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※所属・役職は掲載時のものです。
八重は「荒城の月」のモデル?
吉海直人(日本語日本文学科 教授)
中学唱歌として有名な「荒城の月」は、明治三十一年に土井晩翠が作詞し、それに滝廉太郎が曲を付けたものです。九州育ちの私は作曲家滝廉太郎つながりで、大分県竹田の岡城がそのモデルとなっていると教えられました。ところが作詞家土井晩翠の方では、仙台の青葉城あるいは会津若松の鶴ケ城がモデルになっているとされています。そのため「荒城の月」の記念碑は、岡城址・青葉城址・鶴ヶ城址の三ヶ所に建立されています。どれもそれなりに根拠のあるものですから、本家争いに決着は付きそうもありません。
それ以外に「荒城の月」の歌碑は、岩手県・東京都・長野県・富山県・兵庫県などにもあります。そのうち岩手県二戸市九戸城址のものは、林檎狩りに訪れた晩翠が、自ら「荒城の月」を書き残したことによるそうです。また富山県富山市富山城址は、滝廉太郎が小学校時代三年間通った縁によるものだそうです。なお東京都千代田区の歌碑は、滝廉太郎居住地跡に建てられています。どれもそれなりの理由があるわけですね。
さて肝心の鶴ヶ城ですが、昭和二十一年に県立会津高等女学校での講演の折、晩翠は多少のリップサービスもあったのか、「荒城の月」は鶴ヶ城のことを思い浮かべて作詞した旨を話しました。それを聞いた地元の人々は大いに驚き、早速記念碑建立委員会を設立し、翌年の六月五日には晩翠夫妻を招いて、盛大に除幕式が行われたとのことです。なお現在の鶴ヶ城は、昭和四十年に再建されたものです。
ということで「荒城の月」の歌詞には、白虎隊の自刃をはじめとして、義に殉じた会津藩士の悲劇が籠められていることになります。ここまでくるといよいよ八重の登場です。これまでの説明で、「荒城の月」の「荒城」は十分納得できましたが、「月」については何も説明されていません。その「月」が、八重の歌に見事に詠み込まれているのです。
参考までに上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)で「荒城の月」項目を見ると、
落城二日前の九月二二日、冴え渡る月光の中、のちに同志社大学総長=新島襄夫人となる山本八重子が「明日よりはいづくの誰か眺むらん 馴れし大城(おおき)に残る月影」と鶴ケ城の壁に朱箭で一首の歌を書き残したという逸話が、晩翠の心に深い感銘となって刻み込まれ、「荒城の月」のモチーフを形成したと言われている。
(加藤理執筆)
と八重の名前が挙げられているではありませんか。これがどんな文献を根拠にして書かれたのかわかりませんが、おそらくは東海散士の『佳人之奇遇』だと思われます。ただしそこに八重の名前は出ていませんから、八重の作であることはまた別の文献によっているのでしょう。
いずれにしても、八重の詠んだ「月」が「荒城の月」のモチーフとなっている可能性は高いと思われます。八重の秘密がまた一つ解明されました。

(所蔵 : 吉海直人 教授)
