」にはつぎのように記されている。
- 1. 毎日午前十時ヨリ三十分間講堂ニ於テ施行 礼拝ノ順序
- 一、前奏(パイプ・オルガン)生徒入場
- 一、青年讃美歌
- 一、聖書朗読
- 一、奨励
- 一、祈禱
- 一、後奏生徒退場
但シ毎金曜日ハ音楽礼拝ヲ行ヒ生徒ノ情操教育ニ充ツ
- 2. 聖書
- 一、英語科、育児科、保健科各科各学年ニ於テ毎週一時間ノ聖書講義ヲ課ス
- 二、学友会宗教班ニ於テ特別講師ヲ招聘シ聖書研究会ヲ開ク、毎学期一回
- 3. 学友会宗教班ノ活動状況
- 一、毎木曜早天祈禱会
- 二、毎土曜日朝拝司会担当ス
- 三、宗教講演会
- 四、夏季修養キャンプ生活
- 五、文芸班音楽班共同主催ニテ基督降誕劇ヲ開催ス
他方、大正時代からの長い歴史を持っていた学友会は、1941年4月、文部省の指令によって報告団に改組されていた。しかし、今度は「終戦ニ際シ従来ノ学校報国団ハ之ヲ新シキ見地ニ立チタル校友会ニ改組シ学校ト表裏一体タル関連ニ於テ学校教育ノ補充的機能ヲ発揮シ愈々校風ノ振作ヲ図ルモノトス」(「校友会新発足ニ関スル件」昭和20年9月26日付、文部次官)として、改組を指示し、文部省への報告を求めた。同志社女専では、学友会に戻すべく細則作成委員が起草に当たった。その過程では「本会ハ基督教主義ニ基キ新日本建設ニ貢献スベキ女性ヲツクルコトヲ以テ目的トス」(第2条)という文言があったが、文部省への報告(1945年11月22日付)では、「本会ハ会員ノ知徳ヲ涵養シ身体ヲ鍛練シ相互ノ交誼ヲ厚クスルヲ以テ目的トス」(第2条)となっている。かくて教員と生徒を会員とし、校長を会長とする全23か条と2項からなる新会則のもとに、学友会は11月1日に再発足することとなった。しかし、これとは別に生徒の自治会的なものを組織すべく会合があり、学校もそれを認めていたようである(たとえば1945年11月7日の「昨日の自治会の報告約40名出席」。1946年5月14日の「級長及自治会委員ヲ生徒側ヨリ挙ゲタモノヲ今学期ノミ承認ス、1年生ハ担任ヨリ推薦」などとある(「職員会誌十」)。
1946年3月は、3年生はすでに前年9月に卒業していたから、前記の研究科生の修了式のみであった。この困難な時代を担った同志社女専の教授陣は1945年度を送る時点では、専任24名、兼任18名であった。このなかには、同志社女学校創立以来常に役割を担ってきた外国人教師、宣教師は1人も含まれていない。戦時下にも日本に留まったデントンは、89歳の老齢で戦時下を耐え抜いた病躯をデントンハウス(現在の新心館の位置)に横たえていた。
1946年度の入学式は5月13日だった。5月7日の「職員会誌」には「始業式ノ後ニ生徒大会ヲ開キ組長ヲ選挙シタイトイフガ如何」とある。前記の5月14日の記述はこれを受けて決められたものである。「最近遅配ノ為ニ弁当ヲ持参スルコトガ困難ナルガ故ニ授業ヲ午前中ニスルカ四十五分授業ニシテ欲シイトノ生徒側ヨリ要求ガアル」(5月29日)、「食糧問題等関聯シテ生徒ノ代表達ト懇談スル予定デアル」、「生徒ノ内部ニ食糧不足カラ夏休ミニ早クシタイトノ意向モアルガ、出来ルダケ辛抱シテヤレルダケヤリタイト思フ」(6月5日)、「自治会デハ早クヤメテクレ、校長ハ六月末デ打切ルコトニシタガ」、「三年生ハ勉強不足デアルカラ食糧問題モアルガ七月十三日迄授業シタイ」(6月25日)などは時代の中の自治会の動向をうかがわせる。結局1、2年生の第1学期終業式は6月29日に、3年生の修了式は7月13日に行われた。女専学生会は1947年9月に発足する。会則第2条は「本会は学生の自治機関にして会員教養の向上を図り、身体を練磨し相互の交誼を厚くし、以て学生生活を有意義且豊かならしむるを目的とする」とうたっている。1949年1月の会則では「本会ハ同志社立学ノ精神ニ基キ学生ノ自治ニヨリ学生生活ノ充実発展ヲハカリ全学生ノ総意ヲ実現スルコトヲ目的トス」と改められている。この年の12月17日のクリスマス・ぺージェントは学生会が主催している。
他方、教授会は「本年ハ教授学術研究発表会ヲ九月中に開催スルコト」とし、各科より研究者を委嘱することを決めている(4月18日)。6月18日には学術講演会を開催した(今谷逸之助「形態心理学に於ける『環境』」、藤井義久「ブラウニングの詩に於ける『神』について」)。
1946年10月にはクラップ、ヒバードらが同志社に帰任する。